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第1話 私の英雄

――十年前。

 私は七歳だった。その日のことを今でも覚えている。

 その日、私の住んでいた村が、魔物の群れに襲われた。

 後に《大スタンピード》と呼ばれることになる災厄に。

 空は黒く煙で覆われ、炎で村中が赤く染まっていた。

「走って! クレア!」

 母に手を引かれ。

 私は必死に走っていた。

「お母さん……!」

「前を見て!」

「でも……!」

「大丈夫! 止まらないで!」

 怖かった。あちこちから悲鳴が聞こえた。

 何かが壊れる音、獣のような低い咆哮。

 剣を持った騎士たちが私たちとは逆の方向へ走っていく。

「急いで!」

「う、うん!」

 母の手を強く握ったその時だった。

 ――ドォン!!

「――っ!?」

 すぐ近くで何かが激突し、家の壁が砕けた。

「危ない!クレア!!」

 母が私を抱きしめた。

「――っ!」

 次の瞬間。

 石、木片、瓦礫。

 いろんなものが私たちへと降り注いだ。

「…………」

 最初、何が起きたのか分からなかった。

 ただ…母の腕の中は暖かかった。

「……お母さん?」

 返事がない。

「お母さん……?」

 顔を上げる。

「…………っ」

 母の額から血が流れていた。

「お母さん!!」

「……クレア……」

「お母さん!」

「大丈夫……?」

「え……?」

「怪我……してない……?」

 自分の身体を見る。

 痛くない。

「……うん」

「…………そう」

 母が少しだけ笑った。

「よかった……」

「お母さん、血が……!」

「大丈夫……」

「大丈夫じゃないよ!!」

 母に抱きついた時に気づいた。母は額からも背中からも血が滲んでいた。

「クレア……」

「…………」

「走りなさい」

「え……?」

「ここから……逃げるの」

「でも、お母さんが……!」

「いいから……!」

 母の声が強くなった。

「走りなさい!」

「嫌!」

「クレア!」

「一緒に行く!」

「…………」

 母が。

 私の頬に手を伸ばした。

「クレア、あなたはとても強い子。だから、振り返らないで……」

「…お母さん…」

「生きて」

「…………っ」

「行きなさい!!」

 私は走った。怖くて泣きながら。

 言われた通り走った。

 でも、ほんの少し。ほんの少しだけ走ったところで。

 足が止まった…

「…………」

 振り返ったら、母が倒れていた。

「…………お母さん」

 動かない。

「…………っ!」

 嫌だった。一人になるのが怖かった。

 でも、それ以上に。

 母を一人にするのが嫌だった。

「お母さん!!」

 私は戻った。

「お母さん!」

「…………」

 母の身体を。

 必死に揺らす。

「起きて!」

「…………」

「お母さん!!」

 返事は…なかった。

 その時。

 ――グルルルル……。

「……え?」

 音がした。ゆっくり顔を上げる。

「…………っ」

 魔物がいた。

 大きな口、鋭い牙。血に濡れた爪。

 その目は、私たちを見ていた。

「…いやっ…」

 逃げなきゃ、そう思った。

 でも、後ろには母がいる。

「…………っ」

 足が震えた。

 歯が鳴った。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 それでも。私は。母の前に立った。

 両手を広げ

「…………来ないで」

 声が恐怖で震える。

「来ないで……!」

 魔物が一歩近づいてくる

「…………っ」

「お母さんに……」

 涙が溢れた。

「近づかないで!!」

 魔物が飛びかかってきた。

「――っ!!」

 私は恐怖で目を閉じた。

 ――ザンッ!!

「…………?」

 何も来なかった。

 恐る恐る目を開けてみる

「…………え?」

 魔物が倒れていた。

 その前に一人の人が立っていた。

 長い鮮やかな赤い髪。

 濃い色の軍装のような服。

 そして風に揺れる真っ白なマントを翻した女の人だった。

「…………」

 その人が剣についた血を振り払い

 そして私を見た。

「よく頑張ったな」

「…………え?」

「怖かっただろ」

「…………」

 その人は私の前にしゃがんだ。

「もう大丈夫だ」

「…………っ」

 その言葉を聞いた瞬間。

 足から力が抜けた。

「お、お母さん、お母さんが……!」

「…っ待ってろ!」

 赤い髪の騎士が急いで母のそばへ膝をつく。

 そして首元に指を当てた。

「大丈夫。お母さんは生きてる」

「…………!」

「息もある」

「ほんと……?」

「ああ」

 母の傷を見る。

「まだ助かる」

「…………っ」

 涙が溢れた。

「よかった……」

「安心するのは、まだ早い」

 騎士が立ち上がる。

「急いでここから離れ――」

「おい!!」

 別の声が飛んできた。

 何人かの騎士がこちらへ駆けてくる。

「ここにはもう村人はいない!」

「全員避難したはずだ!」

 赤い髪の騎士が。私と倒れている母を見る。

「……いるじゃねぇか」

「え?」

「二人」

「…………!」

 騎士たちが私たちに気づいた。

「生存者!?」

「まだ残っていたのか!」

 その直後遠くから複数の咆哮が響いた。

「――っ!」

「魔物が増えてる!」

「ここはもう維持できない!」

「早く下がれ!!」

 赤い髪の騎士が。

 近くの騎士を見る。

「その子を連れて先に行け」

「しかし……!」

 騎士が倒れている母を見る。

「この女性も一緒に――」

「早くしろ!!」

「――っ!」

 鋭い声に騎士が息を呑んだ。

 赤い髪の騎士の胸元にある小さな紋章を見た

「…何をしている! 早く子供を連れて下がれ! 時間がないぞ!」

「り、了解しました!」

 騎士が私を抱き上げた。

「…………え?」

「行くぞ!」

「待って!」

 身体を捻る。

「お母さんも!」

「お母さんも一緒に!!」

 騎士の腕から必死に抜け出そうとする。

「離して!」

「こら!暴れるな!」

「嫌!!」

 母へ手を伸ばす。

「お母さん!!」

 届かない!

「お母さんと一緒にいる!!」

 赤い髪の騎士が。

 母のそばへしゃがんだ。

「大丈夫だ」

「でも……!」

 赤い髪の騎士はまっすぐ私を見て安心させるかのように微笑んだ。

「私を信じろ」

「…………え?」

「お母さんは――」

 倒れている母を見る。

 そしてもう一度私を見る。

「私が必ず送り届ける。だから、お前は先に行け」

「…………ほんと?」

「ああ、約束だ」

 私は。その人を見た。

 怖かった。母を置いていくのがどうしようもなく怖かった。

 それでも、その人の目を見て。

 私は小さく頷いた。

「……うん」

「行くぞ!」

 私を抱えた騎士が。

 走り出した。

「…………っ!お母さん!」

 遠ざかっていく。母が、赤い髪の騎士が。

 どんどん小さくなっていく。

 私は騎士の肩越しにずっと二人を見ていた。

 赤い髪の騎士が剣を抜く。

 そして。

 倒れている母と、迫ってくる魔物たちとの間に立った。

 長い赤い髪。

 風に翻る。

 真っ白なマント。

 その姿が。

 煙の向こうへ…消えていった。

     ◇

 防衛線へ着いて。

 地面へ下ろされた瞬間。

 私は来た道へ走り出した。

「待て!」

「――っ!」

 私を抱えてきた騎士に腕を掴まれた。

「離して!」

「駄目だ!」

「戻る!!」

「戻ったら死ぬぞ!」

「でも、お母さんが!!」

 腕を振りほどこうとする。

「お母さんがまだいるの!!」

「分かってる!」

「だったら離して!!」

「駄目だ!!」

「約束したの!!」

 騎士の動きが。

 止まった。

「…………」

 涙を拭う。

「お母さんを……連れてきてくれるって……」

「…………」

「約束したもん……」

 だから待った。

 来た道を。ずっと見ていた。

 赤い髪を。

 白いマントを。

 探した。

 でも……来ない。

 聞こえてくるのは。遠くに響く魔物の咆哮。

 剣がぶつかる音、何かが壊れる音。

 時々地面まで震えた。

 どれくらい待ったんだろう。

 七歳だった私にはほんの少しの時間が何時間にも思えた。

「……お母さん……」

 膝を抱えて耐えるしかなかった。

 信じるって決めた。約束してくれた。

 でも…もし…あの人まで帰ってこなかったら…

「…………っ」

 やっぱり、戻った方が――

「――おい!」

 誰かが叫んだ。

「向こうだ!」

 顔を上げる。

「生存者が来るぞ!!」

「…………!」

 立ち上がった。煙の向こう。

 一つの人影がこちらへ歩いてくる。

「…………あ」

 最初に見えたのは。赤い髪。

 そして。

 風に揺れる、真っ白なマント。

「…………!」

 その腕の中に母がいた。

「お母さん!!」

 私は走った。

「お母さん!!」

 赤い髪の騎士が私に気づく。

 何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ笑った。

「衛生兵!!」

 すぐにその表情が変わる。

「負傷者だ! 頭と背中をやられてる! 出血が多い!」

「こっちへ!」

「担架を持ってこい!」

「急げ!!」

 何人もの人が母のところへ集まった。

 赤い髪の騎士が母をそっと担架へ下ろす。

「お母さん……!」

「治療する! 少し離れて!」

「…………っ」

 近づきたかった。でも、今度は我慢した。

 私は赤い髪の騎士を見る。

 この人は本当に約束を守ってくれた。

「…………ありがとう」

 小さな声だった。聞こえたのか分からない。

 でも、赤い髪の騎士は私の頭にぽん、と手を置いた。それだけだった。

     ◇

 しばらくして衛生兵がこちらへやってきた。

「大丈夫だ、お嬢ちゃん」

「…………え?」

「お母さんは助かる」

「…………!」

「傷は深い。でも、命に別状はない。今、治療している。目が覚めるまでもう少し時間がかかるけれど安心していいからね。」

 足から力が抜けた。

「……よかった……」

 その場に座り込む。

「よかった……」

 涙がまた溢れてきた

 でも、今度の涙はさっきとは少しだけ違っていた。

「よかったな」

 隣から声がした。

「…………うん」

 私は何度も何度も頷いた。

「ありがとう……」

「ん?」

「お母さんを……助けてくれて……」

 赤い騎士は照れたように少し困ったように頬を掻いた。

「私は送り届けただけだ」

「でも……!」

「それに」

 その人は私を見る。

「最初に母親を守ったのは、お前だろ?」

「…………え?」

「怖かったくせに」

 笑う。

「逃げなかった」

「…………」

「よく頑張ったな」

 胸が熱くなった。

 ――よく頑張ったな。

 その言葉を私はずっと忘れなかった。

 強いからすごいんじゃない。

 怖くても誰かの前に立てる人。

 私もいつか、この人みたいに――

「あ、あの!」

「ん?」

「名前……!」

 聞きたかった。この人の、名前を。

「あ、あの、お姉ちゃんの名前――」

「上位個体出現!!」

 叫び声が防衛線を切り裂いた。

「――っ!」

 周囲の空気が一瞬で変わった。

「東側!!」

 一人の騎士が転がり込むように駆けてくる。

「東側に上位個体出現!!」

 息を切らし、顔を青ざめさせながら。

「すでに多数の死傷者が出ています!!」

 ざわめきが広がった。

「上位個体……?」

「嘘だろ……」

「まだ来るのか……」

 私は上位個体という言葉の意味をその時は知らなかった。

 でも、大人たちの顔を見ればそれがとてもとても怖いものということはわかった。

 赤い髪の騎士が。

 東を見る。

「…くそっ…次から次へと……!」

 舌打ちする。

「他の連中は!?」

「各所で交戦中です!」

「こっちに回せないのか!?」

「無理です! どこも限界です!」

「…………っ」

「このままでは東側が突破されます!」

 赤い髪の騎士が剣を握り直した。

「私が行く!」

「なっ!?」

 周囲の騎士たちが一斉に振り返った。

「一人で行く気ですか!?」

「相手は上位個体ですよ! 無謀です!」

「うるさい!」

 赤い髪が翻る。

「誰かがやらなきゃいけねぇんだよ!!」

 誰も言葉を返せなかった。

「お前らはここを守れ!」

「ですが!」

「ここを空けたら、今度はこっちが突破される!」

「…………!」

「ここを突破されるな!負傷者と避難民を必ず守れ!」

「――はい!」

 騎士たちがそれぞれの持ち場へ走り出す。

 赤い髪の騎士も剣を握り直し。

 東へ向かおうとした。

「あ……!」

 私は咄嗟にその白いマントを掴んだ。

「…………ん?」

 赤い髪の騎士が振り返る。

「お姉ちゃん……」

「どうした?」

「あそこに行くの……?」

「ああ」

「危ないんでしょ……?」

「…………」

 ほんの少し。

 間があった。

「まあな」

「…………っ」

 マントを握る手に力が入った。怖かった。

 この人までいなくなってしまうような、そんな気がした。

「…ったく」

 赤い髪の騎士が私の前にしゃがんだ。

「大丈夫だ。ここにいろ。今度は、こいつらが守ってくれる」

 そう言って近くにいる騎士たちを見る。

「…………お姉ちゃんは?」

「私は――」

 赤い髪の騎士が。

 東を見る。

「向こうの奴らを守ってくる」

「…………」

 私はその横顔を見つめた。

 怖くないのかな。みんなあんなに怖がっているのに。

「……怖くないの?」

「怖いよ」

「…………え?」

 あまりにも普通に答えたから私は驚いた。

「怖くないわけないだろ」

「…………」

「でもな」

 赤い髪の騎士が立ち上がる。

「怖いからって、放っておくわけにもいかないだろ」

 私は白いマントを握っていた手をゆっくり離した。

「……分かった」

「よし」

 赤い髪の騎士が。

 笑う。

「でも……」

「ん?」

「帰ってきてね」

 一瞬。

 目を丸くしてそれから笑った。

「ああ」

「…………」

「そうする」

 そして東へ向かって歩き出す。

 数歩進んだところで足を止めた。

「ああ、そうだ!」

 近くにいた騎士へ。

 振り返る。

「他の連中が来たら伝えろ!」

「え?」

 赤い髪の騎士が剣を肩へ担ぐ。

「――先に行ってるって!」

「…………!」

「頼んだぞ!」

「は、はい!」

 そして走り出した。

「…………」

 私はその背中をずっと見ていた。

 長く赤い髪。

 そして、風を受けて大きく翻る真っ白なマント。

 みんなが怖がって騎士たちでさえ一人で行くことを止めた場所へ。

 あの人は走っていく。

 名前は、結局聞けなかった。

 それでも忘れなかった。

 赤い髪。

 白いマント。

 あの背中。

 ――私を信じろ。

 そう言って本当に母を送り届けてくれた人。

 怖くても誰かを守るために前へ進める人。

 あの日。

 七歳だった私は。

 初めて。

 心の底から。

 思った。

 ――あの人みたいになりたい。

     ◇

 ――十年後。

「――よし」

 鏡の前で最後に髪を整える。

 あの日のあの人みたいに背中まで伸びた長い金色の髪。

 腰には一本の剣。

 机の上には。

 荷物、路銀そして、一枚の資格証。

 私はそれを手に取った。

 そこに自分の名前がある。

 ――クレア・フォルゲン。

 十七歳。そして今日から一人の騎士。

「クレア」

 後ろから声がした。

 振り返る。

「本当に行くのね」

 母が立っていた。

「うん」

 十年前。

 血まみれで倒れて動かなくなった母が。

 今。こうして生きて私の前にいる。

「探すんでしょう?」

「うん」

「あの人を」

「うん」

 母が少しだけ困ったように笑う。

「十年も経ってるのよ?」

「分かってる」

「どこにいるかも分からない」

「うん」

「名前すら知らないんでしょう?」

「うん」

「…………」

「でも、探す」

 私は剣を腰へ差した。

「見つかるまで」

「…………頑固ね」

「お母さんに似たんじゃない?」

「誰にそんなこと言われたのかしら」

「お母さん」

「…………」

「…………」

「ふふっ」

 母が笑った。

「行ってらっしゃい、クレア」

「…………うん」

 扉へ向かう。

 手をかける。

 そして振り返った。

「行ってきます!」

 扉を開ける。

 朝の光が差し込んだ。

 名前は知らない。

 どこにいるのかも分からない。

 今も騎士をしているのかさえ分からない。

 分かっているのは長い赤い髪と白いマント。

 そして十年前私と母を助けてくれたこと。

 あの日から私は剣を握った。

 何度も転んだ。何度も負けた。

 それでも立ち上がった。

 騎士になった。

 いつか。

 もう一度。

 あの人に会うために。

 そして今度はちゃんと。

 名前を聞くために。

 十年経った今でも。

 あの赤い髪の騎士は――

 私の憧れだ。

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