第三十七章:勲章と大局
前の話で出てきた「大局」という言葉ですが、
便利な言葉でもあります。
それをどう使うかは、人によって違います。
大元帥府の執務室は、重苦しいほどの静寂に包まれていた。
最高執政官アクィラ・ソルは机に広げた図面を、指先でゆっくりとなぞっていた。
大型魔導装置の試作案。まだ概念の域を出ていない、荒削りな設計図だ。
扉の脇には、近衛統領ガイウス・アウレリアンが彫像のように直立して控えている。
コン、コン。
遠慮がちな、だが切羽詰まったノックの音が響いた。
アクィラは図面から目を離すことなく、短く命じた。
「入れ」
若い伝令兵が、血相を変えて滑り込んでくる。
「——軍情局の重要参考人移送に、問題が発生しましたか」
アクィラの声は平坦だった。
「は、はい! 移送中の傭兵が……ヴァン・ラーク特別監察官により制圧され、死亡を確認。現在、同監察官は軍情局へ帰還し、監察部と一触即発の事態になっているとのことです」
アクィラの図面をなぞる指が、ピタリと止まった。
ゆっくりと、鷹のような鋭い眼差しが伝令兵に向けられる。
「……この速さで動いたか」
珍しいことに、その低い声には微かな驚きの色が混じっていた。
「どうやった」
伝令兵は引きつった喉で唾を飲み込んだ。
「南区の大通りです! 軍情局正門より北へ僅か三百メートルの地点で、傭兵が拘束を破り暴走。そこに偶然居合わせた特別監察官が、民衆を避難させつつ単独でこれを制圧。暴走した傭兵の魔導回路を直接破壊したと……報告されております」
「……民衆の目の前でか」
「は、はい! 現場では、彼を称える万雷の喝采が上がったと……」
アクィラは、しばらくの間、言葉を発さなかった。
そして——その無骨な唇の端が、僅かに、本当に僅かに持ち上がった。
「ガイウス」
「ハッ」
「お前は、どう評価する」
ガイウスは一拍置いて、一切の感情を排した声で答えた。
「民の命を護った功績は『勇』、損傷した B 級を単独で仕留めたのは『智』。帝国軍にとって、模範となる行いです」
「……ふん」
アクィラは短く鼻を鳴らした。
そして、机の上の図面を静かに折りたたむ。
「軍情局へ行け」
「御意」
「——授勲だ」
軍情局、監察部。
室内は、文字通り爆発寸前の火薬庫と化していた。誰も動かない。
ヴァンは一度だけ、深く息を吸った。
「——先輩たち」
魔薬部の男が振り返る。
「もういいです」
「しかし坊や」
「大丈夫です」
ヴァンはシュタインの方へ向き直った。
「投獄するなら、どうぞ」
「……何?」
「どうせ、無罪釈放になります」
シュタインの額に、青筋が浮いた。
「……その自信はどこから来る。連れていけ」
シュタインが短く命じた。
魔薬部の局員たちが、渋々と道を開ける。
部下二人がヴァンの両脇に立った。
その時だった。
廊下の奥から、重い軍靴の音が響いた。
コツ、コツ、コツ。
監察部の兵たちが、わずかに顔を見合わせる。
——この階に、近衛が来るはずはない。
次の瞬間。
「——そこまでだ」
唐突に、だが絶対的な威圧感を伴った声が、開け放たれた扉の向こうから響いた。
全員の視線が入り口に向く。
そこには、近衛統領ガイウス・アウレリアンが静かに立っていた。
(——こいつ……)
ヴァンは思わず息を呑んだ。
前回の誣告事件の時もそうだった。絶体絶命の土壇場に現れた、大元帥の懐刀。
(また、親父が動いたのか? いや、早すぎる。民意が届いたか? それとも……)
ヴァンの脳裏に、大元帥府の奥でふんぞり返る、あの不遜で強大な『父親』の顔がよぎった。
(……あのジジイ、評価してたのか)
そう気づいた瞬間、ヴァンの背筋が自然と真っ直ぐに伸びていた。絶対的な後ろ盾が動いたという確信が、彼に不敵な底力を与えたのだ。
シュタインもまた、ガイウスの姿を認めた瞬間に魔力の放出をピタリと止めていた。
近衛統領が直々に軍情局の取調室に現れる。それが意味することを、優秀な官僚である彼が理解できないはずがない。
「……近衛統領閣下」
シュタインが、ギリギリと奥歯を噛み締めながら頭を下げた。
「我が監察部に、何の御用でしょうか」
ガイウスは室内を一瞥し、短く答えた。
「授勲だ」
沈黙。魔薬部の局員たちでさえ、ポカンと口を開けた。
「……失礼ですが、どなたへの」
「ヴァン・ラーク特別監察官へ、だ」
シュタインの顔から、一切の血の気が引いた。
ガイウスは、ヴァンを取り囲んでいる抜刀した監察部の部下たちを、静かな、だが凍りつくような眼差しで見渡した。
「勲章を、罪人のような者の胸に掛けろと言うのか」
部下たちが怯え、シュタインの顔を窺う。
シュタインは石のように動かなかった。だが、やがて目を固く閉じ——。
「……解け」
ガイウスはゆっくりと歩み寄り、背筋を伸ばして立つヴァンの正面に立った。
室内の空気が、一気に凍りつく。
監察部の部下たちは息をすることすら忘れ、魔薬部の局員たちも微動だにしない。
「気をつけ」
ヴァンは帝国軍の正式な作法に則り、踵を鳴らして直立不動の姿勢をとる。
ガイウスの手が、胸元の革袋を開いた。
取り出されたのは、鈍く光る銀の勲章だった。帝国の象徴、名誉の証。
それが、ヴァンの外套の左胸、血の滲んだ包帯のすぐ上に、静かに留められた。
「白昼の危機において帝都の臣民を護りし功績、大である」
ガイウスは一歩下がり、軍靴を鳴らして完璧な敬礼を送った。
ヴァンもまた、右腕の痛みを堪えながら、鋭い敬礼でそれに応える。
「以上だ」
ガイウスはそれだけ言うと、踵を返し、来た時と同じように無音の足取りで去っていった。
長い沈黙が残された。
ヴァンは左胸の銀の勲章に一度だけ目を落とし、それから、幽鬼のような顔で立ち尽くすシュタインを見た。
「……きれいな勲章ですね、シュタイン部長」
シュタインは何も言い返せない。
「罪人の胸に掛けるには、少し綺麗すぎる気がしますが」
「……」
「では、俺はこれで」
ヴァンが一礼して歩き出すと、魔薬部の局員たちが「お疲れ様です、特別監察官閣下!」とわざとらしく道を開けた。
「——行け」
ヴァンの背中に向けて、シュタインが絞り出すような声を投げた。
「二度と、本官の前にその顔を見せるな」
「善処します」
ヴァンは振り返ることなく、取調室を後にした。
軍情局の正門を出ると、午後の陽光が眩しくヴァンの顔を照らした。
「若旦那ァーッ!」
背後からワイルドが小走りで追いついてくる。息を切らしながら、周囲を気にして声を潜めた。
「あっし、ついさっきまで自分の目を疑いやしたよ! あの土壇場での授勲——まさか、近衛統領が来るのまで若旦那の計画の内でさァか!?」
ヴァンは首を横に振った。
「違う。大元帥閣下が直接動くとは、俺も読んでいなかった」
「じゃあ、完全に運が良かったと?」
「いや」
ヴァンは空を見上げた。
「……あのジジイは、俺のやったことを『正しい形』に直しただけだ」
それ以上は何も言わなかった。
ワイルドは歩きながら、信じられないものを見る目でヴァンを見上げた。
「……若旦那は、本当に恐ろしいお方でさァ」
「最高の褒め言葉として受け取っておく」
「いや、本当ですよ! あっし、今日だけで寿命が十年は縮みやした!」
ヴァンは鼻で笑った。
「それがお前の仕事だろ」
「そうでさァ。……そうでさァねえ」
ワイルドは揉み手をしながら、高く澄み切った帝都の空を仰いだ。
軍情局の庁舎の奥。監察部の部長室。
シュタインは薄暗い室内の椅子に深く腰掛け、机の上に両手を置いたまま微動だにしていなかった。
コン、とノックの音。
「——入れ」
現れたのは、情報研判部の部長だった。シュタインとは軍校時代からの旧知の仲だ。
初老の友人は椅子を引かず、机の脇に立ったまま、静かに口を開いた。
「……災難だったな、ディートリヒ」
シュタインは血走った目を上げた。
「理解できん」
「何がだ」
「なぜ、アクィラ閣下があのような規律を無視した小僧に——勲章など与える! 規律こそが、帝国の血液ではないのか!」
友人は、少しの間、窓の外の夕暮れを見つめた。
そして、ただ一言だけ、低く呟いた。
「ディートリヒ。あの小僧は大通りのど真ん中で化け物を倒した。民衆の目の前で」
シュタインの拳が、机の上で固く握り締められる。
「……それが何だと言うのだ」
「アクィラ閣下は勲章を出した。それだけのことだよ」
友人はそれ以上何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。
「お前の言う規律の話は、また今度聞かせてくれ」
扉が静かに閉まり、シュタインは一人、薄暗い室内に残された。
室内は、死のような静寂に包まれた。
シュタインは机の上に組んだ手を見つめ、その指先が微かに、だが確かに震えているのを感じていた。
理解できない。
規律を破り、軍情局の作戦を台無しにした小僧に、帝国最高権力者が直々に勲章を与える。
こんな理不尽なことが、どうして許されるのか。
——大通りのど真ん中で、民衆の目の前で。
友人の言葉が、頭の中で反芻される。
シュタインはゆっくりと目を閉じた。
今日の現場の光景が、次々と蘇る。
逃げ惑う市民、泣き叫ぶ子供、暴走する傭兵の凶刃——そして、あの小僧が民衆の前で傭兵を倒した瞬間、沸き起こった万雷の喝采。
もし、あの傭兵が裏道で暴走していたら?
スパイたちが全員殺され、傭兵は逃亡し、後にさらなる被害が出ていたかもしれない。その時、責任を負うのは、移送を担当した自分と、軍情局だ。
帝国軍は、「民を護れなかった無能な機構」として、民衆の前に晒されることになる。
だが、あの小僧はそれを、「民衆の目の前」で終わらせた。
規律を破り、作戦を無視した挙句、結果として、帝国の失態を英雄譚に塗り替えて見せた。
——だから、閣下は勲章を出したのか?
その考えに至った瞬間、シュタインの胸に、納得とは程遠い苦い感情が広がった。
理屈としては、理解できる。
民衆の前で英雄を生み出すことが、帝国にとって利益になる。そのために、規律の逸脱が看過されることもある。
だが——それで、規律はどうなる?
規則を守ることが、この組織の根幹ではないのか?
一度でも逸脱を許せば、次から次へと歯止めが効かなくなる。それが、軍というものだ。
わかっていても、納得できない。
納得できないまま、理解してしまう自分がいる。
机の上の手の震えが、大きくなっていく。
「……大局、か」
誰にも聞こえない掠れた声で、シュタインは呟いた。
窓の外からは、夕暮れの街のざわめきが、かすかに聞こえてくる。
民衆たちは、今日の英雄の話で盛り上がっているのだろう。
【第三十七章・終】
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