第二十八話 石の教会と目標
軽井沢の朝は、空気そのものが薄くなったように感じるくらい軽く、窓を開けた瞬間に入ってくる風が肌に触れるだけで、昨日まで体に溜まっていた熱が少しずつ抜けていくような気がして、めぐはしばらくそのまま動かずに立っていた。
「……涼しい」
思わずこぼれたその一言は、特に誰かに向けたものでもないのに、部屋の中に自然に溶けていく。
「うむ、ここは朝がよい」
しろは窓の外に広がる木々を見ながら静かに言う。
「なんか空気が違うニャ、軽いっていうか、ふわっとしてるニャ」
みこは大きく伸びをしながら、まだ少し眠そうな目で外を見ている。
「……ねむいけど、すき」
あかねはソファに沈み込んだまま、ほとんど動かずにぼんやりとした声で言う。
その言い方はいつも通りなのに、どこか少しだけ満足しているように聞こえた。
外に出ると、日差しはしっかりあるのに、空気がそれをやわらかく包んでいて、直に刺さるような暑さではなく、どこか遠回りして届いてくるような感覚がある。
歩いているだけで、汗をかく前に風がそれを止めてくる。
石の教会へ向かう道は、観光地というよりも、静かな森の中をそのまま歩かされているような感覚で、足元の舗装もどこか控えめで、周りの草や木の存在を邪魔しないように作られているのがなんとなくわかる。
遠くから見えてくる建物は、一般的な教会のイメージとはまったく違い、石が重なり合ってできたアーチが連続していて、完全に閉じた空間ではなく、自然とつながることを前提にしているような形をしていた。
「……思ってたのと違う」
めぐは足を止めて小さくつぶやく。
「うむ、箱ではないな」
しろも珍しく少し興味を持ったように見上げている。
「なんか、洞窟みたいニャ」
みこが言う。
「……でも、ひらけてる」
あかねがゆっくりと視線を上に向ける。
石の隙間から光が差し込み、その光が中に入るほどに柔らかくなっていくのが見て取れる。
中に入ると、外の音が完全に消えるわけではないのに、距離が一段分離れたように感じて、風の音や葉の擦れる音が丸くなって耳に届く。
足音も自然と小さくなる。
床に響く自分の靴の音が、やけにくっきり聞こえるのに、不思議と邪魔にはならない。
「……静かすぎる」
めぐは小さく息を吐く。
しばらくその場にいると、何かを考えないといけない気がしてくるのに、同時に何も考えなくてもいい気もしてくる、そのどちらともつかない感覚がじわじわ広がってくる。
教会を出たあと、四人はそのまま野鳥の森へと向かう。
入口で鈴と双眼鏡を渡される。
「クマ、出ることありますので」
その一言で空気が少しだけ変わる。
「……クマいるニャ?」
みこの声が一段低くなる。
「いるらしい」
めぐがあっさり言うと、みこはすぐに鈴を握る。
「……鳴らすニャ」
からん、と強めに鳴らす。
森の中にその音が広がり、思ったより遠くまで響いていく。
「……ちょっとうるさい」
あかねがぼそっと言う。
「でも鳴らすニャ」
みこはやめない。
遊歩道に入ると、一気に空気が変わる。
木々の密度が増し、光が細くなり、足元の土と落ち葉が混ざった柔らかい感触が、歩くたびにじんわりと返ってくる。
靴が少し沈む感覚があって、それだけで歩く速度が自然と落ちる。
「……ゆっくりになるな」
「うむ、この道は急がせぬ」
しろが静かに言う。
双眼鏡をのぞく。
枝の間を小さな影が動く。
「あ、いたニャ!」
みこが指をさす。
羽の色は光で変わり、完全には見えないのに、確かにそこにいるのがわかる。
「……ちいさい」
あかねがぼんやり言う。
「でも、ちゃんと動いてる」
さらに進む。
途中で足場が少しぬかるんでいる場所に出る。
「うわっ」
めぐの足が滑る。
ぐらっと体が傾く。
「危ないニャ!」
みこが声を上げる。
なんとか踏ん張るが、靴の裏に土がついてバランスが取りにくい。
「……すべる」
あかねが同じ場所で少しだけずるっといく。
「ここ気をつけろ」
めぐが言いながら、自分が一番危なかったことに気づいて少しだけ苦笑する。
しばらく進むと、空気が少しひんやりする場所に出る。
風が通り抜けるたびに、葉の音が一斉に重なる。
その瞬間。
遠くで何かが動く。
「……今の」
めぐが止まる。
「カモシカかもしれんの」
しろが静かに言う。
姿は見えない。
でも確かに“何か”がいた気配だけが残る。
「……いた気がする」
あかねがぽつりと言う。
森を抜けると、一気に光が戻る。
「……あつい」
あかねがすぐに言う。
さっきまでの涼しさとの差がはっきりしていて、同じ場所とは思えない。
駅へ向かう帰り道。
少しだけ歩く速度が落ちる。
「……楽しかった」
あかねがぽつりとつぶやく。
「おお、そうじゃな」
しろが言う。
「また来たいニャ」
みこも言う。
少しの間。
「……でも」
空気が少しだけ止まる。
「このまま、一緒にはいれない」
「……どういうこと?」
めぐが聞く。
あかねは少しだけ空を見る。
「目標、できた」
「……目標?」
「うん」
「それ、やる」
言い方はいつも通りなのに、そこに迷いはなかった。
「……そっか」
めぐは小さく頷く。
「……またね」
あかねは軽く手を振る。
そのまま、人の流れに混ざっていく。
電車に乗る。
窓の外の景色がゆっくり流れる。
「……目標か……」
めぐは心の中で、小さくつぶやいた。




