やっぱり私には
結局、私は逃げた。
脱兎の如き、とはまさに今の私のことである。
「なら、なんであの場で即座に『違います! 私はこの人とは無関係でただ巻き込まれただけなんです〜(泣)』って否定しなかったんだ?」と、後から冷静に言われれば、その通りである。
くそぅ、被害者ヅラすればよかった(クズ野郎)
だが、考えてもみてほしい。
あんな、世界の終わりみたいな異常極まりない状況に突如として巻き込まれて、まともな判断ができる脳みそを、私はあいにく持ち合わせていない。
というか、持ち合わせていたらこんな不憫な立ち回りをしていないと思う。それこそ友だちはたくさんいて、毎日放課後に友だちとカフェやカラオケに行ったりしているリア充になれたかも…。ないか。
脳内のカナシイ妄想はさておき、気づいた時には私の足はアスファルトを蹴っており、全力疾走で現場を離脱していたのだ。
昼休みが終わる予鈴のチャイムも、その後の5時限目の授業開始のチャイムも、すべて頭の上を通り抜けていく。
———なぜならいま私は屋上にいるから☆
高校生活わずか2か月にして、記念すべき初の無断欠席である。教科担任の先生、本当にゴミクズな生徒でごめんなさい。来週からちゃんと授業に出ます……たぶん。
逃げ場もさえ失った哀れな私が選んだ行く末は、第二の安楽の地であった。
今回ばっかりは逃げてばっかりの自分を冷笑するしかない。うお!w
実は以前、学校の隠れ基地を探すために校内をくまなく探検していた際、屋上へ続く重い鉄扉の鍵が壊れているのを、偶然にも発見していたのだ。
この秘密を知っているのは、おそらく校内で私ただ一人。
あーあ、逃げ足とこういう無駄な隠れ場所を見つける能力だけは、本当に一丁前だな、あかねちゃん!
というか、これ完全に「詰んだ」のでは……?
この後、這う這うの体で教室に戻ったとしても、待っているのは桜凪さんからの「裏切り者を見る冷徹な視線」だ。
それが怖くて、明日は仮病を使って休む。
明後日も、なんとなくお腹が痛いことにして休む。
それを何日も繰り返しているうちに、気づけば出席日数が足りなくなって留年決定。
一つ下の学年のクラスに放り込まれるも、そこでも元・不登校児としてのちっぽけなプライドが邪魔をして孤立。
結局、あの血のにじむような受験勉強は何だったのかという話になり、この高校を自主退学。
新しい通信制の学校に編入するものの、そこでも圧倒的なコミュ力の欠如によって周囲から完全に浮いてしまい、最終的には自分の部屋の押し入れの中で一日中SNSを徘徊しては、他人のきらびやかな人生を呪う、暗黒のモンスターが完成するのだ……。
そして、部屋のドアの向こうから、涙で声を詰まらせたお母さんの呼ぶ声が聞こえてくる。
『あかねちゃん……ご飯、ドアの前に置いておくからね? もう、学校なんて行かなくていいから……生きてて、くれるだけで、いいから……ね……?』
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
あまりのリアルな脳内バッドエンド劇場に耐えかねて、私は頭を抱えて激しく首を振った。
……え? 今の声、ただの私の幻聴だよね?
さすがに怖すぎるわ。私の負の妄想力、全米を震えさせられるホラー映画の監督になれるレベルで発達してない?そうだ、ホラー監督になるか。あ、コミュ力ないんだった。諦めよ…。ぐすん。
あかねちゃん、お願いだからその卓越したクリエイティブな発想力(笑)を、もっとこう明るい場面に使えないものかね、君は。自分が不憫すぎてもはや踊ることしかできない。ぱーりない!!
というか本当に、どうしてあの時、反射的に走って逃げてきちゃったんだろう。
あの瞬間、桜凪さんの目をまっすぐ見つめて、「ごめんなさい、私と桜凪さんはそのような関係ではありません!」と、凛とした態度でピシャリと断れるような、物怖じしない強固なメンタリティが備わっていればよかったのに。
……いや、待て。
もしそんな強靭なメンタルを生まれ持っていたら、そもそも今頃こんな中庭の片隅で、根暗ぼっちなんてやってないんだよなぁ。
実に、実にカナシイ現実である。。。
まあ、とりあえずここで一人、屋上の冷たい風に吹かれながらうじうじしていても、目の前の残酷な現状は何一つ好転しないことだけはよく理解できたので、観念して教室に戻ることにした。
いいんだ、私はただの空気。誰も私の存在なんて気にしていない。
※
6限の途中。
教団で授業をしていた教師からも声をかけられることなく、ひっそりと、まるでエアコンが吐き出す微風のように教室への帰還を果たした私だったが、どうやら運命の神様は、私にこれ以上の平穏を許してはくれないらしい。
「6限が終わったら早く帰って、YuuTubeで動画でも見よう……」
そう思いながら、いまの授業の教科書を取り出そうと机の引き出しに手を突っ込んだ私の指先に、カサリと、硬質な紙の感触が触れた。
本能レベルで嫌な予感がした。
引きずり出すようにして取り出したのは、一枚の小さく折り畳まれた紙切れ。
【放課後、屋上】
「……」
宛名は書かれていない。だが書いた人物が誰であるか、察するのに私の貧弱な脳みそは一秒も必要としなかった。
視線を感じた。ひぃぃぃぃぃ!!!
仮にもしこれが熱烈な視線なら少女漫画的妄想として解釈することができるのだが、あいにく、教室の反対側の席から私に向けられているのは人を刺し殺せるくらいの尖った視線。
少女漫画のような甘酸っぱい青春ラブコメは一瞬にして砕け散った。というか、そもそも存在しないのだからラブコメに発展することなんてないのは当然の帰結である。
「……アホか」
自分で自分に鋭いツッコミを入れ、妄想の泡を弾けさせる。
からっからの、砂漠のような虚しい風が、私の荒涼とした心の中を吹き抜けていった。
悲しい。虚しい。
ぐすん。。。
結局授業を聞く気にもなれず私は教科書を取り出すことすらせず机につっぷすることにしたのだった。
※※
夢を、見ていた。
冷たいようで、どこか手を伸ばしたくなるような。
そんな夢。
入学式の日の帰り道。
あいにく春の嵐のような、激しい雨が降っていた。
高校デビュー初日にして、誰一人として話しかけることができず、完全な敗北感を背負ってトボトボと歩いていた私は、普段は誰も立ち寄らないような、寂れた公園のベンチの前に差し掛かった。
そこで、激しい雨の音の中に、ぽつんと佇む、一つの小さな背中を見つけたのだ。
私と同じ制服。胸元のリボンの色は、1年生を示す赤。
「あ、これって、もしかして……陰キャ脱退の大チャンスなのでは!?」
そんな、今思えば浅はかで浅薄極まりない考えのもと、私はなけなしの勇気を全て振り絞って、その女の子に話しかけたのだ。
雨に打たれ、散り急ぐ桜の花びらが地面をピンク色に染める美しい景色の中。
公園のベンチに座っていたその女の子は、傘もささずざーばーと降る激しい雨のせいでスカートはその本来の黒を変えるように濡れになり、白い制服のシャツもところどころ肌に張り付いていた。
「あの、えと! こ、こんなところに居たら、風邪ひいちゃいますよ!」
人生で初めて、見知らぬ同級生に放ったありきたりで、誰にでも言える言葉。
本当に私なんかじゃなくても、通りすがりの誰でもよかった、安っぽい言葉。
けれど私の言葉を聞いたその少女は、濡れた前髪の隙間から鬱陶しいものを排除するかのような、底冷えのする鋭い瞳を私に向けてきた。
「———じゃあ、貴方が代わりに濡れてくれるの?」
その言葉の意図を、当時の私は全く理解できなかった。
この人は、一体何を言っているのだろう。
どう返答すればよいのか分からず借りてきた猫のように固まっていると、追い打ちをかけるように彼女は冷たく言い放った。
「なら、どっか行って」
それが、私と、のちに判明する彼女———桜凪由奈との、記念すべき初めての会話だった。
「———」
あの時、私はなんて答えて逃げ出したんだっけ。
記憶のモザイクは都合の悪い断片に厚塗りを施す。どうしても思い出せなかった。
けれど私は拒絶されたあの瞬間の、まるで迷子になった小さな子どものような、今にも泣き出しそうな彼女の表情が頭からこびりついて離れない。
※
「っ……」
夢を、見ていたような気がする。
放課後の誰もいない教室。窓から差し込む西日が、私の机をオレンジ色に染めていた。
精神的HPが完全にゼロになった私は、6限すべて机に突っ伏して爆睡していたらしいと思い出す。
外からは、仮入部期間特有の、運動部の元気いっぱいの掛け声や、吹奏楽部が奏でる少し不協和音の混ざった楽器の音が響いてきている。
「ふぁー……」
まだ完全に覚醒していない脳みそを手のひらでぽんぽんと叩きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていると、ガラガラと静かに教室の引き戸が開く音がした。
ひ、ひえっ! だ、だれ!?
まさか、お豆腐メンタルがぐっちゃぐちゃになった私に、トドメを刺しに来た刺客!?
新手のいじめですか! 先生、この学校には、放課後の教室で無防備に寝ている生徒を襲撃する悪質ないじめがあります!!
お豆腐界隈の絶滅危惧種をいじめて、そんなに楽しいですか!
……あ、そんな界隈、地球上のどこにも存在しませんね。コドク。ぐすん。
「それでね、柚ちゃんが『あのケーキ美味しかった!』って〜」
あ、入ってきたのは、一ノ瀬さんだった。
クラスメイトの友達数人に囲まれて、向日葵のような明るい笑顔で話す彼女———一ノ瀬七海さんは、サラサラの金髪に、吸い込まれそうな澄んだ青い瞳を持つ、名実ともに本校のスクールカーストの頂点、学内外問わず高い人気を誇る超一等美少女である。
そのあまりの美しさはクラスの誰もが、一度見つめただけで魂を吸い取られるかのように見惚れてしまうほど。
私なんて、彼女の姿が視界の端に入っただけで、フリーズした古いパソコンのように熱を帯びて煙を吹き出してしまうレベルだ。
ああ、これはあかねちゃんがポンコツなPCだからですねww
いとあはれ。
↑(泣)
そんな、私とは天と地くらいの絶対的な差がある一ノ瀬七海さんは、この学校の生徒たちの間で『紗耶高校の天使ちゃん』という、大真面目な異名で呼ばれている。
本人は「えー、そんな大げさだよー!」と恥ずかしそうに否定しているがその異名に違わず、彼女は神が作り出した最高傑作のような美貌と、誰に対しても分け隔てなく接する、深い慈悲の心を持っていた。
……あれ?
一ノ瀬さんが天使なら、私は何だ?
ふとそんな疑問が脳裏に浮かぶ。
『紗耶高校の、可燃ゴミ回収日に出され忘れた生ゴミちゃん』とか、そういう不名誉な別名がつけられているのでは?
私の脳内の、ツノが生えた大悪魔バージョンの一ノ瀬ダークネスが、意地悪な笑みを浮かべて語りかけてくる。
『あかねちゃん、あなたは私みたいな、今にも背中から白い翼が生えそうな天使とは違って、月曜日の朝一にゴミ集積所にぶち込まれる粗大ゴミがお似合いだよね(笑)』
違う! 本物の一ノ瀬さんは、絶対にそんな酷いことを言う人じゃない! 一ノ瀬さん、私の脳内悪魔が勝手に失礼な妄想をして、本当にごめんなさいぃぃ……。
〈へぇー、あかねちゃん、月曜日のゴミなんだー。一ノ瀬さんのゴミ出しサイクルが知れる、住所特定のいい手がかりになるね♪〉
おい、脳内のゴミロリあかね(5)、勝手にストーカーみたいな不穏な張り合い方をするんじゃない。いやというか特定とか完全にストーカーじゃねぇか。なにしてんのあかねちゃん。
私の脳内は、今や大悪魔一ノ瀬ダークネスと、それに対抗しようとするロリあかねちゃんによる、不毛極まりないレスバで完全に占領されていた。
カ・オ・ス!
混ぜるな危険、の注意書きを無視して劇薬を混ぜ合わせたような、脳内環境である。
私の脳内、おわってんなぁ…
時々、本当にふと思う。
もし。
もしも私の「高校デビュー計画」が大成功を収めていたら今頃私は、あの一ノ瀬さんを中心とする華やかなグループの輪に加わっていたのだろうか。
大勢で机を囲んで、他愛のないおしゃべりに大輪の花を咲かせ、学校の帰りは近くのお洒落な喫茶店に寄り道して、「ねえねえ、〇〇先輩って彼女いるのかな?」みたいな、甘酸っぱい恋バナに興じたりして。
あそこには私が人生でずっと、それこそ喉から手が出るほど求めていた「青春のすべて」が、ぎっしりと詰まっているように思えてならない。
今この瞬間から、勇気を出して彼女たちに一歩、歩み寄ってみたら――。
いや、違う。
歩み寄る度胸も、彼女たちの輪に加わる資格も、今の私にはこれっぽちも存在しないのだ。
昔も今もこれからも私はただただ自分が本当に欲しいものを遠く離れた安全な日陰から、じっと眺めていることしかできなかったのだから。
———傍観者。
ふと、そんな冷徹な3文字が頭に浮かび、胸を締め付けた。
話し方を変えて、猫背を伸ばして、髪型もお洒落に変えた。
ちょっとは、あの暗黒の中学時代よりも、変われたはずだ。そう信じたい自分が、心のどこかには確実に存在していて。
でも。
私は結局、何一つ変われてなんていなかったのだ。
外見だけを取り繕って、ハリボテの陽キャの仮面を被ったところで、私の本質はあの頃の泥沼のままだ。
私は一体、何のためにこんな必死な道化を演じているのだろう。
周囲の人間からすれば、私はただの無理して背伸びしている、痛々しい奴に映っているのではないか。
入学当初は、陽キャの人たちと対等になりたくて、必死に自分から話しかけた。あの時の私には、まだ「自分を変える」という熱量が残っていた。
でも、彼女たちの間で繰り広げられる、まるでプロのラリーのような高速会話のテンポについていけなくなり、言葉に詰まるたびに、周囲の視線が、他人の存在が、どんどん恐ろしくなっていった。
そして気づけば、私は他人にペコペコと頭を下げ、顔色を窺い、機嫌を取るためだけの存在に逆戻りしていた。
媚びを売ることを手段にして、なんとか陽キャの末端にしがみつこうとしていたのだ。
何やってんだよ、あかね。
あの頃と、何にも変わってないじゃん。
その歪んだ関係の先に、どんな最悪の結末が待っているのか、お前は世界で一番よく知っているはずなのに。
「……っ」
悔しさと情けなさで、ぎゅっと唇を噛み締めた。
口の中に、ほんのりと鉄のような、錆びた血の味が広がった。
ああ、みじめだ。
本当に惨め。
今、同じ教室の反対側で楽しそうに笑っている女の子たちは、私のこの必死で不様な姿を見て、心の中で嘲笑っているのだろうか。
「あの子、必死すぎてウケるよね」って、蔑まれていないだろうか。
弱い人間が、身の程を知らずに上の世界へ這い上がろうとして、無惨に滑落した。
その失敗の代償は、あまりにも大きかった。
無様で、みっともなくて、救いようがない。
でも、どうしようもないじゃないか、そんなの。
私だって、私なりに必死に頑張ったんだよ。
頑張れば報われるって。
先生とかお母さんは言ってたじゃん。
努力した人間がちょっとだけ幸せになりたいと願うのは、そんなに悪いことなの?
私のような日陰者がきらびやかな太陽を見上げること自体が、許されない罪だった?
幸せになろうと足掻いたからこそ、私はこんなにも不幸になってしまったのだろうか。
本当に皮肉だ。
努力は天性の前では意味をなさない。がんばりは神様には評価されない。
教室の日の当たらない隅っこから彼女たちを見つめる私と、窓際で夕日を浴びてキラキラと輝いている彼女たち。
私たちの間には一体、どれほどの距離があるのだろう。
あと何歩歩けば、私はあの光の中に辿り着けますか。
あと、どれほど自分を偽って頑張れば、私は「普通」になれますか…。
つかれたな、、、
頑張るのが
上を目指して歩くのが
苦痛だ。
無数の答えのない問いが、脳内で何度も何度も反芻され私の心をズタズタに引き裂いていく。
さっきまで楽しそうに話していた一ノ瀬さんたちは、どうやら部活動の準備のために鞄を取りに来ただけだったらしく、賑やかな声を廊下に残して、教室を立ち去ろうとしていた。
「———ふしみ、さん?」
不意に去り際の一ノ瀬七海さんが何かを察したかのように立ち止まり、私の名前を呼んだような気がしたが、もはや今の私にはそれを確認する気力すら残されていなかった。
もう、頑張らない。
上を見るのも、キラキラした青春を夢見るのも、全部おしまい。
一生、日陰の隅っこで、暗いジメジメした陰キャのまま生きていこう。
もう、どうでもいいんだ。
溢れ出てきそうになる涙を、制服の袖口で乱暴に拭い去る。
冷たい感触が、肌に染みた。
……そろそろ、約束の時間だ。
覚悟を決めて、屋上の桜凪由奈に、会いに行かなきゃ。




