転:魔女は蘇る 3/3
◇
「──と、まあ。最後に少し脱線したけれど、私の過去は以上だよ」
そう締めくくった途端に、辺りを沈黙が満たした。
この図書室には、静寂が似合う。しかし今の静けさは、これまでのいかなるそれとも違っている。
独りで本を読んでいたときの、孤独を思い知らせる静寂とは違う。
二人で本を読んでいるときの、暖かく心を騒がせる静寂とは違う。
ひりつくような、空気の軋むような、緊張に満ち満ちた静けさだ。
ともあれ、私にできることはもうなかった。すべてを、全部話した。私の罪を、余すことなく。あとは、彼の判断を仰ぐのみだ。
果たして、彼は、どう思うのだろう。彼が望んだ、私の過去を。
魔女の物語を、どう受け止めるのだろう。
自分の倫理観が、どこか歪んでいることは自覚していた。悪だと理解してもなお、あの村を焼くことに、ためらいはなかった。
けれど、それは私だけの問題だ。
否定されてもおかしくないだろう。あれは紛れもなく、私の罪だ。嫌われて、厭われて、疎まれてもおかしくはない。有象無象の、私を排斥した彼らと同じように。
私を見損なうのは、自然なことだ。
けれど、同時に、思う。もしかしたら彼は、受けいれてくれるだろうか。
この数ヶ月の、楽しい日々を思い出す。
彼は、暖かかった。弟のように、私と、ともに過ごしてくれた。一緒に、本を愛してくれた。熱中した本を語るとなると周りも見えずに早口を重ねてしまう私に、根気よくつきあってくれた。
一緒に本で笑いあって、悲しい本で一緒に泣いて。『魔法の探究』が語る理想に、ふたりで瞳を輝かせた。
たとえ彼の目的が、私の過去を──魔女について知ることでしかなかったとしても。
それでも、彼が一緒にいてくれたことは、私のなかで、揺るがない。
きらわれたくない。
そう、思ってしまっている自分を、ただ、自覚する。
「……幾つか、気になるところがあるね」
口火を切る彼を、黙って私は見ていた。どんな非難も、罵倒も、受け止める覚悟で。
その覚悟をした、つもりだったのだが。
「その、呪いの本とやらについて。発動条件が複数人なのかもしれない、という分析には頷けるけれど、きみの弟とその友人は、魔術の素人だろう? それよりも、当時から魔力を扱っていたきみのほうが、迂闊に触れてしまったら危険そうな感じがするのだけれど」
「……えっと」
戸惑いが顔と声に出た。読んだ本について語りあうような、なんの私情も含まれない言葉。いたっていつもどおりの平凡な表情で、彼は自分の疑問を語っていた。
「……私は幾つか呪い対策を施していた。そのなかには、自分の魔力が本の呪いに不用意な干渉をしないようにする、ということも含まれていたの。その用心も、何回かの試行によって不要だったことがわかっていた。そして弟たちの場合は、魔力の扱いを知らなかったから、呪いによる干渉を防ぐ術もなかった……ということになる」
「そうなんだね。……なるほど、勉強になった」
「……ふ、」
ふざけているのか、と口に出しそうになる。その様子を見てとってか、彼は楽しそうに微笑んだ。
「いや、冗談のつもりはないよ。本当に気になっていたんだ。あの頃も今も、ぼくはそれほど魔術に詳しくないからね」
「…………」
「わかったよ。じゃあ、本題に入ろう」
そう言って、彼は手を広げてみせた。伸びる指が五本。
「机の上に置かれていた五つの湯呑について」
「……それが?」
「あの場にいたのは、きみの認識だと弟さんとその友人、合計四人だろう? 弟さんがそいつらのために食器を用意したのなら、当然湯呑は四つになるはずだ」
「……それは、」
確かにそうだ。あのときは弟を死なせたことで頭が一杯だったが、今思うと明らかにおかしい。どういうことなのか……いや、少し考えて可能性に気づいた。
「残りひとつは私のだったんじゃないか。流石の弟も、姉が使った湯呑をそのまま客人に使わせるほど無礼ではないだろう」
「なるほど、そういう見方もできるのか。しかし、それは違う。……その可能性は薄い、とぼくは思う」
「どうして?」
「確証はないけれどね。確か当時のきみは毎朝のように、自分が朝食を食べたあと、その食器を片づけてから、朝食中の弟さんの前で本を読んでいたんだろう? そこで湯呑も持っていくはずだ……万一にも、本が濡れないように」
「……なるほど」
毎朝ではないが。弟の朝食中に毎朝本を読んでいたわけではないが、確かに、私が湯呑を片づけていたことは事実だ。
と、なると。
「あの日、あの家には、私が帰る前にはもうひとり誰かがいた……ということなのか?」
「そうだね。そこで次の疑問が生まれるはずだ。彼はきみの家で、何をしていたのか」
「…………」
考える。あの日、弟が死んでいるのを発見したときに、何かおかしなことはなかったか。……いや、考えるまでもなかった。
おかしなことだらけじゃないか。
「その前に、ひとつ別のことを考慮しておきたい」
私が口を開くより早く、彼は別の話題を挙げた。
「あの本の呪いのことだ。複数人の場合に致命的な呪いが発動する、というきみの読みは、ぼくも正しいと考える。では、具体的にその致命性とは、どんなものなのだろうか?」
「その点については考えたことがある」
位置の変わっていた座卓。部屋の節々に残る痕跡。死体のあちこちに刻まれた、打撲や爪傷の跡。
つまり、それらは。
「幻覚による狂乱じゃないかな。互いのことを互いと認識できず、もっと恐ろしいものと誤解して仲間割れした末の惨状、という線だと思う」
「流石だね。そのとおりだ。そしてこれを踏まえたなら、第五の人物が何を為したのかが見えてくるはずだ」
「死体の姿勢を正して、目蓋を閉ざした、か……」
「そう。ぼくは、……彼は彼らを看取ったのだ、と思う」
「…………?」
微かな、違和感。だがそれ以上に、過去に対する認識が私のなかで塗り替えられていた。
湯呑を整然と並べたのも、呪いの本を丁寧に置いたのも、その第五の人物の行いだったのだろう。幻覚と狂乱が全滅を招いたのなら、食器は散らばり本も地に落とされているのが自然のはずだ。
しかし謎の人物は、それをそのままにしておかなかった。跡を濁さず立つ鳥のように。……どうしてだろう。
「そして、彼はきみの家を出ていった」
「それは間違いない」
死体と湯呑の数の違いからそれは明らかだ。湯呑で歓迎されていることから、おそらく弟の友人のひとりであっただろうその人物は、最後に家を去っていた。
履物の数からもその事実は補強される。私が家に戻ってきたとき玄関に置かれていた草履は、私自身のものを除けば四足。死体の数には合致するが、湯呑の数には一致しない。
……そういえば。今思えば、あれも不思議だ。
沓脱に置かれた履物が綺麗に整えられていたこと。
少なくとも弟には、玄関口で草履を脱ぎ散らかしていく悪癖があったはずだ。
もちろん、その日は友人たちの前だったから気を遣ったのかもしれない。あるいは友人たちが気配りをしたのかもしれない。
根拠としては、少し弱いが。卓上の様子を考慮に入れると、若干違和感が強くなる。
なんといえばいいのだろうか。
まるで、友人の家を訪れたのなら自分たちが散らかしたぶんは片づけて帰るのが普通だ、というかのような……。
それは当然の礼儀である、というかのような。
いや、そこまで邪推しても意味はないだろう。
「それで結局、あなたは何が言いたかったの?」
「……きみはこれ以上、何も語ることはない?」
「こちらが質問したつもりだったんだけど……」
話すことが、ないわけではない。しかし確信のない疑惑に過ぎない。
それはつまり、何も語れない、ということに他ならない。
「……そうね。私から話すことはもうない」
「そっか」
軽い相槌。短い沈黙。少し間を置いて、彼は。
どこにでもあるようなありふれた真剣な表情を浮かべて、口を開く。
「それじゃあ、今度はぼくの話をしよう」
◇
その瞬間だった。
直感あるいは女の勘で、ただなんとなく、私は理解した。
……きっと、彼は私をきらっていない。
他のあらゆる人間とは違う。彼は私を疎まず、厭わない。
けれど、同時に。
彼は決して、私のことを受けいれない。
そんなことを、どうしようもなく、根拠なく、確信して。
◇
「あなたの話って、それはどういう……」
嫌な予感がして。
漠然と疑問を口にした。
それを受けて、少年は微笑んだ。
平凡で凡庸でごく普通の、少しだけ寂しさの滲む微笑で。
「きみの村が焼かれた日、きみの家を訪れていた、第五の人物の話さ」
彼は言う。
「アプレイス村に暮らしていた、もうひとりの異端者の話をしよう」