#3 無痛(3)
夜のはじめの自宅キッチンで、木佐由里子は期待と不安に胸の鼓動を抑えきれずにいた。
手には日中訪問したカフェ『小庭園』で購入した2種類の薬。
これがまた不思議な効果を生む薬で、白色の錠剤は『暴力を受けた被害者が痛みを感じたと同時に、加害者も同じ箇所に同じ程度の痛みを感じる』というもの。
DV夫に苦しむ由里子のためカフェの店長清水が「目には目を」と例えを上げて提供した品だった。
彼女は購入し、効果が出るのは2~3日後というこれをいま試そうとしていた。
白黒1錠ずつでワンセット。黒の方は日常茶飯事どんな痛みも無にする薬。こちらは単体使用可。麻酔のような物と由里子は捉えている。
そして暴力行為の加害者側が飲むべき白は、対となる黒を飲んだ者のみを対象とする。
副作用など安全性に不安があるため彼女は5セットのみ購入してきた。清水店長が初めに持ってきた量そのままだ。
半信半疑ではあるも藁にもすがる思いで説明された通り、互いに1錠ずつを飲むことに。
もちろん夫へ知られぬよう晩酌に混ぜて。いつものグラスにいつもの銘柄のビールを注ぎ、薬を落とした。
清水が言っていた無味無臭の白い薬はすぐに溶けてアルコールの一部となる。
由里子も、こちらは痛みを無くす黒色の薬を口に含んで水で喉に流した。
確かに味はなかったが、これはこれで信憑性に欠けるな、と「苦い方が効き目がありそう」という思い込みから我が儘な感想を抱いた。
仕事から帰宅し着替えなどを済ませると、リビングルームのカーペットの上で足を崩して座る木佐家の当主。
帰宅時刻はほぼ一定。それに合わせテーブルには夕食が並んでいなければならないのが木佐家のルール。熱すぎても冷まれすぎていてもいけない。
その規則を破ると、ごみ箱などで殴り付けられる暴力が待ち受ける。まるで軍隊のような生活と妻は声の代わりにため息をこぼす。
ビールは夫が座ってから3分以内。時間内に現れた由里子は、寝ても覚めても不機嫌そうな夫の傍らで腰を屈め、テーブルに薬入りグラスを置いた。冷静な自分がどこか怖かった。
普段とは意味の異なる視線をそうとも知らず浴びる夫・道雄は、ビールを美味しいとは思えぬ様子で二口ほど飲んだ。
グラスを置いたのを確認すると由里子は場を離れる。これもルール。
そうして自分の席へ移動する彼女だったが、背中に声を受け必要以上の驚きで応えた。
「今日はどこへ行っていた」
「えっ!?」
「どこへ行ってた!答えろ!」
すぐに怒鳴る夫。こんな騒音聞きたくもないが、答えなければまた騒音が飛ぶ。
そして薬の件を追及されるのではと一瞬頭をよぎり、仕返しへの恐怖と良心の呵責から意味の理解できなかった質問もいまは答えが解けた。
スマホのGPSで居場所を確認していたのだろう。何を怖れてのストーカー行為なのか。
すでに居場所を知った上で嫌がらせの可能性もある。
とにかく話さなけれは狂人と化した相手に怒鳴られる。対面して偽りなく答えた。
「カフェです」
「カフェ?急にどうした」
「先週も行きました」
「男の家じゃないのか?オレの文句でも言いに」
「違います。そんなんじゃ。本当にカフェなんです」
「電話は?」
「え?」
「店名と電話番号は!」
電話して確認する気なのか。猜疑心ももはや病的。そこまでしなければ信じない男なのだ。
そんな感想を内心で呟く由里子も、自身のこのようにグダグダ文句ばかりたれる様に嫌気がさす。
だから男たちに抱かれ快楽の世界へ逃げるのだ。陰湿で性悪な自分を消して、もうひとりの積極的で大胆な女になり自己肯定するために。
それに関して独自に由里子の身元調査をし、100%と言い切れぬも確定として秘密を知った清水店長。
彼女の淫乱行為をただのストレス発散と冷ややかに見つめる。
DVは気の毒。男や快楽に逃げる気持ちに一定の理解は持つも、違う発散方法があるだろうに、と。
まあ彼の場合よき理解者のフリをしながら薬提供を証拠に、信念に基づいて早々に動いたのだが。
善人な由里子はしたたかとは気づかぬまま優しい清水店長への迷惑を第一に、事実をもって制止にかかる。
「お店は17時までなので店長さん残っているかわかりませんが」
抵抗は無駄だった。語尾と同時に足元にティッシュ箱が飛んできた。妻は諦め店の名刺を差し出した。
*
まもなく19時。閉店から2時間が経過したカフェのフロアに、店長はまだ残っていた。2階の自宅より落ち着くらしい。
店員の涼真は愛犬ゴジラのお風呂の日らしく、一緒の夕食を丁寧に断り帰宅。
清水は「広瀬さん来ないかな」と神出鬼没な常連客の訪問を店のドア部分だけブラインドを上げたまま、しかし期待はせずに待つ。
今日の夕食はエピピラフ。涼真の帰宅前に手際よく作って持たせた物の残り半分だ。
作ったといっても冷凍食品をフライパンで炒めただけ。再び火を通して温め直すと食事の開始だ。
皿に盛ってカウンター席に回ろうとし、瞬間電話が鳴った。
「はい、こちらカフェ『小庭園』です」
「聞きたいことがある。今日木佐という女が行ったか?」
「どちら様でしょうか。お客様に関する個人情報はお答えできません」
「夫が妻の行動を聞いて何が悪い」
「もしや由里子様のご主人様。申し訳ありません。お名前しか存ぜず失礼しました。彼女でしたらいらっしゃいましたが」
「それがわかればいい」
一方的に話され電話を切られ。清水はツーツーという無機質な音を半ば唖然と聞き続けた。
面識がなくともわかる。この高圧的態度は噂に聞く由里子の旦那であろう。なりすましではあり得ない。
そして彼女の苦労に同情し、苦笑とともに今度こそ食事タイム。
胸にモヤモヤを抱え、電話の応答も閉店後であるし自動アナウンスに任せればよかったと悔やむ。
イスに座り広瀬の訪問を心より望むのだった。
*
身勝手な道雄は自己満足のあと夕食の再開。
不快な思いを清水にさせたのではと、焦りや羞恥に由里子は心を痛める。
しかし幸薄い彼女の人生はこれまで通りとはいえとどまることを知らず、週末に意外な形で訪れた。
夫の仕事休みの土曜日。特に趣味もなく一日中リビングに居座る姿にうんざりしていた時のこと。
テレビの情報番組を見ていた道雄が不意に視線を移した。
「お前の行ってるカフェに行くぞ。案内しろ。30分後に出発する」
予期せぬセリフに言葉を失いながらも、彼女に逆らえるはずがない。
後ろめたいといえば薬の件だが、清水店長なら話題に出すことなく黙秘に徹してくれるはずだ。
「はい」と一言。肯定の返事をするしか道のない言いなりの由里子であった。
◆
「いらっしゃいませ」
カフェ『小庭園』に響いたふたりの男による挨拶は、このカフェには珍しい夫婦連れへ向けてのもの。
会釈をした女と異なり男はしかめっ面を崩さず清水店長を凝視し、出会い頭に言い捨てた。
「若いな」
先日電話で声を聞いてはいたが予想以上に若く、一段と苦い表情へ変化を見せる。
もちろん睨まれる側にも自分なりの思考がある。
電話の件もあり、由里子を同伴させて現れたのは恐らく夫。
まさかの来店に豪傑な清水が内心で驚くも、まずすべきは嫌悪感丸出しの声に返答だ。
「平日は先代マスターの先輩もいます。土日は私とバイトがひとり。ふたりとも美味しいコーヒーを淹れる修行中です」
何となく性格を見抜いた清水。由里子へのフォローも込めて機転を利かせると、嘘を交えて愛想笑いだ。
しかし相手にはどうでもいいらしく、話の途中に空席へ移動した。
「何だってこんな遠い店まで。男と密会か?」
どこへ移っても趣味であるかのようにネチネチと妻をいびる。
公の場で自分がどう思われようと構わないのか、実はそれすら判らぬ鈍感なのか。
後者ならまだ可愛げもあるが、性格をよく知る妻は言い訳もできず身を縮めて後を追うだけ。
彼女に代わり店長は何度目かの助け船を出した。
「関係者がもうひとりいまして。私の姉です。彼女が由里子さんを存じていて集まるならここにと呼んだわけです。五月といいますが連絡しますか?」
「いやいい」
「ご主人様は由里子さんを大切にされているのですね。先程から彼女絡みの話題ばかりおっしゃられる。彼女の全てが知りたいのですね」
皮肉であり嫌味である。穏和な清水もこれくらいの攻撃はするのだ。
さすがに誉め言葉とは捉えぬも道雄は無言。そのままトイレへ向かい、この隙に由里子は頭を下げた。
「すみません。こんなこと」
「構いません。それより五月は私の本当の姉です。35歳で化粧品会社の本社で営業をしています。何か聞かれた時はこう伝えて下さい」
「わかりました。何から何ま……あ、これを涼真君に。お願いします」
夫に知られるといちいちうるさいので、そっとバッグに忍ばせてきた手作りのイチゴジャム。渡す約束を涼真と交わしていたのだ。
タイミングがあるか不安だったが、チャンス到来に安堵すら感じてしまう。
「渡しておきます。喜ぶでしょう。さて少し落ち着きましょう。コーヒーでよろしいですか?」
*
閉店後のカフェ内で店長は食器を洗い、店員はフロア清掃。看板犬はモップを楽しそうに追いかける。
ジャズとボサノバのBGMが引き続き流れるなか、お客様への配慮も不要のガラリとした空間で涼真は話題を投じた。
午前中に現れた木佐夫妻、特に夫についてだった。
接客中にたびたび聞こえた彼の悪意しか感じない話に軽い憤りを覚えていたのだ。
お客様の中にも「威張ってるね」とか「あそこ会話ないね。旦那かな。無愛想でつまらなそう」と囁く者もいたほどだった。
「あれで旦那さんなんですか?どこの冤罪警官かと思ってしまいました」
「そうですね。夫婦の形は様々でしょうが、ああも尋問され小言を言われては取り調べ同然でしょうね」
「ボクは店長のような大人と知り合えて恵まれてますね」
モップがけの途中に足を止めてしみじみ語る少年に、こちらはグラス洗いの手を止めて嬉しそうに頬笑む。
「おや私を泣かせる気ですか?」
清水の方こそ助けた少年がこのように誠実で素直で明朗。
かといって決してイエスマンではなく意思を持ち、自分の言葉で主張のできる性格であったことに喜びを感じてしまう。
不適切な表現かもしれないが、助けた価値のある少年だ。
互いに穏やかな気持ちになって、後片づけに励むのだった。
*
出会って半年も経たぬ者同士が親交を育んでいるというのに、長年ひとつ屋根の下で暮らしている夫婦は心を通わすこともできずに生活していた。
一戸建ての自宅に着くなり木佐道雄は文句の開始。気に食わぬその相手は清水店長だ。
「ヘラヘラ笑って気味の悪い男だったな。詐欺師か?」
「客商売ですから笑顔は必要…」
「反論するな!」
「きゃ!すみません」
財布を投げつけられ腕に衝撃を感じた由里子。同時にもうひとりの声が響いた。
「いてっ!……何だ?急に腕が…くそっビール持ってこい!」
「はい、いま」
着替える暇もなくバッグだけを置き、スカートをひらひらさせながらキッチンへ向かう。
夫のうさ晴らしに付き合わされ裏では嫌悪、表では従順を装い、二面性の極端さに彼女はダメ人間を自覚する。
そしてビールを用意しながら悪女な自分が仕掛けた行為の成功を実感していた。
財布を投げつけられたとき驚いて悲鳴は上げてしまったが、衝撃の感覚はあっても痛みは感知しなかった。
それを感じたのは夫の方。ぶつけられた場所と同じ箇所を手で押さえていた。
半信半疑、いや実は信頼度1割以下だった不思議な薬の効果は抜群。これならもう叩かれても蹴られても痛まずにすむ。
効き目は3日くらいと清水店長の話を思い起こす。
購入したのは5セット。せいぜい15日。半月分で足りるはずがない。
もっとたくさん、せめて半年分は買ってストックしておきたい。
それでも1万2千円。保険適用外なのにこの値段は安い方だろう。
肉体的苦痛を回避するため近日中にも再びあのカフェへ。
薬を手中に収め怖いものは何もないと、薄笑いすら浮かべて心まで大きくなってしまった由里子。
過信が自らを滅ぼすとも知らずに強くなった気がして思考を暴走させた。
不倫相手とのかけおちを本格的に計画。彼とも連絡をとり早くこんな生活から逃れたい。
頬をきゅっと引き締め直し、暴力夫へビールを届けに向かう。その頭の中は愛人との幸せな未来で満ちていた。




