最終話「三人のサイン——家は規程より先に灯る」(完)
朝は木匙一拍だけ。
掲示板には、王都の監察官直筆の短い追記が貼られている。
——前庭試行を三十日延長。条三・五・七の追補は地域裁量で運用可。
遠さの橋は、仮のままでも渡れる。
義娘が柱に丸を描き、「きょうの“すき”、“きめる”」と言った。
決める、か。ならば——家族会議だ。
◇
卓に紙を三枚。題をそれぞれ書く。
一)台所規程(音・匂い・言葉の複式簿記)
二)家の盾(業務外の宣言と合図語)
三)三人のサイン(この家の“帰還”の約束)
まず一)。私は短く読む。
——三・二・一は集合・戻し・終い。
——粗塩=基礎、細塩=調整。
——袋代は科目化、返却票は子どもの目線に掲示。
ユリウスが頷き、木匙二拍で“可”を打つ。義娘は指で小さな丸。可決。
二)。
——未成年の私語に関する問いは条外で不受理。
——こわい=大きい丸、あつい=木匙三、しょっぱい=塩壺に指二本。
義娘が真剣に復唱し、丸。ユリウスも丸。可決。
三)は、少しだけ長い。
——家は壊れ物。保険は身代わりではなく余白。
——ただいまは毎日言う。言えない日は丸で返す。
——呼ばれたら返事。
私は最後の一行を足す。
——恋は後から追ってくる。追ってきたら、火加減で焦がさない。
義娘が笑って丸、ユリウスは、少し照れて「可」。可決。
では、サインを。
義娘は、丸の中に自分の名の最初の一文字。
ユリウスは木匙二拍の印。
私は、鍋蓋一拍の小さな絵。
——三・二・一。家の規程が、紙の上にも置かれた。
◇
外から、控えめな足音。顧問メンデスが来た。黒衣はそのまま、笑みの角度は薄い。
彼は短い巻紙を差し出す。
——袋代科目の王都式雛形/返却掲示の標準文。
「清廉の“顔”しか持たなかった私に、手を残す余地をくれた。二行で足りる美を、今度は役に立つ場所に置く」
私は頷き、巻紙を台所勘定に綴じた。法は暮らしの後追いでいい。ただし、拍に遅れないかぎり。
◇
夕刻、前庭で最後の公開監査。今日の議題は一つだけ。
“鍋は今、ここ”を文に残すかどうか。
私は短句で締める。
「鍋は今、ここ。遠さには橋。橋の上でただいま。戻すは灰から赤へ。家の灯りが先。恋は後から」
監察官は無言で当座承認の印を重ね、紙の余白を残した。
余白は保険。この家のために、町のために、そして王都のために。
◇
夜。小さな宴。
前菜は香り油+粗塩(火の歌)。
主菜は布卵(布の歌)。
椀はただいまスープ、黄の丸(口の歌)。
義娘が言う。「きょうの“すき”、“できた”」
私は心の列に書く。好き=できた(完成の実感)。
ユリウスが、少しぎこちない声で続けた。「……きみが来てくれて、よかった」
言葉は焦げない。火加減は学んだのだ。
最後に、三人で柱にサイン。
義娘の一文字、ユリウスの二拍、私の一拍。
——三・二・一。
家は、歌えるまま眠りに入る。
灯を落とす前に、私は日誌の最後の頁へ最終行を書いた。
最初に直すのは、音。次に、匂い。最後に、言葉。
鍋は今、ここ。
本官、業務完了。
(完/読了ありがとうございました。**ブクマ+★**が、次にあなたが戻りたい物語の“帰還合図”になります。番外が必要なら「敵側報告書」「後日談・三拍膳レシピ」など、軽やかに用意できます。)