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知らぬ神よりポケットの端末 〜寄り道ばかりの日本旅〜  作者: こむぎ
第二章 寄り道から始まる日本旅
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第二十七話 軽井沢のカフェとムササビ

軽井沢に着いた瞬間、空気がふっと変わるのがわかった。


日差しは強く、空はよく晴れているのに、肌に触れる風は明らかにやわらかくて、那須や日光ともまた違う、乾いた涼しさが静かに体を包み込んでくる。


「……なんか、ちがう」


あかねがぽつりとつぶやく。


その声はいつも通り力が抜けているのに、ほんの少しだけ感心しているような響きが混ざっていた。


「高原の空気じゃな、湿気が少ない」


しろが静かに言う。


駅から少し離れ、木々に囲まれた道を歩いていくと、車の音や人の声が少しずつ遠ざかり、代わりに葉が揺れる音と、自分たちの足音だけがはっきりと耳に残るようになる。


道の先に見えてきたのは、森の中に溶け込むように建てられたカフェだった。


「……ここ?」


めぐが小さく言う。


看板は控えめで、建物も主張しすぎず、周囲の木々と同じ色の中に静かに存在していて、意識していないと通り過ぎてしまいそうなほど自然に景色に馴染んでいる。


テラス席に出ると、一面に広がる緑が視界に入る。


木々の葉が何層にも重なり合い、濃い緑と薄い緑が奥行きを作り、その隙間から差し込む光は細く、やわらかく、まるで水の中にいるように揺れながらテーブルや椅子に落ちていた。


「……すごいニャ」


みこが思わず声を漏らす。


遠くには苔庭が広がっている。


立ち入りは禁止されているが、その分、人の気配が一切なく、踏まれていない苔が均一に広がり、ふわっとした柔らかさがそのまま視界に伝わってくる。


光が当たる場所と影の境目がゆるやかで、風が吹くたびにその境界が少しずつ動き、景色全体がゆっくりと呼吸しているように見える。


「……なんか、見てるだけで涼しい」


めぐが小さく息を吐く。


椅子に腰を下ろすと、背もたれに体を預けた瞬間に力が抜けていき、長時間歩いていたことを思い出すように足の重さがじわっと広がる。


テーブルはほんのり冷たく、手のひらを置くとその温度がじんわりと伝わってきて、外の空気と同じくらい穏やかな感触があった。


「ここ、音が少ないね」


めぐがぽつりと言う。


耳を澄ますと、聞こえるのは葉がこすれる音と、どこか遠くで鳴く鳥の声、それから時折、別のテーブルから聞こえる小さな会話だけで、そのすべてが大きくならないまま、空気の中に溶けていく。


カップが置かれる。


こつん、と控えめな音。


「アイスコーヒーになります」


店員の声も自然と抑えられていて、この場所の静けさを壊さないように配慮されているのがわかる。


グラスの中の氷が、からん、と鳴る。


その音がやけに澄んで聞こえて、あかねは少しだけ顔を上げる。


「……いい音」


ぽつりとつぶやく。


めぐはグラスを持ち上げ、ゆっくりと口をつける。


冷たさが唇から喉へと流れていき、体の内側にすっと広がっていく感覚が、外の涼しさと重なって、思わず目を閉じたくなる。


「……おいしい」


短い言葉だったが、その中にしっかりとした満足感があった。


「外、あんなに明るいのに」


みこが空を見上げる。


テラスの外は夏らしい強い光で満ちているのに、ここは木漏れ日が層になって光を和らげていて、直射の熱がほとんど届かない。


風が通るたびに、葉の隙間から差し込む光の位置がゆっくりと変わり、それに合わせて影も動いていく。


その変化はとてもゆっくりで、見ていないと気づかないくらいなのに、確かに変わっている。


「……時間、遅くなってるみたい」


めぐが言う。


誰も否定しない。


実際に、そう感じていた。


「……ねむくなる」


あかねがぽつりと言う。


そのままテーブルに頬を乗せる。


「寝るなよ」


めぐが軽く突っ込む。


「ねてない」


すぐに返ってくる。


けれど、目は半分閉じている。


風がまた通る。


葉が揺れる。


氷が小さく鳴る。


そのすべてが重なって、ゆるやかな時間が流れていく。


夜。


森に入った瞬間、空気が変わる。


昼のやわらかさとは違い、少しだけひんやりとしていて、湿り気を含んだ空気が足元からじわっと上がってくるような感覚がある。


「……暗い」


みこが小さく言う。


ライトで照らされた範囲だけがはっきりと見えて、その外側はすぐに闇に溶けていく。


「でも、なんかいいニャ」


あかねがぽつりと言う。


出発前、ガイドの説明を思い出す。


ムササビの生活、滑空の距離、木から木へと移動する理由、そしてこの森で観察できる確率。


話し方は穏やかだったが、その中に確かな熱があって、言葉のひとつひとつに積み重ねてきた時間が感じられた。


「今日は条件がいいので、見られる可能性は高いです」


その言葉が、頭の中に残っている。


森の中を進む。


足元の土は少し柔らかく、踏むたびにわずかに沈む感覚があり、落ち葉が重なっている場所では、かさ、と軽い音が鳴る。


誰も大きな声を出さない。


自然とそうなる。


「……静かすぎる」


あかねが小さく言う。


「昼と全然違うね」


めぐが答える。


しばらく待つ。


時間の感覚が曖昧になる。


風もほとんどない。


葉も動かない。


完全な静止に近い空気。


その中で。


「……あ」


ガイドがほんの少しだけ声を出す。


全員の視線が一点に集まる。


木の幹。


その上の暗がり。


何も見えないように見えて——


次の瞬間。


影が、ほどけるように動く。


枝から、すっと離れる。


音はほとんどない。


ただ、空気をなでるように滑る。


膜を広げた体が、ゆるやかな弧を描いて、次の木へと向かっていく。


「……とんだ」


あかねがつぶやく。


その声は驚きよりも、確かめるような静かさだった。


ムササビは羽ばたかない。


ただ、滑る。


空気を掴むように広げた膜が、夜の中でわずかに形を変えながら、落ちることなく距離を伸ばしていく。


着地の瞬間も静かだった。


枝に触れ、体を引き寄せるようにして止まる。


ほとんど音がない。


「……すごい」


めぐが息をのむ。


そのあとも、しばらく動きを観察する。


木の上。


巣の近く。


暗がりの中に、小さな影がある。


「……あれ、こども?」


みこが小さく言う。


ライトを少しだけ調整すると、巣の奥に小さな体が見える。


まだ動きはぎこちなく、親の近くでじっとしている。


「赤ちゃんですね」


ガイドが静かに言う。


親のムササビは、そのすぐ近くで周囲を確認するように動き、時折、巣の中をのぞき込むような仕草を見せる。


「……ちっちゃい」


あかねがぽつりと言う。


その声は、昼よりもさらにやわらかかった。


小さな体が、少しだけ動く。


それだけで、空気が少し変わる。


「……がんばってるニャ」


みこが言う。


誰も否定しない。


その言葉が、いちばん近かった。


しばらく、全員が同じ方向を見ていた。


音もなく、ただ命がそこにある。


それだけの時間。


帰り道。


暗さには少し慣れていて、足取りは来たときよりも軽い。


「……来てよかったね」


めぐが言う。


「うん」


みこが頷く。


「……よかった」


あかねも小さく言う。


昼の静けさと、夜の出会い。


どちらも違って、どちらも残る。


軽井沢の一日は、ゆっくりと終わっていった。

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