十話
最近は植物探しで忙しかったから、それがなくなると急に手持ち無沙汰になった感じで、僕は何もすることがなく、部屋でぼーっとする時間が増えた。仕事を受ける前の暮らしに戻っただけのことなのに、どうしてもその時と同じように過ごすことができない。その原因は明白だ。トーラともう会えないっていう現実が心にのしかかってるからだ。こんな心境になるのはこれで二度目。以前はそう思ってたところにトーラが会いに来てくれたけど、今回はさすがに現れはしないだろう。許嫁がかなり警戒してたから、彼女のことには目を配ってるに違いない。しかもあんな別れ方をさせられて、正直心残りがある。まともな別れを、恋心を吹っ切るような別れの言葉をかけられてれば、こんなに悶々として過ごすこともなかっただろう。食事をしてても、庭掃除をしてても、脳裏にちらつくのは最後に見た、困惑した笑顔のトーラだ。彼女はもっと光り輝くような笑顔を見せられるのに。
時間を持て余した僕は、部屋の隅に置かれた画布の前へ行く。その中の彼女は今日も変わらず自然な笑みを浮かべてる。黒い線だけの、真っ白な表情で。僕は試しに筆を握ってみたけど、やっぱりまだ描く気力が湧いてこない。こうして何度も画布の前に立ってはみるけど、なかなか手が動いてくれない。せっかく時間があるのに、僕の意識は現実のトーラばかりを気にしてしまう。
「……駄目だな」
僕は筆を置いて椅子に座る。これじゃ本当に駄目だ。心も頭もモヤモヤして何にも進めない。失恋の痛みってやつなのかな、これが……いや、失恋なのか? これは。もともと許嫁がいることを知ってたんだし、叶わない恋だとわかってたんだ。失恋ならとうにしてた。つまりこれは、ただ自分の気持ちが整理できてないだけのことなのかもしれない。不本意な別れ方……やっぱりそれがよくなかったんだろう。これがモヤモヤの原因なんだ。じゃあそれはどうやって解消したらいい? 彼女にはもう言葉は届けられない……。
「……言葉以外を、届けるのは……?」
心残りにはちゃんとした別れができなかった他に、中途半端に終わってしまった植物探しの仕事もある。まだ一緒に探すつもりだったのに、許嫁が現れて中断させられた。僕は最後まで仕事を果たしてない。トーラには会えなくても、せめてこれだけでも果たせれば、少しは気持ちが進み始めてくれないだろうか――そう考えて、僕は重い腰を上げて二階へ向かった。
本棚の前に立って、植物に関する本を数冊手に取り、一人用のソファーに座ってページをめくっていく――トーラには探してる植物の名前をいくつか聞いてるし、まだ見つけてない植物もある。それを僕が集めてエルフの都まで持って行けば仕事は果たせる。ただ、人間の僕が突然行って都に入れるものなのか……その辺りは不安もあるけど、事情を話せば材料ぐらい届けさせくれるだろう。森の再生に必要なものなんだ。エルフの人達も冷たくはしないはず、と願いたいけど。
そうして僕は残りの植物集めを一人で再開させた。連日、野山を松葉杖で歩き回って、トーラの求める植物を探して、採って、見つからなければさらに調べて、また歩き回ってと、時間をかけて集めた。その努力の結果、聞いてた植物を全種類集め切ることができた。でも中には数が採れなかったものもある。もう少し遠くへ探しに行けば見つけられるかもしれないけど、僕の足じゃ時間がかかり過ぎて泊まりがけになる可能性が高く、その間に採った植物を枯らせてしまいかねない。だからそれは諦めて、まずは届けるのを優先することにした。
「エルフの都までの道って、歩いてればわかるかな……」
夜、集めた植物をかばんに詰め終えて、僕は机に広げた地図を眺めてた。そこにはこの地域の町村や街道などが記されてて、西の隅にはエルフの都グラースリューレの名も書かれてるけど、なぜかそこまでの道は記されておらず、広い草原と森が簡単な絵で描かれてるだけだった。これはどういうことだろう。都までの道はないってことなのか、それとも、エルフとの交流はないから、道を書く必要はなかったってことなのか。何にせよ、この地図じゃ役に立たないってことだけはわかった。迷子にならないか不安ではあるけど、とりあえず行ってみるしかなさそうだ。
「……そう言えば、エルフの住む地域は魔獣がよく出るって言ってたな」
トーラにモデルをしてもらってた時、そんな話をしてたのをふと思い出した。丸腰で出歩くのは危険なのかな――僕は棚に置いてあった道具箱を開けて、そこから大きめのナイフを取り出した。これは木の枝を切ったり削ったりするのに使ってるもので、狩猟とか護身用じゃないんだけど、でもここには剣とか槍はないし、あっても今の僕には扱い切れない。これぐらい軽いナイフがちょうどいい。まあ、こんな小さい武器で魔獣に対抗できるとは思ってないけど、丸腰よりはましだろう。とにかく、出会わないよう祈っておこう。
「荷物はこれだけでいいかな……」
確認をすべて終えた僕は、明日の朝に備えて早々にベッドにもぐり込んだ。
そして夜が明ける前の早朝――重い瞼をこじ開けて僕は身を起こした。軽い朝食をとって、手早く身支度を済ませると、ナイフをベルトに挟み、かばんを肩に提げて家を出発した。
こんな時間に外を歩くのなんて、兵士だった時以来だ。遠くの空は白みかけてるけど、辺りはまだ暗く静かな空気に満たされてる。それでも近くの林の奥からは鳥の声がわずかに聞こえてくる。動物達もこれから目を覚ます時間帯だ。僕の足がこんなじゃなければ早起きする必要もなかったんだけど、地図から推し量るに、都までは七、八時間ぐらいはかかりそうな距離に見えた。でもそれは健常者の場合であって、右足を失ってる僕だともっとかかってしまうのは間違いないだろう。行って帰って来ることを考えると、前日の夜に出たほうがよかったのかもしれないけど、夜中に出歩くのはさすがに危険だ。だから早朝に出発することにしたわけだ。でも道に迷えば夜までうろつくはめになりかねない。急ぎつつも、都までの道を見極められるといいんだけど。今はそれが不安だ。
まずは道に沿って西進して、それが途絶えたら草原を突っ切って行く。この辺りまでは地形も平坦で松葉杖でも順調に進める。太陽も昇り始めて、肌寒かった空気にも徐々に暖かさが混じり始めてきた。眩しい朝日に照らされながら、都の方角を見失わないよう気を付けて歩き進む。
そうして五時間ほど、休憩もしながら歩き続けてると、前方にポツポツと立つ木々が見えてきた。この辺りから森に変わるみたいだ。でも森のわりに緑があまり見えない。それどころか黒や灰色が目立ってる。
「……そうか。こんな端のほうまで、火事は広がったのか」
手前に立つ木に近付いて、僕は見上げた。葉は一枚も残っておらず、枝が寒々しく四方へ伸びてる。幹はすすなのか焼け焦げたのか、絵の具で塗られたように真っ黒に変色してる。これと同じ木が、先を見るといくつも立ち並んでた。確かにこれは壊滅的な被害だ。無事な木や植物が一切見当たらない。トーラ達が力を合わせて再生に頑張ってるのもよくわかる。ここまで焼失したなんて、彼らには相当な衝撃だったろう。
「……ん、これは……」
進もうと視線を地面に向けた時、そこに色鮮やかな緑が見えて僕は近付いた。灰が積もったモノクロの景色の中で、それは生き生きとした命を主張するように顔を出してた。業火の中でも生き抜いた新芽の小さな葉だ。すごいな。こんなに焼け焦げた大地でも芽を出すなんて――周囲をよく見れば、焦げ跡の隙間から幼い芽がいくつか顔をのぞかせてた。黒くなった木の枝にも、目を凝らさないと気付かないほど小さい緑の芽が出てた。死んでしまったように見える森だけど、そうじゃないようだ。生き残った植物はたくましく次世代を残そうとしてる。まだ死んでなんかないと。
「助けてあげないとな……」
それがトーラ達の思いで、僕はその手伝いをしてるのか。実際に火事の現場を目の当たりにすると、さらに実感が湧いてくる。集めた材料、早く届けないとな――植物を詰めたかばんを肩にかけ直して、僕は焼け野原の森を突き進んだ。
焼けて何もなくなった場所だから歩きやすいものと思ったけど、それはまったく違った。折れたり焼け残った木の断片が無数に地面に散らばってて、僕の行く手を幾重にも邪魔してくる。乗り越えられるものならまだいいけど、大木なんかだといちいち避けて遠回りしないといけない。地面もデコボコしてて、灰に覆われたくぼみや木の根に松葉杖が引っ掛かって、何度もつまずきそうになる。少し進むだけで息が上がる状況だった。
「ちょっと、まずいかな……」
思わず心配が口から漏れた。森に入って明らかに進む速度が落ちてる。しかもだんだん傾斜がついて上り坂の地形に変わってきてる。休み休み歩いてはいるけど、この調子だと都に着くのは夕方か、下手すれば夜になってしまう。帰りのことを考えれば、もう一気に進むしかないか――僕は気合いを入れて、強く握った松葉杖を動かす。頭上を仰ぐと、青空に浮かんだ太陽は僕の真上まで来てた。
それから何時間歩き続けただろうか。太陽は西へ傾いても、僕はまだ焼け野原の森を歩いてた。……方向は合ってるよな? 都はこの先にあるはずなんだ。でも一向に見えて来ないのはなぜだろう。もしかして地図で距離を見誤ったのか? 実際はもっと遠くて、半日以上かかる距離があったんだろうか。いやでも、じっくり見て測って、間違ったとは思えない。だとするとやっぱり、僕の問題か。体力には自信があったけど、この足下の悪さは予想してなかった。これで体力を削られて、歩みが鈍くなって遅れ始めたってことなんだろう。これは失敗したかも……でもそんなこと考えてる暇はない。辺りが暗くなる前に、少しでも急いで都にたどり着かないと。せっかくここまで来たんだ。今から引き返すなんてできればしたくない。
けれど僕の焦る気持ちとは逆に、進んでも進んでも都は見えて来ない。やっぱり何か間違えてるのか? 当初の予定からどんどん外れて行く現状に、嫌でも自分を疑ってしまう。スカスカの森を通り抜ける風が、冷たさと静寂を広げて行く。耳に届くのは荒くなった僕の呼吸の音だけだ。ちらと見上げれば、眩しい太陽は黒く染まった木々の向こう側へ隠れ始めてる。夕闇がすぐそこまで迫ってる――僕は一旦足を止めて考えた。このままじゃ間違いなく夕暮れを迎えてしまう。木が焼けて見通しはいいとは言え、暗い中、都を探し続けるべきなのか。それとも悔しい気持ちを抑えて引き返す判断をするべきか。身の安全を優先するなら今すぐ引き返したほうがいいとは思う。だけどそうするのはやっぱり悔しい。森まで来て、斜面を上って、時間と体力をかなり使ってここまで来たっていうのに、引き返してしまえばそれら全部が無駄になってしまう。それに、もしかしたら都まであと少しの距離まで来てるかもしれないんだ。もうちょっと進めば、この植物達を届けられる可能性だってある。でもあくまで可能性……都まで遠ければ、僕は焼けた森を朝までさまようことになるだろう。体力もなく、空腹の状態で狼に追い回される……そんなことになったら最悪だ。心残りを果たすのに、何も命を懸けることはない。不本意ではあるけど、ここは引き返して出直したほうがいいのか――そう決断をしようとした時だった。
ザク、と灰の地面を踏み締めるような音が聞こえて、僕はそっちへ目を向けた。こんなところに僕以外の人でもいるんだろうか――視線を動かして音の主を捜したけど、立ってるのは焦げた木だけで、そのどこにも人影らしきものは見当たらない。聞き間違いか? でもはっきり聞こえた。風とか、枝が折れて落ちたとか、そういう音じゃなかった。確かに、地面をギュッと踏み締めたような、力強い音がここまで――
「……!」
動かしてた視線が黒い影をとらえて、僕は思わず息を呑んだ。ザク、と再び同じ音が聞こえた。それは黒い影が動くのと同時に鳴った。太い木の後ろからぬっと現れた影は、すでに僕に気付いてるようで、鋭い眼光をこっちに向けてた。低い体勢で毛むくじゃらの四本の足をゆっくり動かして歩いて来る――それは明らかに人じゃないし、普通の動物でもない。艶を放つ黒い体毛に金属も貫きそうな鋭利な爪、そしてこっちを狙うように見てくる赤い三つ目。一番出くわしたくなかった存在……魔獣が目の前にいた。
恐怖と緊張に、僕は落ち着けと自分に言い聞かせる。魔獣と相対するのはこれが初めてじゃないんだ。兵士時代に対処方法を習っただろう。えーと、確か、魔獣と鉢合わせたら、それ用のおとりの餌で誘導して……って、そんな物持ってない。餌がなければ、何だったか。目線を合わせたまま、静かに距離を取るんだったかな。魔獣は普通の動物より賢いらしいから、しばらくは様子を見てすぐには襲って来ないと言われてる。現に今も、魔獣はウロウロしてるけど僕に襲いかかって来る様子は見せてない。このまま距離を開けて逃げさせてくれれば……それができなかった時のために、一応持って来たナイフを出しておこうか――ベルトに差し込んでたナイフを引き抜いて握った瞬間だった。魔獣の動きが止まり、突き出た口元が白い牙を剥いた。……威嚇してる? 何で急に……まさか、このナイフを認識してるのか? 危険な物を持ってると。
すると魔獣はゆっくりと、徐々に速さを増してこっちに向かって来た。赤い三つ目には僕への殺気しか見えない。これは、まず過ぎる。逃げるにしてもまだ距離を十分に取れてないのに――
「く、来るな!」
僕は苦し紛れに大声を上げて、握ったナイフを前へ突き出した。こんなんじゃ牽制にもならないと思ったけど、意外にも魔獣は二の足を踏んでくれた。僕に近付くのをためらい、またその場をウロウロし始める。でも赤い目は変わらず僕を狙い続けてる。……やっぱりこのナイフを警戒してるみたいだ。それなら今のうちに――ナイフを魔獣に向けながら、僕は慎重に移動した。後ずさったり、横向きに歩いたり、とにかく魔獣から目線を外さないよう距離を取ろうとした。これに向こうもナイフを警戒しつつ、一定の距離を保って追いかけてくる。どうしても僕という獲物を諦めたくないらしい。それほど飢えてるんだろうか。それとも僕が美味そうに見えるのか。
だけど困ったな。これじゃこいつからいつまで経っても逃げ切れない。どうにか引き離さないと、新手の魔獣が現れて挟み打ち、なんてことにもなりかねない。今はこう着状態に見えても、先を見れば僕が食われることしか見えない。つまりこのままじゃ死ぬだけ……なら、まだ辺りが見える明るいうちに、一か八かで思い切って逃げてみようか。万が一転んだとしても、右足を奪ったあの魔獣より、こいつの身体は大分小さい。僕より一回りほど小さいだろうか。そしてこっちには武器がある。押さえ込んで急所を突くこともできなくはないだろう。その場合、僕も大怪我をする可能性が高いけど、でも死んでこいつの餌になるよりはましだ。
「やって、みるか……」
生きるか死ぬか――自分に突き付け、決めた選択肢に、全身がビリビリとわななくのを感じながら、僕は魔獣を睨み付けた。向こうも何か感じ取ったのか、ウロつく足を止めてじっとこっちを見てくる。時間が止まったような空間……そこで僕は呼吸を整えて、松葉杖を握る左手に力を込めた。そして――
「食らえっ!」
槍のようにして思いっ切り投げ付けた。先端が魔獣の顔面に向かって飛んで行く。だが当たる寸前で黒い身体はひらりと横へ避けた。僕はそんな様子を横目で見ながら、残る一本の松葉杖で勢いよく逃げ出す。二本のほうがバランスを取りやすいけど、一本だけでも走れないことはない。残念ながら当たらなかったが、わずかでも動きを遅らせる時間は作れた。ここでできる限り距離を取って――
「ひっ……!」
ザザァと派手に灰を舞い上がらせて、僕の目の前を黒い塊が塞いだ。一瞬、何が起きたかわからなかったけど、魔獣が僕を跳び越えて着地したんだと理解した。逃げ道を塞ぎに来るなんて、本当に魔獣は賢い生き物らしい……。
「グルルル……」
地鳴りのような低い唸り声を出しながら、魔獣は牙を見せてこっちに迫って来る。……まだだ。まだ手元にはナイフがあるんだ。そしてこいつはこれを警戒してる。ナイフさえあればどうにか……!
「近付けば、これが突き刺さるぞ……!」
僕は少しずつ後ずさりながら、ナイフを魔獣に向けて突き出すふりを繰り返した。でも魔獣の唸り声はやまず、それどころかじわじわと近付いて来る――警戒、してない? ナイフは大した脅威じゃないと見破られたか?
「その、あ、赤い目を、えぐり出すぞ!」
虚勢を張って大声を出してみたけど、まるで効果がない。……こいつ、僕が弱い人間だと気付いたな。最初より動きに余裕が見て取れる。本当にまずいぞ。取っ組み合いの闘いを覚悟しないと……。
呼吸もままならない緊張の中、先手を取ったのは魔獣だった。身を低く構えたかと思った次の瞬間、バネのように伸びた前足が僕を目がけて飛んで来た。その先には鋭く研がれた五本の爪――肉をえぐられまいと咄嗟に後ろへのけぞった。が、突き出してたナイフが爪にかすって、キンと音を立てながら横へ弾き飛ばされてしまった。最後の頼みの綱だった武器が……!
そんな僕の焦りを察したかのように、魔獣は続けて襲いかかって来た。丸腰じゃ、もうどうすることもできない――死が迫った状況に半ば混乱しつつも、僕は右手に握る松葉杖を盾代わりに魔獣の攻撃を迎え撃った。でも杖ごときが盾になるはずもなく、横薙ぎに振られた爪は僕の腹すれすれを通って、まるで小枝を叩き折るかのように松葉杖を壊して行った。
「うっ……」
支えを失った僕は灰の地面に倒れた。一度地べたに座り込むと、立ち上がるには少々時間が要る。でもこいつはそんな時間もくれないだろう。目の前で、赤い三つの目を爛々と光らせてる――もう僕にできることはない。まったく、僕には魔獣との悪縁が付いて回ってるみたいだ。こんな死に方をするなら、せめて一目、トーラの笑顔を見て心に焼き付けておきたかった……。
諦めた僕に魔獣がにじり寄る。そして牙がのぞく大きな口を開けて襲いかかって来る――僕の全身は、ただ固まった。
「グェウォンッ」
突然、目の前で魔獣が奇妙な声を上げて横に弾き飛ばされた。噛み付かれることしか想像してなかった僕は、その光景を呆然と見てた。
「逃げろ!」
どこからか聞こえてきた男性の声に、ハッと我に返った僕は、ここでやっと思考を取り戻した。……まだ、助かるかもしれない。逃げないと――立ち上がろうとしたけど、焦る気持ちで手足を上手く動かせない。情けないけど、落ち着いてる暇もない。這ってでも逃げないと――僕は両手と左足を使い、腹這いになりながら地面を進んだ。その間にも背後からは魔獣の足音と息遣いが迫って来る。振り返る余裕もなく、ただひたすら前だけを見据えて逃げた。すると視界の端で小さな光が光ったかと思うと、それは僕の背後へ走り抜け、迫ってた魔獣に大きなうめき声を上げさせた。
「ヴォォガァァ!」
耳をつんざく悪魔のような声が辺りに響く。一体、何が起きてるんだ? まだ理解できない間も、光は次々に魔獣へ突撃し、僕の背後で弾けてた。そのたびに魔獣が苦痛の声を上げてたけど、次第に声は弱まり、ついには何も聞こえなくなってしまった。迫る気配が消えて、僕はようやく逃げる手足を止めた。そしてそろりと振り返ってみる。見えたのは、赤い三つ目が地面を凝視したまま動かなくなってる姿だった。もうそこには僕を狙う意思も動きも感じられない。魔獣は、息絶えてる……。
「仕留めたか確認してくれ」
視線を横へ向けると、焼けた木々の間を縫って二人の人影がやって来た。その一人はわかったと言って魔獣のほうへ向かう。残る一人は僕を見ると、渋い表情を浮かべて近付いて来た。
「お前、人間か。随分ノロノロと逃げてたが、怪我でもして――」
腰に手を置きながら男性は僕を見下ろして、すぐに気付いたようだった。
「……そうか。片足がなかったのか。それじゃ仕方ないな」
立てるか? と手を差し伸べられて、僕は素直にその手をつかんだ。
「ありがとう。命拾いしたよ……ところで、あなた達は一体……?」
「我々は、主にこの辺りの魔獣を警戒して回ってるグラースリューレの巡回兵だ」
その名にハッとして、僕は確認のために聞き返す。
「グラースリューレ……それって……」
「エルフ族の住む都だ。人間でもそれぐらいは知ってるだろう」
僕は込み上げ始めた嬉しさと安堵を抑えながら、尖った耳を持つ男性を見つめた。やっぱり、都はすぐ近くだったんだ。




