第十四章:夜の宿屋で巻き起こる作戦前の嵐
今回は、対決の前の小さな静けさと、嵐の前の準備回です。
大きな動きはありませんが、ゆるりとお付き合いください。
戦術評議席次官が去った。
ルートヴィヒも、歯ぎしりしながら部下を率いて撤退した。
店内に、ようやく静寂が戻る。
ヴァンは、エレナの方を向いた。
「……で、あの人は誰だ?」
「官職がかなり大きいみたいだが」
エレナは、少し困ったような表情を浮かべた。氷の仮面が、ほんの少しだけ緩んでいる。
「戦術評議席次官……軍の人事権に深く関わる、厄介な相手ですわ」
彼女の声は、いつもの冷たさを保っている。だが、どこか心配そうだ。
「軍に入った時、どの階級から始まるかは、ほとんど戦術研討会の結果次第です」
「つまり――」
エレナは、言葉を区切った。
「兄さんは、とんでもない相手に目をつけられましたわ」
「明後日の戦術研討会には、保守派の人間が大勢いますのよ」
ヴァンは、肩をすくめた。別に慌てた様子はない。
「まあ、何とかなるだろ」
それよりも。
「エレナ」
彼は、妹の頭にそっと手を置いた。
「さっきは、ありがとうな」
「出てきてくれて」
エレナの頬が、ほんの少しだけ赤くなる。だが、今回は照れて逃げたりしなかった。
「……当然の義務、ですわ」
彼女は、少しだけ顔を背けた。
「ヴァレリアン家の一員として……その、当然のことをしたまでです」
声が、最後の方で小さくなる。
それは、まだ「家族」と言い切るのが照れくさい、氷が解けかけている証拠だった。
ヴァンは、軽く笑った。
ぽん、と。
妹の頭を優しく撫でた。
「ん……」
エレナが、小さく声を漏らす。エレナは目を閉じたまま、何も言わなかった。
ヴァンは、店の奥にいるローランの方へ向かった。彼は、床に散らばった駒を拾い集めている。
「ローラン」
「……ああ、ヴァン」
ローランは、疲れた顔で振り返った。
「せっかくお前が作った商売なのに、僕が台無しにしちまったな……」
ローランは床の破片を拾いながら、悔しそうに呟く。
「あの拡張パック、あと百個は売れたはずなのに……くそっ」
床に、砕けた戦棋セット。逃げていった客たち。損失は、決して小さくない。
「すまない。お前に任されたのに、僕はまだ何もできてない」
だが、
「気にするな」
ヴァンは、彼の肩を軽く叩いた。
「人が無事なら、それでいい」
「明後日、俺がこの件を根本から片付けてやる。連中の教本ごと、叩き潰してな」
「……ヴァン」
「お前は店の片付けと、次の在庫の確保でもしとけ。どうせ明後日以降、この『拡張版』は飛ぶように売れるようになる」
ローランは呆然とヴァンを見つめ、やがて吹き出した。
「……お前、本当にいい奴だな」
「気持ち悪いこと言うな」
ヴァンは、即座に突っ込んだ。
ローランは、笑った。少しだけ、元気を取り戻したようだ。
「で、これから戻るのか?」
「ああ」
ヴァンは待っていたエレナを一瞥し、ローランに問いかけた。
「お前は?」
「僕は、もう少し店を片付けてから戻る」
ローランは周囲を見回し、自嘲気味に笑った。「……まあ、やれることはやっとかないとな」
「分かった。無理するなよ」
ヴァンはエレナを促し、共に店を出た。
帰り道。街灯が二人の影を長く伸ばしている。
ヴァンは隣を歩く妹を見る。彼女は無言だったが、その横顔はどこか穏やかだ。
やがて学院の門前に着く。エレナは足を止め、不安げに尋ねた。
「戦術研討会……本当に大丈夫ですか? 相手は次官ですよ?」
「心配するな」
ヴァンは足を止め、振り返る。
「机上の空論を振りかざす連中には、現実を教えてやるだけだ」
彼は、妹の頭にポンと手を置いた。
「それより、今日はもう遅い。寮に戻って休め」
「……はい」
エレナは名残惜しそうに、ヴァンの袖を一瞬だけ掴んだ。
「必ず、戻ってきてくださいね」
「ああ。すぐ戻る」
ヴァンはひらりと手を振り、夜の街へと消えていった。
目的地は、街外れの宿屋。質素な、目立たない建物。
ヴァンは、慣れた様子で裏口から入った。階段を上がり、一番奥の部屋の前で足を止める。
ノックしようと手を上げた――その瞬間。
ガチャリ。
内側から鍵が開く音がして、勢いよく扉が開かれた。
「――遅いッ!!」
飛び出してきた影が、ヴァンもろとも部屋の中に転がり込む。
「ぐあっ!?」
「今までどこ行ってたんだよ! この馬鹿ボス!」
ヴァンは胸ぐらを掴まれ、壁に押し付けられた。
目の前には、血走った目で唸るアイリ。その獣耳は怒りと不安でペタンと伏せられ、尻尾はバタバタと暴れている。
「落ち着け、野良狼。鼻が利くのは相変わらずだな」
ヴァンはため息をつき、彼女の額を指先で弾いた。
アイリは額を抑えながら、獣のようにヴァンを睨みつけた。その尻尾は、不安と焦りで忙しなく揺れている。
部屋は荒れ放題だった。
壁には無数の爪痕が走り、深く抉れた跡が生々しい。床には引き裂かれた枕の中身が散乱し、羽毛が宙に舞っていた。窓際の椅子は倒れ、その脚には何度も蹴られたかのような傷が付いている。
「シンカクからの連絡は!? いつ動くんだよ! ビリィが……ビリィが待ってるんだぞ!」
彼女の声は震えていた。怒りではない。恐怖だ。大切なものを失うかもしれないという、根源的な恐怖。
「……座れ」
ヴァンは、シンカクが普段使っているベッドに腰を下ろし、静かに告げた。アイリは一瞬うろついた後、ようやく腰を下ろした。
「シンカクが戻り次第、作戦を開始する。だから、お前は爪を研いで待ってろ」
「待つって……どれくらい!?」
「焦るな。焦れば死ぬぞ」
アイリは一瞬、歯を剥いたが、何も言わずに視線を逸らした。ヴァンの冷徹な声に、アイリは唇を噛み締め、渋々、隣のベッドにドカッと座った。
「……ちっ」
「作戦を説明する。難しくないから、その耳をよく立てて聞け」
彼女は、小さく頷いた。
「いいか、よく見ろ」
ヴァンは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、粗末なテーブルに広げた。そこには、軍の極秘施設であるはずの実験棟の構造が、不気味なほど詳細に記されていた。
「ここの排気ダクトだ。警備兵の交代時間、魔力センサーが再起動するまでの『空白の三秒間』。そこがお前の侵入ルートになる」
ヴァンの指先が、地図上の死角を次々と結んでいく。
「シンカクが正面で騒ぎを起こす。お前はその隙にここから侵入。妹を見つけたら迷わず連れ出せ」
緊急時の脱出ルート。予備の連絡手段。
その説明は、緻密にして完璧。狂気じみた計画の全貌に、アイリの獣耳が呆然と垂れ下がっていく。
「……以上だ。分かったか?」
アイリは呆然としていた。合図のタイミング。彼女の理解を超えている。彼女は頭をガシガシとかきむしった。
それでも、アイリは、何度も頷きながら聞いていた。だが、その尻尾は相変わらず落ち着かない。
「……ビリィ、大丈夫かな」
小さく呟く声。それは、妹を想う姉の声だった。
「大丈夫だ」
ヴァンは断言した。
「お前が助けに行くんだからな」
アイリは、少しの間沈黙した。
やがて――
「……えっと」
彼女は、恐る恐る口を開いた。
「つまり、こう?」
「北から入って、ダメなら東に回る」
「んで、私はビリィ探す。ボスたちは暴れる」
「やばくなったら、逃げる」
……ああ、そうだな。
大体、合ってる。
ヴァンは、頭を掻いた。
「それでいい」
「後は、あとは流れでに」
アイリは、ほっとした様子で息を吐いた。
「なら、大丈夫」
「私、難しい作戦とか分かんないけど」
「言われた通りにやればいいんだろ?」
「……ああ」
ヴァンは、苦笑した。
まあ、それでいいか。
複雑な作戦は、どうせ実戦では崩れる。シンプルな方が、むしろ良い。
「じゃあ、俺はそろそろ戻る」
ヴァンは、立ち上がった。
「シンカクが戻ってきたら、すぐに連絡しろ」
「おう」
アイリは、元気よく頷いた。
ヴァンは、扉に手をかける。
だが――
ふと、立ち止まった。
「……アイリ」
「ん?」
「シンカク、危険には遭ってないよな?」
その声には、僅かな不安が混じっていた。
アイリは、少しだけ驚いた顔をした。それから――
「大丈夫だよ、ボス」
彼女は、にっと笑った。
「シンカクは強い。誰よりも」
「……そうだな」
ヴァンは、小さく笑った。
「じゃあな、アイリ」
「おう!」
扉が閉まる音。
宿の裏口を出たヴァンは、夜の街を見上げた。
夜の闇の中へと、消えていった。
【第十四章・終】
次章からは、少しテンポも上がる予定です。
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