第二十二章:最善手は、婚姻だった
書いていてふと思ったのですが、
もし自分が主人公の立場だったら……
たぶん、妹を選びますね。だって可愛いじゃないですか。
もちろん、これはあくまで盤上の最善手の話です。
現実は、もっとややこしい。
ヴァンは自室から『帝国戦棋』のセットを抱えて戻ってきた。
基本セットの箱に加え、拡張パックも二つある。
補給線パック。昇格パック。
縁側に戻ると、ベルンハルトはすでに腕を組んで待ち構えていた。
「持ってきました」
ヴァンは盤を広げ、駒の入った木箱を開けた。
「ルール、説明しましょうか? それとも……俺の方が『開発者』で圧倒的に有利ですから、駒落ちを差し上げましょうか?」
「抜かせ。戦場にハンデなどない」
ベルンハルトは鼻で笑い、手を振った。
「基本ルールはエレナや学生たちがやっているのを見て知っている。それに、その『補給線パック』と『昇格パック』もな。他にもあるのか?」
「今のところは、これだけです」
ヴァンは不敵に笑い、駒を並べ始めた。
ベルンハルトも黙々と自分の陣地に駒を配置していく。
ベルンハルトの布陣は、無駄がなかった。
強力な駒を出しても焦らず、出さなくても揺るがない。
——兵站で勝つ将軍の打ち方だ。
二人は、盤を挟んで向かい合った。
「負けたら泣き言は聞かんぞ、小僧」
ベルンハルトが、歴戦の将軍の目をして低く言った。
「こちらこそ。老眼で盤面が見えなかったという言い訳は無しですよ、院長」
ヴァンも負けじと笑い返した。
かくして、盤上の戦争が始まった。
序盤。
ヴァンは低コストのランクE歩兵を大量に前進させ、盤面の支配領域を強引に広げにかかる。
対するベルンハルトは一切の無駄を省き、ランクDの重装歩兵で微動だにしない堅牢な防衛線を構築した。
中盤。
ヴァンが側面から機動力に勝るランクC魔導騎士を展開し、電撃的な奇襲をかける。
しかし、ベルンハルトは動じなかった。すぐさまランクB魔導師を後方に配置して牽制しつつ、絶妙なタイミングで『維持費』のコストを消費し、陣形を再構築する。
くっ……
ヴァンは内心で舌打ちした。
補給線が、目に見えて細くなっていく。
エレナたち学生とは、根本的にレベルが違う。
ベルンハルトはゲームのルールを遊んでいるのではない。この盤面を「実際の戦場」として捉え、完璧な兵站管理と再配置を行っているのだ。
ヴァンが裏をかいて敵の指揮部を狙おうとすると、それすらも事前に察知されていた。
「そこか」
ベルンハルトが駒を動かす。
厚みを持たせた防衛部隊が、ヴァンの奇襲部隊を完璧なタイミングで迎撃した。
そこからは、一進一退の攻防だった。
駒が減り、補給が削られ、戦線が膠着する。
勝負開始から三十分が経過した。
盤面は、未だに均衡を保っている。しかし――。
(……もう、策がない)
ヴァンは自陣の残存リソースと盤面を見比べた。
このまま続けても、ジリ貧で削り負けるだけだ。ベルンハルトの守りは、文字通り鉄壁だった。
ヴァンは自分の『指揮部』の駒を倒し、短く宣言した。
「……降参、だと?」
「はい」
ヴァンは潔く頷いた。
「もう勝ち筋が見えません。これ以上は無駄な犠牲を増やすだけです」
「お前がそこまであっさり負けを認めるとはな」
ベルンハルトは少し驚いた顔をした後、満足げに笑った。
「流石に勝てませんよ。やっぱり、実戦経験の厚みが違います。院長は本物の『戦争』を知っている」
ヴァンは苦笑しながら頭を掻いた。
「まぁ、これは俯瞰で全体が見える盤上だからな」
ベルンハルトは乾いた笑い声を上げた。
「もしこれが、索敵もままならない実戦であったなら……お前の仕掛けた罠に、ワシも嵌まっていたやもしれん」
「慰めはどうも。でも、おかげで分かりました」
「何がだ?」
「バランスの調整です」
ヴァンは盤面の駒を見つめながら呟いた。
「やはり強力な駒は維持が大変すぎますね。攻める側が不利になる。次の拡張パックでどう修正するか、見えました」
「バランス調整……?」
ベルンハルトが首を傾げる。
「戦棋の用語か? どういう意味だ」
「ああ、お気になさらず。ゲームのルール修正のことです」
ヴァンが軽く手を振ると、ベルンハルトは納得したように頷いた。
二人は、盤上の駒を片付け始めた。
使用人を呼べば済む話だが、そうはせず、自分たちの手でゆっくりと木箱に収めていく。
その時、ベルンハルトが口を開いた。
「……先ほどの話の続きだ」
「はい」
「お前を執拗に狙う連中がいる。理由は、お前がフィロメラの子だからだ」
駒を拾うヴァンの手が、ピタリと止まった。
「お前には、彼女の遺産を継ぐ『権利』があるからだ」
「遺産……?」
ヴァンは顔を上げた。
ベルンハルトは重々しい口調で告げた。
「『フィロメラ工房』だ」
それは、帝国の力の源泉であり、戦争の心臓部。
ベルンハルトは縁側を照らす天井の灯りを指差した。
「あれも、工房の産物だ」
ヴァンは灯りを見上げた。柔らかく、しかし安定した光を放つ魔導器だ。
「光魔法を定着させた魔導器だ。魔力を注げば、誰でも明かりを灯せる。これが作られる前は、どうしていたと思う?」
「……魔法使いが頭上に光の球を浮かべて歩くとか?」
「そうだ」
「だが、彼女がこれを作った。そして、帝国中に広まった」
ヴァンは手の中の駒を見つめた。
「それだけで、力の源泉と呼ばれるんですか?」
「いや。日用品だけではない」
ベルンハルトは首を横に振った。
「魔導回路の保守技術、各種魔導兵器の量産ライン……現在帝国軍が運用している武力のほぼ全てが、あの工房の基礎理論から生まれている」
ヴァンの脳裏に、『軍産複合体』という前世の言葉が浮かんだ。
母は、この魔法世界にそんな怪物を作り上げていたのか。
「……すごい人ですね、母は」
「ああ。天才という言葉すら陳腐に思えるほどにな」
ベルンハルトは自嘲気味に笑った。
「だからこそ、だ。もし他の誰かが『幽霊の進軍』を考案したり、この戦棋を改良したりすれば、世間は彼を天才ともてはやすだろう。だが……」
彼は、ヴァンを鋭く見据えた。
「お前が同じことをすれば、連中はこう思う。『フィロメラの子なのだから当然だ』『あの女の遺した未知の技術を隠し持っているに違いない』とな」
ヴァンは黙った。
母の影は、自分が想像していたよりも遥かに巨大で、色濃い。
「ワシは、お前をただの学生として過ごさせたかった」
ベルンハルトは深く溜息をつき、残った酒を飲み干した。
「ワシの庇護下で目立たず大人しくしていれば、連中も無理に手は出さないと思っていた。だが、彼らの底なしの欲望と敵意を甘く見ていたようだ」
ベルンハルトは空になったグラスを置き、真っ直ぐにヴァンに問うた。
「お前は、どうする? 母の遺産を、力ずくで取り戻すか?」
ヴァンは少しの間だけ目を伏せ、考えた。
そして、顔を上げ、はっきりと答えた。
「取り戻します」
その声に、迷いはなかった。
「母の物だから、という感傷だけじゃありません。あいつらが俺や俺の周囲にやったこと……その代償は、きっちり払わせます」
ヴァンの目は冷たく、合理的な狩人のそれだった。
ベルンハルトはその目を見て小さく息を吐いた。
「……やはり、そう言うか。お前の親父によく似た、強欲な目だ」
ベルンハルトは腕を組んだ。
「なら、護衛をつけるだけでは足りん。お前が本気で工房を狙うなら、お前自身に『背景』が要る。誰も迂闊に手を出せないほどの、強固な後ろ盾がな」
「ヴァレリアン家や、大元帥のコネでは駄目なんですか?」
「阿呆。お前、あの親父を都合のいい盾にできると本気で思っとるのか?」
ベルンハルトが呆れた顔をした。
「そもそも、お前は『大元帥の私生子』という最大のスキャンダルすら、ワシに丸投げして隠蔽させておるくせに」
「あはは……それはまぁ、否定しません」
ヴァンは苦笑した。
「いいか。お前が自力で確固たる地位を築く道は、主に三つある」
ベルンハルトは指を三本立てた。
「一つ目。圧倒的な軍功を立てろ。軍団参謀クラスにまで上り詰めれば、特務機関もおいそれとは手を出せん」
「軍団長の、すぐ下の地位ですね」
「そうだ。そして二つ目」
ベルンハルトは二本目の指を立てる。
「お前のその現代的な戦術理論を、軍の教本に正式採用させろ。軍事思想の権威となれ。ただし、これはコンラートを始めとする旧貴族派の老害どもが猛反発するじゃろう」
ヴァンは頷いた。ルートヴィヒの父親の顔が思い浮かぶ。
「そして、三つ目」
ベルンハルトは最後の一本を立てた。
「お前の母のように、世界をひっくり返すほどの圧倒的な発明をしろ。技術で帝国を掌握するのだ」
提示された三つの道。
どれも途方もなく険しく。そして、時間がかかる。
ヴァンは少し考えた。
そして、首を横に振った。
「いえ」
「何?」
「その三つは、どれも選びません」
ベルンハルトが、目を見開いた。
「じゃあ、どうするつもりだ」
ヴァンはスッと人差し指を一本だけ立てた。
そして、極めて冷静に、ビジネスの話でもするかのように言った。
「どれも時間がかかりすぎます。結婚します」
「…………ゴホッ! ゲホッ、ゴホッ!!」
ベルンハルトが、盛大にむせた。
顔を真っ赤にして咳き込み、信じられないものを見る目でヴァンを指差す。
「け、結婚だと!?」
「はい」
「俺には『フィロメラの血』という商品価値がある。高く売りつける自信はありますよ」
ヴァンは真顔で頷いた。
「大貴族、あるいは軍の重鎮との『政治婚姻』です。これが一番確実で、手っ取り早い」
ベルンハルトは呆然とヴァンを見つめ返した。
(……合理的だ。確かに、極めて合理的だ)
強力な家との婚姻。それは、複雑な根回しや何年もの実績作りをすっ飛ばし、瞬時に強大な後ろ盾を得る最も有効な手段だ。貴族社会の定石でもある。
だが、まさか血の気の多い十八歳の若者の口から、ここまで割り切った提案が出るとは思わなかった。
「お前という奴は……」
言葉が出てこない。
呆れ果てて言葉が出ない養父に対し、ヴァンは少し心配そうに尋ねた。
「あの、俺まだ十八歳になってないんですけど、帝国の法律的に大丈夫ですかね?」
「……ああ。十六歳以降なら、当主の同意があれば婚姻は可能だ」
ベルンハルトはこめかみを押さえながら答えた。
「なら、何の問題もありませんね」
ベルンハルトは深く溜息をついた。
「……分かった」
「探してやる」
「適当な相手を、見繕う」
「ありがとうございます、義父上」
ヴァンは嬉しそうに深々と頭を下げ、用は済んだとばかりに立ち上がろうとした。
その時だった。
「……ヴァン」
「はい?」
「灯台下暗し、という言葉があってな」
ベルンハルトは空になったグラスを揺らした。
娘が養子を見る目は、最近明らかに変わっている。
あの冷徹な『氷の聖女』が、ヴァンの前でだけあんなに柔らかい表情をする。
父親として、気づいていないわけがない。
(それに、あいつの気持ちも...まあ、言わぬが花か)
「もし、お前の『戸籍上の問題』さえクリアできればの話だが……」
彼はニヤリと笑った。
「エレナなど、どうだ?」
「……は?」
ヴァンは固まった。
「気立てもいいし、何よりワシの娘だ。お前が大元帥の血を引いているなら、これ以上ない強力な同盟になる」
ベルンハルトは内心でそう思いながら、真面目な顔で提案した。
しかし。
ヴァンの動きが止まった。
「……義父上、酔ってますよね?」
「シラフだ」
「いや、絶対酔ってる。今の発言、明日には忘れてください」
ヴァンは顔を引きつらせ、慌てて両手を振った。
「あれは妹です! 可愛い妹! それに、いくら本当は違うとはいえ、俺は名目上『あなたの私生子』としてこの家に引き取られてるんですよ!? 戸籍上、兄妹の結婚なんてスキャンダル以外の何物でもないでしょうが!」
「それに、あいつは……俺なんかより、もっと普通の、幸せな結婚をするべきです」
顔を真っ赤にして全力で拒否するヴァンを見て、ベルンハルトは複雑な表情になった。
(やれやれ。盤上の駒は完璧に動かせるくせに、女心にはとんと疎いらしい)
「……もうよい。今日はもう休め。行け」
ベルンハルトはしっしっと犬を追いはらうように手を振った。
「し、失礼します!」
ヴァンは逃げるように足早に部屋を出て行った。
廊下を歩きながら、「何だよ、あの展開……心臓に悪い……」とぶつぶつ文句を言っているのが聞こえる。
縁側に残されたベルンハルトはふっと息を吐き、再び自分のグラスに酒を注いだ。
一人、静かに杯を傾ける。
「……ワシの娘のどこが不満だと言うんじゃ、あの朴念仁は」
冷たい月明かりが、独り言を呟く老兵の影を、長く、長く伸ばしていた。
【第二十二章・終】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
兄妹の距離がどう転ぶのか、作者自身も少しだけ楽しみにしています。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




