#3 無痛(4)
アットホームな空間を来店したすべてのお客様へ届けることが信条の、カフェ『小庭園』。
駐車場はなく、駅から遠くてアクセスも不便。
かといってデメリットばかりの立地ではなく、常連客の付きやすい住宅街の一角という点で条件に恵まれた。
本日も店内は適度に賑わい、お客様の笑顔やのんびりした様子が窺える。
ある目的のため来店した由里子は、カランコロンとドアのカウベル音をきっかけに新たな客に気づいた。
しかし店員でもない自分には誰が来ようと無関係。リーフ模様のラテアートがデザインされたカプチーノとタルトを心穏やかに飲食するだけだ。
そんな彼女の耳に自然と入る店長たちの心地よい声。聞こえた名にピクリと聴覚が反応した。
「いらっしゃいませ五月さん」
「いらっしゃいませ」
「ふたりともこんちは!外はまだまだ暑いよ!?ゴジラの散歩も気をつけて!」
床でスヤスヤ睡眠中の看板犬を眺めて、来店早々元気な客は空席を見つけるとドサッと荷物をテーブルに置いて席に着いた。
会計伝票片手に店員の涼真が彼女へ歩み寄った。親しい間柄なのでプライベートもすんなり語る。
「ありがとうございます。閉店してから帰宅がてらの散歩なので、その頃には涼しくなってると思います。ご注文は?」
「んーと、まずはこれ広瀬君にいつものお願い。あとは、忙しいけど暑いからアイスコーヒーにするわ」
「はい、アイスが一点、お待ちください」
カフェ常連客の広瀬の妻用に自社の化粧品セットを持って来た五月。
やがて現れた涼真は注文品と広瀬から預かっていた支払金を手渡すも、表情は試験問題に悩む学生のよう。
「広瀬さんウチでは食い逃げばかりなのに」と複雑な心境に陥っていたのだった。
かわいい顔した店員が去ると五月はストローをセットして口を付ける。
その傍らに人が近寄った。細身の女が控えめに声をかける。
「あの、五月さんですね?はじめまして、木佐由里子と申します。無断でお名前をお借りしてしまいました」
初対面の女による意味不明の言葉。思わず五月は弟である店長に視線を送った。
心得た末弟の健一は他の接客を終えると姉の元へ。
由里子の承諾を得ると、彼女自身も加わり先日の名前を借りるに至った経緯を説明。
「DV夫の疑惑から逃れるため」と聞いた五月は快く頷いた。
「そんな理由なら名前くらいどんどん貸すわ。そう……DVに」
いまや店長も離れ同じテーブルで会話する女ふたり。偶然にも35歳と年齢も一緒だった。
初対面とは思えぬほどジャンル問わず話は弾み、同性ゆえかやがて由里子は店長おろか友人にも教えたことのない秘密を打ち明けた。
誰かに話して罪の軽減としたかったのかもしれない。それには店長の姉だとしても滅多に会わない相手が好都合との意図もあったのだろう。
「私……不倫してます。離婚して遠くで彼と暮らしたいんですけど、夫に離婚届なんて出したらまた暴力だろうし。もう黙って逃げるしかないと考えています」
あまりに深刻な内容だ。五月はテレビなどで活動する自分の立場を考慮し直接的な意見は避けた。
代わりに間接的な話を持ち出して由里子の味方であることを訴える。
「そうなのよね、幸せカップルもたくさん見てきたけど、結婚生活って幸せなだけじゃないのよね。トラブルなく幸せな生活が続きましたとか少女マンガだけかもね」
何となく、五月の口調にリアリティーを感じられなかった由里子。もしやと尋ねてみる。
「失礼ですけど…結婚は?」
「一度もなし。ついでに恋人もなしのフリーの身。男いた時代もあったんだけどねえ。どうしてか結婚願望ってないのよ。けと周囲から結婚について言われると凄くムカつくの。ムキになるっていうか。今どき未婚でもいいじゃんと思う割に、どこかに負け意識があるのかもね」
「独身あるあるですね。交際する気もないのにマッチングアプリで相手のプロフィールを真剣に眺めたり」
「まあねえ。マッチング私は見たことないけど気持ちはわかるかな。女心は複雑というか面倒なのよね。あ、ごめんなさい。私の話はいいってね」
都合が悪いときの癖なのか、片頬をペチペチ叩いて苦笑する五月。
フォローでもなく由里子は微笑すら浮かべて本心からの思いを告げた。
「いいえ、同年の女同士で話ができて楽しい。五月さんサバサバしてて聞きやすいし話しやすい。会話に陰気臭さがなくて羨ましいな」
「お互い環境のせいよ。さて仕事あるから失礼します。何もしてあげられないけど見かけたら話しかけてよ。あと、一日ひとつは楽しいこと見つけて、負けないで!」
相手にとっては偽善や上から目線でしかないかもとしつつ、五月は応援の言葉を送る。
由里子の方でも変わらぬ現実を理解している。今さらひがみは持たない。素直に激励を受け入れお世辞抜きに返した。
「今がそんな時間だった。ありがとう。お仕事頑張って」
再び微笑むもそれはどこか儚く、孤独な自分を憂いているようにも見えた。
そうして会計の際に用意していた紙を清水店長へ差し出した。これが由里子の今日の目的であった。
紙には『薬を60セットお願いします』と綺麗な手書きで記してあり、心得た清水はすぐに動いた。
用意が整うとカフェ名のプリントされた袋に薬を入れて手渡す。読み上げの際にはコーヒー豆と告げた。
自然体でやりとりするふたり。飲食代も含めた会計をすませると、由里子はどことなく安堵の表情で店を退いたのだった。
◆
連日連夜、DV夫から物を投げつけられ蹴りつけられ、痛みと己の存在価値に悩まされていた由里子。
しかし一度のつもりで訪ねたカフェの店長・清水から購入した不思議な薬を飲んで以降は被害による痛みを感じなくなった。
先日も2種類、60セット購入してきた。半年分だ。
清水は一方を無痛薬と呼んでいた。由里子にとって、いや病気など痛みに苦しむ世界中の人々にとって奇跡のような薬。
なぜ国は認可しないのか。副作用もないというのに。それに現代のネット社会、情報は溢れていて、にも関わらずこれまで存在を知らなかった。
薬だけでなく国や医療関連やマスメディア、何もかもに不思議さを感じてしまう。
この由里子、己への存在意義を見出だせず、肉体以外にも暴言による心の痛みに耐えてきた哀れな女と思いきや、もうひとつの顔を持つ。
自分と男たちとのセックス動画をHPで有料配信し稼いでいるのだ。
きっかけは本当に孤独が寂しくて、慰めが欲しくて魔が差したため。
出会い系サイトで知り合った男とセックス目的で対面。ホテルですぐに抱きあい、久しぶりの行為に興奮した。
だが3回目には動画撮影に手を出し、男たちや金がもたらす快楽の虜になった。
DVが作り出した全身のアザは話題作りにもなった。『傷だらけの淫乱人妻』と。
一日の動画再生数は更新するたびに最多を記録していった。同性からの支持は高く、こんな形で存在価値を得られるなんてと喜びに震えた。
夫の知らない秘密の遊戯。セックスレスの夫との冷めた関係はこれで解消できる。
自分はまだ35歳だ。性欲もある。子供も産める。だから……。
知り合った男のひとりとダブル不倫と承知で真剣交際を始めた。彼の前では結婚指輪も外した。
ふたりで遠くへかけおちしようと計画を立てていた。
彼の子供が産みたかった。いずれは親子で幸せな家庭を築きたかった。
反面教師から意思の疎通がなければ不幸になるとの教訓を学んだ。今度こそ幸せになりたいと夢を描く。それが彼女の楽しみ。
先日カフェで知り合った女。美容アドバイザーの清水五月と気づいたのは翌日テレビに出ていた姿を見た時だった。
彼女は「一日ひとつでも楽しいことを見つけて」と励ましてくれた。
愛人との未来を夢見ることで実行していると教えてあげたい。
こんなことでも考えなければ暴力夫の側で過ごせるはずもなかった。
*
由里子の夫・道雄の手足にはここのところ奇妙なアザができていた。
痛みは感じたが初めは気にも留めなかった。2回目もそう。
3回目になっておかしな偶然に違和感を覚えた。妻を痛め付けた箇所と同じ場所が痛むのだ。
最初はどうだったか、妻を殴った場所なんぞいちいち記憶にない。
非現実的な現象が起こっている。だがリアリストの道雄は偶然とし、簡単には信じなかった。
それが普通だろう。妻が飲ませたもう片方の薬。「目には目を」の効果を誰が信じるというのか。
何となくイライラの抑制がきかなくなってきた。気持ちがこうでは夕食もビールも不味い。
次から次へと気に障る出来事ばかり。活力が下降気味ではどんどん不愉快なことを考えてしまう。
夫が家庭のため一生懸命働いているときに妻は若い男のいる店で優雅にコーヒー。あり得ない背徳行為だ。
それを思うと気の短い道雄の中で一気に怒りが湧き起こった。
「お前は今日もカフェに行ったのかっ!?」
臆測と同時に醤油ボトルが飛んだ。
プラ容器とはいえ中身の入った物をぶつけられては痛むはずだ。由里子の左腕に命中したそこも当然……。
彼女は違った。身を庇う素振りをし怯えた表情を浮かべても痛んでいるようには見えない。
手で押さえることもなく、全くの普通。痛みがないのだ。
対照的に痛みを突然感じたのは投げた道雄の方。命中した左の二の腕だ。じんじん痛む。手で押さえて腫れなどを確認する。
そんな彼の次の思考は驚きだ。これまで偶然だと思ってきたものが事実として目の前の現実に存在した。
これまでのような黙認はもうできない。この痛みは、手足のアザは由里子と同じ場所。
従来より怒の感情しか持たぬ男が気味悪そうに、恐怖すら感じて妻を見つめた。
◆
本日は満席。わいわい賑わいを見せるカフェ『小庭園』の午後。
ありがたくもハードな忙しさに店員は私語の暇もない。
それでも閉店一時間前の16時を過ぎた頃には空席が目立ちはじめ、余裕が生じてきた。
今日はなぜかカレーライスが売れた日で、コーヒー以上にカレーの匂いが充満している。
そんなスパイシーな匂いに包まれた店内のカウンター内で、若すぎる店員がグラスを拭く手を止めて顔を上げた。
「店長、由里子さん来ませんでしたね。今日は来ると思ったんですけど」
涼真がそう語るのは昨日の定休日にも姿を現さなかったためだ。
昨日はサブであるなんでも屋の営業日。この日を利用して来店するのではと予想していたのだ。
彼には由里子に会いたい理由があった。前回来訪の際に頂いていたイチゴジャムの謝礼は言えた。
ただしまだ封を切る前で、開封後の現在亡き母親の味に近い手作りジャムを「パンやヨーグルトに乗せて使ってます」と一言添えて、ぜひ再度のお礼が言いたかった。
「由里子さんですか……。五月さんから聞いたのですが、彼女には不倫相手がいて時々通っているそうです。不倫はいけない行為ですが彼女がその道を選んだ理由もわからなくありません。なので近ごろ来ない理由はそれであると信じたいですね」
「他にも心当たりがあるんですか?」
声のトーンから悟ったか、涼真は何気なく問いかける。
清水店長は真実の言及に幾らか迷うも、誠実で優しい涼真に偏見などの差別行為が見られるとは思えない。
ショックは与えるだろうが確証を得しだい教えると以前から伝えていた。ここは包み隠さず真実と本音を語る決断を自らに下す。
「話題の尽きない女性でしてね。彼女は自分と不特定多数の男との性交動画を配信して稼いでるんですよ。なのでその撮影のためここへ来られないのではと思ったんです。少し見ましたがなかなか過激でした。再生数も五月さんの美容アドバイス動画の倍くらいありましたしね」
知名度と再生数は比例しないようだ。
姉の五月が聞いたら唇を尖らせただろうが、この件に関し弟に皮肉の意思はなく好意的ジョークのつもりだ。
そういえば、と清水は不倫相手の登場によりコマが揃い、状況に見事にはまったことで臆測を試みひとり納得した。
由里子との初対面の日、彼女は結婚指輪を外していた。その後に見た男たちとの性交動画や来店時には一転して指輪はついていた。
『DV人妻』という肩書きがアピールポイントなので動画では必須アイテムだったのだろう。
では外していたあの日は?おそらく不倫相手との対面の日。
指輪を外し、メイクもしっかりし、真っ赤な口紅を付けての逢瀬。よほど愛しているのだろう。健気なことだ。
しかしこの清水健一、どんなに誉めたところで破滅へ向かいかねない薬を提供した身。
由里子の不倫に理解はしても、やはり夫を裏切る行為は許せない。それが薬提供に繋がった。
おそろしくエゴイスチックで、時に融通の利かない頑固な男。
敵に回せば限りなく死に近い不幸が待ち受ける。まさに地上に現れた死神なのであった。