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第二十四章:息をするように嘘をつく男

久しぶりに、あの男が登場しました。

息をするように嘘をつく、資料庫の文官。


書いていて、妙に筆が進むキャラクターでした。


個人的にはかなり楽しく書きましたが、

皆さまにも気に入っていただけたら幸いです。


ヴァンは満足げに頷いた。

商売のことはローランに任せておけばいい。こと値段の交渉と在庫の読みに関しては、ヴァンよりも遥かに鼻が利く。

彼が今日、市場に来た本当の目的は別にあるのだから。


「なあ、少し疲れた。馬車を一台拾ってきてくれ」


「え、歩いて帰らないの?」


「歩きたくない。それに、部品の荷物もある」


ローランは微妙な顔をした。

「ヴァン、ここから学院まで別に大した距離じゃ――」


「頼む」


「……わかったよ。ちょっと待ってて」

ローランが向こうの辻へ小走りで向かう。


ヴァンは背後に立つブルーノへと振り向いた。


「お前たち、馬車は御せるか」


ブルーノ・ホフマンは表情を全く変えなかった。額の古傷が、斜めに眉を横切っている。


「問題ありません」

短く、それだけ。




借りてきた馬車は、二頭立ての平凡な辻馬車だった。

ブルーノが手綱を取り、ディーターが隣に並んで座る。ヴァンとローランはほろの中に収まった。

石畳の振動が容赦なく尻から伝わってくる。


「帰りは少し遠回りするぞ。南区を経由してくれ」


ヴァンが御者台に指示を出すと、ローランが不思議そうな顔をした。

「南区? なんでまたそんな治安の微妙なところに」


「今後の『帝国戦棋』の在庫管理のためだ。部品を大量に仕入れるなら、学院の寮じゃ手狭になる。南区の倉庫街で、安い貸し倉庫の空き倉にアタリをつけておきたい」


「あ、なるほど! 確かに商いを広げるなら倉庫は必須だね。うん、賛成!」


商人の息子であるローランは、その極めて論理的なビジネスの理由に何の疑問も抱かず頷いた。

幌の外で、御者台のブルーノが進路を変える。東区から南へ、帝都の旧市街を抜けていくルート。


軍情局はその途中にある。


馬車の揺れに身を任せながら、ヴァンは口を開いた。


「今日、少し戦棋店の様子も見に行きたい。

 それと、個人的な用件が一つある。」


ローランは黙って聞いている。


「いいか、ローラン。今日、俺はずっとお前と一緒に市場で買い付けをしていた。午前中も、今もだ。そういうことだ」


ローランは窓の外の景色を見ていたが、しばらくして静かに言った。


「……学院に着いたら、ブルーノさんたちには少し休憩してもらうよ。学院の中は安全だから、しばらく護衛は不要って言えばいいよね」


「ああ、助かる」


「了解」


ローランはそれ以上の詮索はしなかった。金にはうるさいが、踏み込んではいけない一線を弁えている。これが彼の美徳だ。


ヴァンは馬車の幌を少し押し上げ、外の景色を確認した。

大通りの石柱。並んだ軍旗の竿。その奥に聳え立つ、光を吸い込むような灰色の重厚な建物。


軍情局。


(……門の警備が薄い。交代時間か? それとも罠か——いや、入れる。この機を逃すな)


馬車が軍情局の近くの交差点に差し掛かった。

ちょうど、帝国軍の魔導輸送車の隊列が地響きを立ててすれ違う。圧倒的な魔力振動が、周囲の音を全て掻き消した。ヴァンはおもむろに立ち上がり――


(……今だ)


「ちょっと待って、ヴァン。まだ倉庫街には――」

ローランが振り返った時、すでに幌の端が揺れ、ヴァンの姿は掻き消えていた。B級の鋭敏な感覚すら欺く、完璧なタイミングでの離脱。

(魔導輸送車の魔力振動が全てを掻き消してくれた)




前回来た時と同じく、扉は重苦しく開かれていた。

中に入ると、広い執務室。

机が並び、それぞれに人間がいる。


誰もヴァンのことを見ようとしなかった。


スパイというのは、見ないことが仕事の一部なのかもしれない。

あるいは単純に、見て興味を持つには忙しすぎるのか。


ヴァンは堂々とした足取りで内部を歩き始めた。

資料庫があるとすれば、厳重にロックされた奥の区画だ。

廊下を一本進む。分岐点。右か左か。


左を選んだ。


「――少々よろしいですか」


背後から声が飛んできた。

廊下の角から現れたのは、三十代半ばのスパイ。感情の抜け落ちた鋭い目をしている。


「どちらへ」


「資料庫を探している」


「失礼ですが、身分証明を」


ヴァンは表情一つ変えず、外套の内側に手を入れた。

そして、クラウスから便宜上預かっていた『特別監察官』のバッジを無造作に提示した。


それは以前、師匠であるヘルマン・クリークを通じて、クラウス局長から預けられたものだ。クラウス局長の直轄である『特別監察官』の証——軍情局内における最高位のパスである。


(……まさかクラウス局長のツケを、彼の城で使うことになるとはな)


ヴァンは内心で苦笑しながら、バッジの反応を待った。


バッジを受け取り、刻まれた不可視の魔導紋章を確認した数秒後。

バチンッ!


踵を鳴らす音とともに、完璧な九十度の敬礼。


「クリーク部長はいるか」


「ヘルマン・クリーク部長は現在、外務任務中でご不在です。クラウス局長でよろしければお取次ぎ――」


「いや、いい。直接、資料庫で調べたいことがある。案内しろ」


(あのクラウス局長がどちらの陣営か、まだ判断がつかない。俺主導で動く)


「かしこまりました。こちらへどうぞ」

スパイが踵を返し、恭しく先導を始めた。




資料庫。


湿気と、カビ臭い古い羊皮紙の匂いが充満している。棚が天井までびっしりと続き、整理されているのかどうかも怪しい分類体系でファイルが山積みになっていた。


スパイが重い鉄扉を開け、中へ向かって声を上げた。


「ワイルド、ちょっと出てきてくれ」


棚の奥から、ガタッ、と何かを落としたような音がした。

這い出るように現れたのは、三十代と思しき男。くたびれた上着。胸に帳面を抱えている。


ヴァンは一拍、固まった。


(……この胡散臭い顔は)


男の方も、ヴァンを見て石像のように固まった。

案内してきたスパイが「あとは頼む」とだけ言い残し、鉄扉を閉める。


薄暗い資料庫の中、二人きり。

静寂。


「……だ、旦那ァ」

男が引きつった笑顔で、最初に口を開いた。


「ワイルド」

ヴァンの口から、冷たい声が漏れた。


帝都に来て間もない頃。右も左もわからないヴァンに、法外な高値で『帝都極秘マップ』を売りつけてきた詐欺師。後で広げてみたら、子供の落書き以下の代物だった。


「やあ、奇遇だな。まさか軍情局に文官として潜り込んでいたとは」

ヴァンが一歩、距離を詰める。


「……あの落書き地図の件だが」


ワイルドは、ヒィッと小さく息を呑んで後退した。


「だ、旦那ァ……! あっしにも深い事情がありましてェ――!」


「ほう。聞こうか」


「……実は、あっしの妻が、重い病でしてェ。長年、床に伏しておりまして……。上には年老いた母、下には腹を空かせた一人娘がおりやす。母は足が不自由で外に出られず、娘も体が弱くてですねェ……一家の稼ぎは、あっしのこの細腕一つなんでさァ。旦那ァ、あっしはただ、家族を養うために、血の涙を流しながらですねェ――」


ワイルドの目から、涙がこぼれた。

大粒の涙だった。


ヴァンは無言でそれを見下ろしていた。

金の話は、正直どうでもいい。詐欺に遭ったのは自分の落ち度だし、あの程度の小銭、高い勉強代だったと思えば済む話だ。


(……いくらなんでも、そこまで悲惨だと同情の余地はある、か)


騙された怒りより呆れが勝り、ヴァンが少しだけ毒気を抜かれてため息をついた、その瞬間だった。


ガチャリ、と資料庫の鉄扉が半分開いた。


「おーいワイルドォ、さっき外で帰りにお前の奥さん見かけたぞ! 『今日は子供の迎えはいい』って言ってた。あと、お袋さんが今夜は白身魚の香辛料焼きを作るから、帰りに市場でデカい魚を一匹買ってきてくれってよ!」


先ほどのスパイが顔だけ突っ込んでそう叫び、再びバタンと扉を閉めた。


資料庫に、先ほどよりも重い沈黙が降りた。


ヴァンはワイルドを見た。

ワイルドはヴァンを見た。


ヴァンはゆっくりと口の端を吊り上げた。その笑顔には一切の温度がなかった。


「……おい。死にかけの妻が元気に子供を迎えに行き、足の不自由な母親が豪快に魚を焼くって? そいつはすげぇや。ストラトクラティアの魔導医学も真っ青な大奇跡だな」


「……あっ、」


「続けてくれ。面白いから」


ワイルドはヒュッと深く息を吸い込んだ。


「……旦那ァ! 旦那がこの帝都にいらっしゃったおかげでですねェ、妻の病が劇的に癒え、母の足も奇跡的に回復いたしやして! いやァ、実はさっきのは全部五年前の話でありましてェ、今はもうすっかり元気に――」


「五年前」


「へい!」


「俺が帝都に来てから、まだ日は浅いが」


「あっしの話はですねェ、いわば運命的なご縁といいましょうかァ――」


呼吸一つ乱さず、ワイルドは言い切った。

ヴァンは耐えきれず、声を出して笑った。


(……最高だな。こういう息をするように嘘をつく人種、俺は嫌いじゃない。むしろ使い勝手が良さそうだ)


「まあいい。小芝居は終わりだ。用件を言う」

ヴァンは懐から『特別監察官』のバッジをもう一度取り出し、ワイルドの目の前に突きつけた。


ワイルドの目が、限界まで見開かれた。


「……と、特別、監察官、閣下……」


ワイルドの膝がガクガクと震え始めた。そのまま床にへたり込む寸前で、必死に机の端を掴んで踏みとどまる。


「と、特別監察官、閣下……!」


「金は要らない。口を閉じて聞け」

ヴァンはバッジを収めた。


「『アイリ』という人物のファイルを見たい。ノストラ出身の亜人、狼族だ。俺が帝都に連れてきた私兵だが、軍情局でも調査記録が作られているはずだ」


「……アイリの、亜人の護衛の件ですァ?」


「そうだ。それとついでに、ルートヴィヒ襲撃事件の顛末も知りたい。今、内部でどう処理されている」


ワイルドは震える手で胸の帳面を開き、羽ペンを走らせた。


「……その、アイリの件でさァ。通常の監察ファイルに入っておりやすが。調査自体は難しくないですが、正式な閲覧手続きを踏むと、少々お時間が――」


「いつ用意できる」


「今夜中に、必ずやヴァレリアン邸に裏口からお届けいたしやしょう」


「それでいい」

ヴァンは短く応じた。


ワイルドは帳面に目を落としたまま、少し声を潜めた。

「……ルートヴィヒ・アイゼンハルト事件につきましては……治安局の不手際として処理されやした。担当の治安局長は、大元帥閣下の直命で即日罷免。ただ……」


「ただ?」


「真犯人の調査は、途中で完全にストップしておりますよォ」


「上からの圧力で止まったのか」


「……そのように聞いておりやす。あっしのようなしがない文官には、それ以上の詳細はわかりやせんが」


ヴァンは納得したように頷いた。

「わかった。今夜のファイル、頼んだぞ」


「必ずお届けいたしやす。……それと、閣下ァ」

ワイルドが少しだけ背筋を伸ばし、顔を上げた。


「……あの地図の件は、本当に申し訳ございませんでした」


今度は大袈裟な涙も、嘘くさい語尾もなく、静かに頭を下げた。

ヴァンは背を向けながら、一言だけ答えた。


「次は使えるものを持ってこい。」




軍情局の正門を出る。

帝都の石畳には、すでに長い影が伸びていた。


(……真犯人の調査は止められた。治安局長を切ったのは大元帥自身。あれは派閥均衡のための生贄か、それとも片方の派閥への明確な加担か)


どちらかを確定させるには、ピースが足りない。


もし第一軍団長のマルクスが仕掛けた罠なら、大元帅は自分の息子を切ることになる。

それでも切れるなら、中立。

切り捨てられない事情があるのだとしたら——


(……考えても仕方がない。今夜、ワイルドが持ってくるファイルを見てから判断する)


ヴァンは大通りへと足を踏み出した。

今日の用件はこれで終わりだ。学院に寄ってからヴァレリアン邸へ戻っても、夕飯の時間には十分間に合うだろう。





【第二十四章・終】


第二十四章までお読みいただき、ありがとうございます。


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