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50話 ある提案

 



 夕食も恙なく終わり、先に入浴を勧められたフィービーは温かいお湯がたっぷりと張られた浴槽に身を預けていた。湯面に浮かぶのは乾燥させたオレンジの皮。爽やかな香りが身体の疲労を癒してくれる。今日だけで知りたいことが沢山知れた。勿論、まだ知らないことの方が多い。少しでも前進できただけで満足だった。



「お母様のことを知っているようで何も知らなかったのね」



 フィービーが見ていた母、祖父母やクリストファーが見ていた母は、同じ人でありながら別人に思えてしまった。



『フィービー!』



 完璧な淑女としての母も、少女のようにはしゃいで笑う母も、フィービーにとって大事な母であることに変わりはない。

 もしも、もしも、と考える。父や兄と同じでフィービーも完璧な淑女の姿こそが母なのだと固執していたら、母は……あの少女のような笑顔を見せてくれただろうか、と。


 きっと……フィービーがそうだったら見せなかった。



「私がやりたいこと……」



 母を知りたい欲求はまだある。夕食の席でサンディス領に滞在するのは五日間と定めた。祖父母はまだまだ滞在してくれたらいいと引き止めたが、皇帝主催の行事以外でオルドーの長期不在は北の教会支部にとっても良くないとフィービーが説得した。オルドー本人は一月以上いなくても大丈夫だと言ってはいても。



「お嬢様、湯加減は如何ですか」

「丁度良いですよ」



 祖父母がサンディスの領地に移った際、テーヴと共に同行した侍女パステルがフィービーの入浴を手伝ってくれていた。歳はテーヴと同じくらい。長年サンディス家に仕えており、当然フィービーのことを幼少期より知っている。



「長湯も身体に毒です。そろそろ、お身体を洗いましょう」

「そう? もうちょっと浸かっていたいわ」

「逆上せてしまいますよ。長くお湯に浸かって逆上せてしまったことがあるじゃないですか」

「もう、昔の話じゃない」



 サンディス領の屋敷に住む人達は、皆フィービーを子供のように扱い接する。それが擽ったくて……優しい気分に浸らせる。素直にパステルの言うことを聞き、髪の手入れを始めてもらったのだった。


 


 ——入浴後は髪や肌の手入れを忘れず、必要なケアを済ませるとフィービーは部屋に戻った。身体がまだまだ温かい。暖炉で暖められた室内に入るとホッとする。ベッドに腰掛けると後ろに倒れた。



「このままだと寝ちゃいそう」



 布団を被らないと風邪を引いてしまうと分かっていても、心地よい眠気と温もりに当てられ状態でベッドに倒れてしまい、動く気が全く起きない。

 瞼が次第に重くなり、開閉を繰り返していれば扉がノックをされた。



「どうぞ」



 誰かの訪問によってある程度の眠気が吹っ飛んだ。訪問者はオルドーだった。フィービーに入室の許可を得るとベッドに腰掛けていたのを見て「眠るところだったか?」とバツの悪そうな顔をされた。



「いえ! ちょっと、眠くなってしまっただけです。まだ、眠るには早いです」

「そうか」

「オルドー様はどうして」

「先代サンディス侯爵夫妻やクリストファー=ローウェルと会った率直な感想を聞きたくてな。僕個人としては、訪れて正解だったと考えているがフィービーはどうだ?」

「私も同じ気持ちです」



 今日この地を訪れ、祖父母や(予想外だったとは言え)クリストファーに会い、知らなかった母のことを聞けて良かったと心の底から思える。クリストファーについてもそう。見ていただけの姿と実際の姿は大きく異なっていた。姿勢を正したフィービーは改めて自分の気持ちを言葉にしていった。



「私はお母様をもっと知りたい。お母様を知れば、お父様やお兄様、ローウェル公爵夫人のことが分かっていくのではと見ています」

「ウェリタース侯爵や君の兄君はともかく、レティーシャ=ローウェルについてはどうなんだろうな」



 部屋に来る途中、アルドルと話していたオルドーは何故レティーシャがクリストファーに強く執着するかについて考えていた。丁度本人が近くを通った際、理由を訊ねてみた。

 すると、なんてことはない。病を克服したクリストファーが参加したお茶会でカエルに頭に引っ付かれて身動きが取れなくなっていたレティーシャを助けたのが原因だと聞かされた。

 ナヴィスやサンディスの領地でダイアナと生物の観察や飼育をしていたクリストファーにとってカエルを触って逃がすのは慣れっこ。たった、それだけなのだ、レティーシャがクリストファーに惚れたのは。



「僕には理解しがたい」

「何となくですが……分かる気がします」



 周囲に蝶よ花よと大事に育てられた生粋の令嬢で冷静な状態で見られる人は、一体何人いるのか。それも頭に引っ付かれたとなると混乱してパニックになってしまうのは解せる。自分の苦手な生き物をあっさりと何処かへやって、手を差し伸べてくれたクリストファーを好きになったレティーシャの気持ちに理解は示せる。



「そういう、ものなのか」

「私自身、カエルや他の生き物は見ても触っても平気ですので大きな口は叩けませんが、公爵夫人がローウェル公爵を好きになったのがそれだけだとしても納得はできます」

「そうか」 



 納得の言葉を紡ぎながら、顔は訳が分からないと書かれていて、フィービーはつい笑ってしまいそうになった。



「公爵夫人はお母様が羨ましかったのでしょうか」

「クリストファー=ローウェルと幼馴染だったから、か?」

「それもあります。生き物を怖がらず、子供のようにはしゃいで、令嬢らしからぬ姿でいても側には公爵がきっといました。公爵夫人に、それは……出来なかった筈です」

「ふむ」



 初恋を抱いた相手には既に想い人がいた。身分も容姿も教養も下の、下品な野猿が。公爵令嬢としての立ち振る舞い、教養、美しさ、全てを兼ね備えたレティーシャが微笑みかけたところでクリストファーが見ているのは常にダイアナだけだった。



「初恋は叶わないものだと公爵夫人が諦めていれば、誰も……公爵夫人も不幸にはならなかったと」

「不幸なのか? たった一人、幸せになっていると見えるが」

「私には幸福に見えません。不幸でないなら、私を通してお母様を見ることはありません」



 死して尚己を苦しめるのかとレティーシャの憎しみに燃える瞳は語っていた。ダイアナが死んでも意味はない。フィービーが死んで初めてレティーシャの心は救われる。



「オルドー様。私は二度と帝都に戻らない覚悟でフィデス司祭のお誘いに乗りました。その気持ちに今も嘘はありません」

「ああ」

「これからも私は……北の教会支部にいてもいいでしょうか。いつか、公爵夫人の悪意がオルドー様や教会の皆さんを巻き込んでしまう。そんな気がしてなりません」



 現状、フィービーは領地にて療養していることになっている。大勢の人の前で恥をかかされた代償としてレティーシャは必ず動く。徹底的に居場所は伏せられているがレティーシャの執念によって何れ嗅ぎ付けられるのではと感じ取った。きっと、オルドーやアルドルだって感じた筈。


 けれど。



「いたいなら、いたらいい。フィービーが働き者なのは皆知っている。フィービーを追い出そうとする輩は、北の教会支部にはいない」

「オルドー様……」

「フィービーに危険が迫るなら、クリストファー=ローウェルに渡された紹介状を持って帝国を出て行くのもありだ。道案内くらいなら僕がしてやる」



 己の身を以て体験しているクリストファーに伝えられたレティーシャの執念深さ。隠すのが大得意な人が手を回していても、執念によってフィービーを見つけ出す危険性が今出て来ている。



「エイヴァ夫人はともかく、ゴーランド=ウェリタースが君の家出をレティーシャ=ローウェルの耳に入れてしまえば、必ず見つけ出そうとする。そうなった場合、帝国にいるのは最早危険だ。一番は、レティーシャ=ローウェルを止められれば良いのだが……」



 レティーシャの後ろにはブルーメール公爵がいる。愛娘の初恋を凡る手段を使って成し遂げた男だ。居場所が分からないフィービーのことだって必ず捕まえてしまう。



「フィービーの前で物騒な言葉は使いたくないが、レティーシャ=ローウェルの命を奪うのが最も手っ取り早い方法だ。アルドルがダイアナ=ローウェルの死を望むようにな」

「……」



 相手の命を奪ってまで成し遂げたいことなど、フィービーにはまだない。そこまでの覚悟がない。



「ただ、これだけは覚えていてくれ。もしもの場合は、フィービーをリングベルクに送り届ける。彼の国まで連中の手は伸びないさ」

「はい……」



 クリストファーがもしもを頼った旧知はリングベルクの公爵位を賜る家系。頼りにはなる。



「遅い時間にこんな話をしてすまなかったな」

「いいえ。私もお話が出来てちょっとだけすっきりしました」



 自分一人で抱えて解決しないなら、誰かに聞いてもらって別の言葉を見つけたい。不意にフィービーが明日は手紙を書きたいと言い出した。



「お義母様やジゼル、それにハンナやダイソンさん。アイやフィデス司祭にも」

「沢山だな」

「頻繁には出せない分、無事を知っていてほしい人全員に届けたくて」

「良いんじゃないのか」



 ウェリタース家の荷物管理はダイソンが一手に引き受け、手紙が来てもダイソンの目に必ず止まるのでゴーランドやミリアンの目に入ることはなく、内密にエイヴァやジゼルに渡る。

 会いたい気持ちはあれど、二度と会えない覚悟で出て来たフィービーは心の中に漂うそれを口にしなかった。



「……フィービー。これは僕の独り言だと思ってくれ」

「はい?」

「フィービーがエイヴァ夫人やアイ=アシュフォードに会いたいと言うなら……僕は止めない。何なら、協力してやれることだってできる」



 意外なオルドーの提案にフィービーの青い瞳が丸くなった。



「お義母様達に……? で、ですが、不用意に動いたら公爵夫人達に知られてしまうのでは」

「ああ。すぐに動くつもりはない。向こうが事態の露見を恐れてすぐに事を起こさないように、こっちも入念な準備をする。決めるのはフィービーだ」

「……」



 答えはすぐに出さなくていいと言い残し、オルドーは部屋を出て行った。

 一人部屋に残ったフィービーは枕を抱えてベッドに横になった。


 会いたい気持ちに嘘はない。アイには元気にしていること、エイヴァには……何も相談せず、勝手なことばかりして迷惑を掛け続けていることを謝って……会いたい。

 身体を丸め、枕に顔を埋めたフィービーは眠るまで考え続けた。


 


 客室に戻ろうとするオルドーを寝間着姿だが耳付きニット帽と黒眼鏡の装着を忘れていないアルドルが呼び止めた。



「フィービー嬢の部屋から出て来るなんて。なんか、叔父上が間男みたいなことしてる」

「あのな……」



 意外だろうがアルドルはオルドーの前だけだと普段の口調のまま言葉遣いが悪くなる。



「フィービーの様子を見に行っていた」

「どうでした」

「元気そうだった。それと」



 出て行く間際にした話をアルドルにもするが表情は変わらなかった。



「こうなってくると一度は戻らないといけない、か」



 きっかけはフィービーの家出。事情を深く知るにつれ、複雑に絡まり合い、粘着質に誘き寄せる。フィービーが望むなら万全の体勢を整える。欠伸を噛み殺したアルドルは眠たげながらもオルドーに言い放った。



「こっちか、向こうか。どちらが多く先手を打てるかで主導権を得られるってことか」

「叔父上も無理矢理巻き込んでしまえばいい」



 元々フィデスが頼んだのだ、フィービーの保護を。オルドーがフィービーを理由に手を貸してほしいと頼んでも断られることはない。


 


 


 ——同じ頃。ローウェル公爵邸。ベッドの住民と化したままだが、以前よりも体調が良くなったダイアナの顔色は微かに朱色に染まってはいるが元気になっていた。空腹を感じなくて億劫だった食事が美味しいと感じられ、まだまだ量は少なめだが今日は完食した。空になった皿を見たジェイドは妹の快方ぶりに涙目になった。



「ダイっ、こんなにも食べられるようになるなんて! 一時はどうなるかと心配したんだぞ」

「うん! なんだかここ最近、とっても調子が良いの! お医者様もね、この調子だと数日で外に出てもいいって言ってくれたわ」

「良かった! 元気になったら私とお茶をしよう。外は寒いから庭での散歩は暫く出来ないが」

「待っててお兄様、これからもっと良くなって寒さにも勝てるようになるわ」



 ミゲルが会いに来なくなった当初は、泣き叫び、母レティーシャの力を借りて会いに行っても門前払いを食らうか不在を突き付けられてきた。現在でもミゲルには会えていない。飲んでいる薬は変わっていないのにダイアナの体調は、日に日に快復傾向にあった。遂に泣き出したジェイドを笑いながら慰めるダイアナを侍女達は微笑まし気に見つめていた。


 ……ただ一人、違う感情を持って見ている者がいた。


 開いた扉の隙間から見えるダイアナの元気な姿や届く声がレティーシャを呆然とさせた。

 その様子をこっそりと見ていたマイラは誰にも気付かれず場を離れ、何事もなかったように持ち場に戻る。道中、マリクと擦れ違う。



「ダイアナお嬢様の容態は順調に快復傾向を見せています」

「分かりました。引き続き、特効薬の摂取を。それと奥様や他の侍女達に知られないように」

「心得ています」



 二人に薬について話した侍女は現在もダイアナの側にいる。解熱剤の中身が特効薬だと知らないが、別の薬にすり替えられているとは知っている。ダイアナの容態が良くなったことで侍女はマイラとマリクを信用している。




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― 新着の感想 ―
良かった…ダイアナ…このまま元気になればミゲルなんてどうでも良くなるよ 苦しくなるとミゲルに縋るのは鬼母に条件付けされただけだからね 侍女と兄もちゃんとダイアナの体を心配してたんだね°・(ノД`)・°…
楽しく拝読させていただいております ここまででクリストファーの過去や、それにまつわる諦観などが明かされましたが一点どうしても気になっていることがあります 幼いミゲルにトラウマを植え付けたあの出来事…
2026/06/09 18:33 退会済み
管理
カエルって確か両生類では……? 両生類と爬虫類が明確に分類分けされていない世界観とか?だとしても、脚注が必要だろうけど
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