65話 任務完了③
「ミゲル……」
あのミゲルが泣いているダイアナを庇うことも守ることもしなかった。話に聞いても驚いたのに、実際に目にすると尚驚いた。
「吃驚した?」
「は、はい……」
「あいつなりに頑張っているのは分かってやってくれ。だからって許す許さないは君が決めろ」
「ミゲルは……後悔していないのでしょうか。ローウェル公爵夫妻にダイアナ様が死に掛けた責任を追及されたトラウマが簡単に消えるとは思えません」
「同感なんだけど、父上の誕生日パーティーでミゲルはローウェル公爵に接触している。その時に公爵の真意を聞いてダイアナに遠慮する必要はなくなったと吹っ切ったんじゃないか」
どうしてクリストファーが愛してもいないダイアナの為に、ミゲルにトラウマを植え付ける真似をしたのかは不明なまま。ふと、フィービーはある予想を口にした。
「ミゲルを自分と同じ目に遭わせない為、だったとか?」
「うん?」
「ダイアナ様がミゲルを好きなのは公爵も知っている筈です。ミゲルの気持ちがもしも私にあると公爵夫人が知れば、公爵様にしたことをミゲルにもするのではと」
「あり得そうではあるが小さかったあいつにトラウマを植え付けなくても、穏便に済ませる方法はいくらでもあった。それをしなかったのは?」
「そこまでは……なんとも」
ある程度の予想は当たっているとしても、確信と言い切るほどではない。
肝心のクリストファーに訊ねた時は、ダイアナの私物を持って祖父母が戻って来てしまい話はそこで終わった。
「なあ、フィービー嬢」
「なんでしょう」
「以前ローウェル公爵が持ち掛けた、他国への移住の件だが受けてみないか?」
「え」
リングベルク。帝国よりずっと南にある海に面した国。貿易が盛んで観光大国としても有名で帝国とも取引のある大きな国に住む旧友にフィービーの保護を頼んでいると以前クリストファーは話し、紹介状を受け取っていた。
「北の教会支部で活き活きとしていたフィービー嬢なら、他国へ渡ろうときっと何処へでもやっていける。帝都から距離が離れていようと結局は同じ帝国内。何れブルーメール公爵や叔母上の手が伸びて来ないとは限らない。怯えて毎日を過ごすくらいなら、思い切って一気に遠くへ行くのも一つの手だ」
「リングベルクに、ですか。まだ、私にはそこまでの思い切りは踏めません」
「今すぐじゃない。状況が大きく変わったらの話」
騒ぎがなくなり、落ち着きを取り戻したお陰か、給仕が注文を聞きに来ると日替わりケーキセットを二つ頼んだ。紅茶はその日のケーキに合わせて変わるらしく、どんなメニューが来るか今から楽しみで仕方ないフィービーは不意にあることが気になった。
「殿下は行ってみたいですか? リングベルクへ」
「機会があれば行ってみたいね。リングベルクへ行かないと海は見られない」
「海か……一度、お母様に連れて行ってもらったことがあります」
「お、初話?」
「ふふ、はい」
サンディス領で療養している風を装って一度だけリングベルクへ連れて行ってもらった。同行者には祖母がいた。長距離での移動は母にとって負担が大きいと心配だったが、あの時の母は綺麗な海が見れるのよと誰よりも楽しそうだった。
『お母様、身体はしんどくありませんか?』
『全然? フィービーやお母様が一緒だもの。何より、フィービーと一緒に海を見られるなんて幸せ』
『お母様が元気になったら、お父様やお兄様とも一緒に来ましょうね!』
『ふふ、そうね。旦那様やミリアンもきっと喜ぶわ』
いつか家族四人で海を見に行こうと無邪気にはしゃいでいた自分を母はどんな気持ちで見ていたのか。陰りが生まれることも変化も何もなかった。フィービーが知っている母の顔しか、ダイアナは見せなかったのだとしたら、心の内にはどんな気持ちを抱えていたのだろう。
「改めて考えるとウェリタース家でお母様をちゃんと知っている人はいなかった。私も、お兄様も、お父様も」
「完璧な淑女の仮面で常に欺き続けたんだろう。だが、フィービー嬢の前でだけ、ダイアナ夫人は本当の姿を見せている」
「完璧な淑女の仮面を外そうとお母様はお母様。お父様はそんなお母様に惚れていたせいで受け入れられなかったとしても、お兄様までお母様という個人を受け入れなかったのはお父様の影響なんでしょうね」
「それもあるだろうがミリアン殿にとって理想の女性像が母親だったって場合もある」
男性にとって最も身近な大人の女性というと母親が主。完璧な淑女と評され、圧倒的美しさを誇ったダイアナに育てられたミリアンの理想の女性像が母親になってしまうのは、心理的に解析しても納得してしまえる。
「ダイアナ夫人を基準に女性を見ているなら、他の女性なんて目に入らないさ。フィービー嬢にだけ異様に厳しいのは、姿や声がダイアナ夫人とよく似ていて、君がダイアナ夫人と同じ振る舞いをしないだけで自分の中のダイアナ夫人のイメージが損なわれるのを嫌がっているきらいがある」
「理想の女性像を殿下も持っていそうですね」
「おれ? おれはないない。おれの近くにいる女性というと母上やダイアナ、叔母上が主だった。あんなのを理想の部類には、さすがのおれも入れたくないね」
散々な言い方だが実情を知っているフィービーは苦笑するのみ。話していると二人が注文した日替わりケーキセットが運ばれてきた。ケーキは店主手作りのジャムが美味しいと評判のジャムタルト。紅茶は先程リングベルクとの貿易で入手した茶葉。夏に採取した貴重な茶葉を贅沢に利用した紅茶に期待を膨らませながら、ティーカップに注がれる琥珀色を見つめたのだった。
期待して楽しみにしていたカフェが満席だった上、アリアージュ家が懇意にしている店とあって、店内にいたミゲルに騒ぎを起こした責任を問われて追い出されたダイアナとジェイド。すっかりとダイアナが不貞腐れてしまい、他の店をジェイドが勧めてもミゲルに冷たくされて気分が萎えてしまったのを理由にローウェル邸に戻る選択をした。
邸内に入るとレティーシャが出迎えた。
「お帰りなさい。随分と早かったじゃない。店は営業をしてなかった?」
「母上、実は……」
朗らかに問うレティーシャの様子から、理由を話しても感情を荒ぶったりしないと見たジェイドが訳を話そうと一歩前に出た時、横を勢いよくダイアナが過ぎた。そして、出迎えたレティーシャに抱き付いた。
「お母様あああぁ……っ!」
「ダイアナ!? ど、どうしたの」
「ううっ……うああああん……お母様っ、わたくし、わたくし折角外を歩けるようになってミゲルに会えたのに、何も嬉しくなかったあぁ」
「ミゲル様? ジェイド、何があったかお母様に話してちょうだい」
一旦泣くダイアナを落ち着かせるべく場所を移動しようとなり、ダイアナの部屋に移動した。泣き続けるダイアナとベッドに座ったレティーシャは、外での出来事をジェイドに聞くと腹に顔を埋めるダイアナの頭を優しく撫でた。
「可哀想に。今までのミゲル様とまるで別人。以前は、ダイアナに何かあると飛んで来てくださったのに」
「あいつは皇帝陛下の誕生日パーティーの時もダイを冷たく突き放しました。ダイを何だと思っているんだ」
思い出したジェイドは憤慨し始め、泣くダイアナを慰めつつも心の中は焦りが生まれているレティーシャ。策はないかと巡らせていれば、声を大きくしたダイアナに二人の視線が集まった。
「この身体ならミゲルのお嫁さんになれるって信じてたのにっ! もっと健康になったら、ミゲルはわたくしをお嫁さんにしてくれるって! 健康になったっていいことなんかなかったあぁ……!」
「ダイアナ! そんなことは決してない!」
健康になったってミゲルが側にいてくれないなら、病弱なままが良かったと泣き崩れるダイアナ。待ったをかけたのはジェイドだ。
「考えてみてくれ。ダイはずっと体調を心配せずに外へ出たい、外に出て私や母上と街を歩き、一緒に買い物をするのが夢だと小さな頃からずっと言ってくれていたじゃないか。今日は私とだけだが、体調を心配せず外を歩きたいと願った夢が叶った。決して健康になってきて悪いことばかりじゃない」
「だ、だってっ、ミゲルが……!」
「あいつのことなんて忘れてしまえ。大体、ミゲルはダイや私が呼ばないとローウェル家に来なかった。抑々、ミゲルはダイのことを何とも思ってなかったんだ。昔、あいつのせいでダイが死に掛けたというのに」
熱が出て苦しくなると必ずミゲルを呼んだ。ミゲルが来ると不思議と身体から苦しさが抜けて楽になれた。好きな人が側にいると身体が体調を良くしようと頑張るのだとレティーシャに教えられ、ずっとそれを信じていた。今回どうしてダイアナの体調が良い方向へ行っているのかダイアナ自身よく分かっていない。いつも侍女が渡す不味い薬を飲んでいるだけ。変わったことは一切ない。
ジェイドの言い分に反論するべくダイアナは顔を上げた。
「絶対嫌!!」
「ダイアナ!」
「わたくしは筆頭公爵家ダイアナ=ローウェルなのよ!? わたくしに釣り合う相手はミゲルしかいないもん!! お母様やお兄様は昔から言っていたじゃない!!」
「そ、それは」
帝国の頂点は皇族、その次に権力を持つのがローウェル公爵家。長女であるダイアナの結婚相手は同じ家格の者ではないと認めないとレティーシャやジェイドは常日頃から口にし、ダイアナもそれを鵜呑みにしてきた。三人が共通してダイアナの結婚相手に釣り合うのはミゲルしかいないと見ている。他に二家公爵位を賜る貴族家はあれど、どちらも女性が当主となって婿を取っており、公爵家に絞るとミゲルしかいない。公爵家以外は下に見ている為、侯爵家や伯爵家の令息は眼中にない。
「あ」と閃いたジェイドは「皇太子殿下だ!」と言い出した。
「アルドル皇太子殿下には、まだ婚約者がいない。このまま順調にいけば、ダイが皇太子妃になるのは夢じゃない!」
「ま、待ちなさい! ジェイド、貴方は皇太子妃になるのがどれだけの重責か分かっているの?」
意外そうな面持ちでレティーシャを見やるジェイド。賛成されると信じていた顔をする。
「勿論、重々承知しております」
「ならっ」
「母上、私はダイアナをミゲルに嫁がせるのは反対です。結婚したってダイアナはきっと不幸になる。愛する妹に愛されない結婚を私はしてほしくありません。アルドル皇太子殿下なら、ダイアナのことをよく知っていて我がローウェル公爵家の後ろ盾を得られれば、殿下にとっても悪い話ではなくなります」
次期皇帝として盤石な地位を築きたいアルドルのこと、筆頭公爵家の後ろ盾を得られるなら健康になり始めているダイアナを妃に迎えてくれると信じているジェイドに皇太子妃になる苦労をビアトリスを見て知っているレティーシャは止めるが、肝心のダイアナ自身がその気になりかけていて頭痛を引き起こした。
痛みで止まっていられない。ダイアナの結婚相手はミゲル=アリアージュただ一人。そうでないと意味がない。
ミゲルを奪わないとフィービーとの関係に修復が入る恐れがある。フィービーが幸せになることだけは絶対にあってはならない。
「で、でもお兄様、わたくしはミゲルがいいの……」
「ずっとミゲルばかりを見ていたダイにすぐに別の男を好きになれとまでは言わないさ。これからは皇太子殿下のことだけを見よう。そうすれば、きっとミゲルのように好きになれる」
「殿下は嫌いではないけれど、好きになれるか不安よ……」
「ダイならきっと出来る。私に手伝えることがあれば何でも言ってくれ」
妹を励ます兄の姿。これを見てレティーシャはある思い付きをした。
昨日勝手にウェリタース家に突撃した挙句、迷惑を振りまいた事実をフィデス経由で父に知られ、怒られはしなかったが悲し気な声で大人しくしていてほしいと頼まれてしまって身に燃えていた怒りは萎んだ。
フィービーの兄ミリアンは、目上の女性相手だと強気に出られないと見ていい。
「(そうね……ミリアン=ウェリタースは使える)」
家族なのだ、フィービーの現状を知っている筈。あの時の使用人達を見るにミリアンは部屋を出ることを禁じられているようだ。なら、無理矢理外へ出ないとならない状況を作ればいい。それくらいどうにでもなる。
「でもでも、ミゲルがフィービー様と結婚することになったらもっと嫌」
「フィービー嬢の現状を考えるにミゲルと結婚するのは難しいんじゃないか。アリアージュ公爵夫人は社交界で強い影響力を持つ。そんな夫人が病に罹った令嬢をミゲルの婚約者のままにするお人よしとは思えない」
ウェリタース家の屋敷内に入って一つ疑問を思い出した。あの時、ミリアンを止めていた一人の侍女。確かミリアンはミラージュと呼んでいた。
名前自体は珍しくない。なのに、見覚えと聞き覚えがあった。
「(一体、どこで……)」
考えそうになり始めたのをレティーシャは止め、漸く落ち着き出したダイアナの頭を優しく撫でてやる。ダイアナがクリストファーの名前が出ると歪に笑いそうになったのを必死で堪えた。
愛しいクリストファーは必ず自分の許へ戻って来る、と。もしも戻らなければダイアナ=サンディスの肉親を目の前で殺される様を見せつけてやるのだ。
それによってクリストファーの心が壊れようとレティーシャには関係ない。心が壊れてもずっと側に居続ける。レティーシャしか側にいる人間がいなくなれば、クリストファーはきっと……。
「——手古摺らせやがって」
足下で息も絶え絶えなクリストファーの背を一度強く踏み付けた男は、呻き声を聞くと満足して足を退かせ、先代サンディス侯爵夫妻を縛り上げている部下に振り向いた。
「先代夫妻の拘束が完了次第、クリストファー=ローウェルを拘束しろ。三人を積み次第、此処を出るぞ」
「この年寄りはどうしますか?」
部下が指差したのは執事のテーヴ。息をしているのかさえ不明なテーヴを鼻で嗤った頭は「放って置け。どうせ、すぐに死ぬ」と言い捨てた。家具は少なくとも清潔に保たれていた室内は、クリストファーやジーク、テーヴが侵入者に抗った形跡が色濃く残り、血の臭いが充満していた。大怪我を負ったのはテーヴでその次にクリストファー。先代サンディス夫妻は無傷で捕えよと命令されていたが、抵抗が激しくヴァレリアは気絶で済ませられたがジークの方は怪我を負わせてしまった。テーヴと違って死にはしないなら、多少のお小言を言われるだけだと頭は軽く見ていた。
「何故俺達の存在に感付いたか知らんがこれでオーガスタス様の任務は完了となる」
「若い女が一人もいませんでしたね、ここ。一人くらいいてくれれば発散したってのに」
「無駄口を叩くな。さっさと出るぞ」
「はーい」
ジーク、ヴァレリア、クリストファーの三人を拘束すると二人一組となって運び出し、頭は再度テーヴを目視して屋敷を出て行った。
「……っ……ぐ……」
誰もいなくなったと確信を得たテーヴは激痛の走る身体に鞭を打って起こし、ふらふらな足で立ち上がった。
「旦那、様、奥さ、ま、クリス様までっ」
頭が痛くてまもとに歩けない。犬達はきっと屋敷の最奥で眠っている。遊び疲れて休んでいるのが幸いした。もしも見つかっていれば、皆殺しにされていた。騒ぎを聞き付けなくて良かった。番犬としては失格だとしても、殺されていたら誰も正気を保てなかった。
外へ、外へ出て助けを求めないと。壁を伝って外を目指すテーヴの耳にある音が届いた。訪問の報せだ。誰かがドアノッカーを叩いている。屋敷の門が開いている筈。それを不審に思って敷地内に足を踏み入れたなら……
「助けを……助けを、求めなくては……!」
壁から手を離し、縋る思いで走り出したテーヴはふらつきながらも誰かがいると信じて向かう。
「ジーク=サンディス様、ヴァレリア=サンディス様。どなたかいらっしゃらないでしょうか。薬屋の店主に頼まれて薬を届けに参りました、北の教会支部神官のアズエラとイーサンです」
女性の声ともう一つの名は恐らく男性名。薬屋の店主というと二人が愛飲している健康茶を調合してくれており、今日は茶葉を届ける予定となっていた。此処に来れなくなって代わりの人を寄越してくれたのだ。
額が切れて血が垂れてくる。鼻を伝って上唇に血が達した時、やっと玄関ホールに出たテーヴは微かに扉が開いたのを見逃さなかった。
「あれ? 開いてる……」
「不用心だな。いくら治安のいいところとはいえ……って!?」
驚愕に染まった声が聞こえたのと扉が開いて男女と目が合ったのは同時。
伝えなければ、何があったかを。




