最終話 僕の世界を彩る女神
妻が風邪をひいてしまったらしい。
前回の会食から一週間ほど経った日の朝、起きたら妻からメッセージがあった。
風邪をひいたので用事がなければ看病して欲しいとのことだった。
僕は作家をしているので、仕事の時間には自由がきく。こうして臨機応変にトラブルに対応できるのは、この仕事の良いところの一つだと思う。
月に二回しか会ってはいけないと決めているわけではないので、こうした緊急事態などは普通に会うことがある。
緊急事態ではなくとも、会いたいと思うときに会ったりすることもある。
看病に必要なものだけを持って、急いで妻のアトリエへと向かう。
そこそこ長時間エレベーターに乗り、家に入ってから寝室を開けると、そこには3、4着の部屋着が転がっていた。妻が夢中になって絵を描くときによくやる癖だ。
とりあえず、苦しそうに目をつぶって寝ている妻に容態を聞くことにする。
「大丈夫?起きるのしんどかったら、無視して大丈夫だよ」
「起きてる。大丈夫、じゃない……しんどいよぉ……」
「体起こせる?まず水分とろう、ポカリ買ってきたよ」
「起こして……」
「はいよっと。なんか他にして欲しいことある?」
「ここにいて、寝るまで手、握ってて……」
「わかった、これで良い?」
「うん……」
「……まさか、前回会って、すぐこの状態に入ってるとは。いつもは、会ってから5日くらい経たないとこの状態に入らなかったのに」
部屋の状態からして、妻は前回会った翌日から、絵に夢中になり始めたらしい。
妻は一度絵に夢中になると、日常生活に支障をきたすほど我を忘れて作業に没頭する。
時々妻の様子を見にやってくるが、割と頻繁にこの症状が出る。
そのため、絵が完成するまでは、妻の身の回りのことは全て僕がお世話することになる。たまにトイレで寝ることもあるので、数十分に一回は、生存確認をしている。風呂場で寝られたら大変である。
僕にとって、この時間は至福のひとときである。
夢中になって絵を仕上げていく彼女の姿は、この世の何よりも美しいと、本気でそう思っている。その様子を四六時中眺められるのだから、こんなに幸せなことはない。
絵が完成すると、数時間ぽけーっとしたあと、ハッと我に返ったかのように、今までのことを思い出して顔を真っ赤にする。
夫婦なんだから気にしなくて良いのに、と思うが、女性として譲れないものがあるらしい。
ただでさえ数日会話できなかったのに、さらに数日、口を利いてもらえなくなってしまう。
部屋にほっぽり出されていた服を一通り洗濯し、水に浸されてた食器を洗ってから部屋に戻ると、妻がお腹が減ったと言ってきた。
おかゆを作ってあーんと食べさせると、されるがままに口を開けて食べさせられてくれる。
ちょっと意地悪をして少しだけスプーンを引く。
すると、それに釣られて口を開けたまま顔をスプーンに近づけていく。普段だったらキレられるが、ぼーっとしているのか、少々間抜けな顔で食べ物をねだる妻をみて、不覚にも悶えてしまった。
食べ終えてすぐ、妻は布団をかぶって寝る態勢に入った。
食器を片付けるために立ち上がろうとした時、妻が僕の袖をきゅっと掴んだ。
「ねぇ」
「ん?」
「まだ、別居続けなきゃダメ?」
「っ……!」
「やっぱり、一緒がいい……ひとりぼっちは、さみしいよ……」
「それは……」
「できるだけ、思ってることをそのまま言うようにするから……きつい言葉だって使わないようにするから……だから、お願い……おうちに帰らせて……」
おそらく、風邪で精神が弱ってしまっているのだろう。言いにくいことでも、理性というストッパーがぶっ壊れてしまっていた。
そもそも、別居したきっかけは妻が喧嘩に対して深く傷ついているということを知ったからだった。そのことに対する不安は、前回の会食で取り除けたのではないか、と思う。
だが、いくら僕が気にしないということを伝えたところで、きつい言葉を使ってしまうことに傷つき、自分を責めてしまうということはあるかもしれない。
それに、絵を描くスピードは、明らかに別居したときの方が上がっているし、顔を合わせるときも、別居する直前よりは今の方が顔色が良い。
それを踏まえて、妻にはこう言った。
「いきなり同居に戻しても、反動でまた同じようなことになるかもしれない。だから、少しずつ会う頻度を多くしていこう。それに、このアトリエだと、自宅より絵に集中できるだろ?」
「でも……じゃあ、もっとたくさん会いにきて。私も時間が空いたらそっちの家に行くようにする」
「わかった。僕たちなりのスピードで、ゆっくりと解決していこう」
「うん……ごめんね……」
「謝らないでよ。人間誰しも、苦手なことはあるんだ。君にとってはそれは、素直に感情を表現することだったってだけだ。夫婦なら、助け合っていこう。僕だって、君に救われていることはたくさんあるんだ」
「……ほんと?」
「ああ。僕は君に出会うまで、この世界の何にも興味がなかった。何もかもが色褪せていて、ふらふらと生きていたときに見つけたのが、君の絵だったんだよ。あの時は衝撃だった。君はただキャンバスに色を塗っていただけだと思っているかもしれないが、僕にとっては世界を彩る女神だったよ」
「……きゅぅ」
「君と話しているうちに、君の人柄にも触れて、僕は君のためなら命を落としても良いと、そう思えた。それくらい、君のことが大切なんだ。だからーー」
「も、もう大丈夫だから。ちょっとクラクラしてきちゃった……」
「ご、ごめん」
「ううん、そんなこと、聞いたことなかったから、嬉しい……」
「ごめん、あんまり言う機会もなくて……」
「もう、謝らないで?夫婦は、助け合いなんでしょう?」
そう言って、風邪のせいなのかわからない真っ赤な顔ではにかむ。気がついたら、どちらからということもなく自然と抱き合っていた。長い間ずっとあったわだかまりが、二人の熱でとけていっているような気がした。
僕はこの、素直じゃない彼女のことを、一生かけて幸せにしようと思った。