第26話
「……寒ぃ。なんだってこんな目に」
王立聖女学院が所有する霊泉合宿所、その特別室。天蓋付きのふかふかなベッドの中で、俺は首まで分厚い布団を被り、ガタガタと震えていた。
完全に風邪である。
三十八歳のオッサンが、深夜の山中で冷たい滝に打たれればどうなるか。答えは明白、一発で熱を出して寝込むに決まっている。いくら外見がチート級の聖女ボディになっていようと、その自然治癒力をもってしても、オッサンの精神的疲労と物理的な冷えには勝てなかったらしい。
「ヴァル様! 氷嚢をお持ちしましたわ!」
「女神様! すぐに神聖ハーブを煮込んだ特製お粥をお持ちします! もし喉を通らなければ、私が口移しで……!」
「や、やめろアリア……。気持ちはありがたいが、一人で静かに寝かせてくれ……」
俺は熱で霞む目で、涙目で群がってくる令嬢たちをなんとか追い払った。
彼女たちは俺の滝行(ただの風呂逃亡)を「大自然の力を取り込み、霊泉を究極の次元へ引き上げるための神聖な自己犠牲の儀式」と勘違いし、完全に崇拝モードに入ってしまっている。
看病の圧が強すぎて、逆に寿命が縮みそうだった。
「ふぅ……やっと静かになった。……寝るか」
俺は重い瞼を閉じ、熱い息を吐きながら意識を手放そうとした。
――しかし、俺の平穏な療養生活は、目に見えない場所で、すでに崩壊の危機に瀕していたのである。
***
その頃。俺の寝ているベッドの、ちょうど真下。
合宿所の地下数メートルの地中に、謎の『地下空間』が存在していた。
「はぁ……はぁ……っ。今日も聖女様の寝息は、まるで天使の羽ばたきのように愛おしい……」
薄暗い土くれの壁に囲まれた空間に、魔力ランプの灯りが一つ。
そこにいたのは、純白のスーツを泥だらけにした歴史教師(変装した異端審問局の特務執行官)、ユリウスだった。
彼は自らの異常な暗殺技術と土属性魔法を駆使し、一晩で合宿所の地下にこの『秘密の警護部屋(ただのストーカー基地)』を掘り上げていたのだ。
天井には集音用の魔力管が通されており、俺の寝返りの音から微かな咳払いまで、全てがクリアに聞こえるという変態仕様である。
「コホッ、コホッ……と。ああ、なんて痛ましい咳だ。代われるものなら、私がその苦しみを全て引き受けたい……。だが、これもまた聖女様の魂がさらに高みへと昇るための試練。私はただ、この場所で、不届きな害虫から女神を守る見えざる盾となろう……」
ユリウスが壁に頬を擦り寄せ、恍惚の表情を浮かべた、その時だった。
ズゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
突然、ユリウスの背後の土壁が、凄まじい地響きと共に崩れ落ちたのだ。
「な、なんだと!?」
ユリウスが咄嗟に聖銀の短剣を構える。
もうもうと舞い上がる土煙の中から現れたのは、巨大な掘削用の魔導ドリルを持った二つの人影だった。
「プハァァァッ!! 遂に! 遂に辿り着いたッスよ、ゴルド小隊長!!」
「おうよルッツ! 筋肉とコンパスと愛の力だけで、王都の地下水脈を抜け、魔の山を削り、ここまで掘り進めてやったぜ! さあ、ヴァルちゃんの入った究極の温泉の残り香を、この肺いっぱいに吸い込むんだ!!」
全身泥まみれになり、頭にキャップランプをつけた大男。
辺境砦のゴルド小隊長と、部下のルッツである。
彼らは「ヴァルちゃん(中身はオッサン)の入ったお湯の気配を感じたい」という狂気じみたモチベーションだけで、国境の砦から数十キロの道のりを、なんと地中から手掘りで貫通させてきたのだ。
「……き、貴様ら……!!」
ユリウスのアイスブルーの瞳が、怒りで真っ赤に血走った。
「どこまで私の聖女様を穢せば気が済むのだ! この薄汚いドブネズミ共め……! よりにもよって、女神様が御病気で苦しんでおられるというのに、こんな騒音を立てて壁を破るとは!!」
「あぁ!? 誰かと思えば、あの時の優男教師じゃねえか! なんでテメェがこんな地下にいやがる!」
ゴルドがスコップを構えて睨み返す。
「ヴァルちゃんが風邪引いてるッスと!? ふざけんな、テメェがついていながら何事ッスか! 俺たちが直々に看病に行くッス!!」
「させない……! 貴様らのようなバイ菌を、一ミリたりとも聖女様に近づけはしない!!」
狭い地下空間で、狂信者と砦の猛者たちの殺意が激突した。
しかし、激突の寸前、三人は同時にあることに気がついた。
――ピタッ。
三人の動きが完全に止まる。
そして、全員がゆっくりと、天井(つまり俺のベッドの真下)を見上げた。
『……んん……っ』
集音管を通じて、俺の微かな寝言と、苦しそうな寝息が聞こえてくる。
(((ここで大暴れしたら、ヴァル様の安眠を妨げてしまう……!!)))
三人の心が、奇跡的に一つになった瞬間だった。
「……(ギリギリッ)」
ユリウスは無言のまま、音を立てずに短剣を構え、首を横に振った。
『音を出すな。声もだ。完全に無音で貴様らの首を刎ねる』というハンドサインだ。
「……(ニヤァ)」
ゴルドとルッツも、武器をスコップから野戦用の軍用ナイフに持ち替え、無言で頷いた。
『上等だ。一切の物音を立てずに、テメェの骨をへし折ってやる』という合図である。
ここから、地獄の『サイレント・デスマッチ』が幕を開けた。
ヒュンッ!
ユリウスが投擲した三本の短剣が、空気を切り裂く音さえ殺して迫る。
ゴルドはそれを分厚い胸板で受け止め(筋肉の収縮で刃を挟んで止め)、音もなくユリウスの懐へ潜り込んだ。
(((死ねェェェェェッ!!!)))
声なき絶叫が地下空間で交錯する。
拳とナイフがぶつかり合うが、彼らは歴戦の戦闘者だった。衝突の瞬間に力を逃がし、衝撃音を極限までゼロに近づけているのだ。
ルッツが背後からユリウスに裸絞め(チョークスリーパー)を仕掛け、ユリウスがルッツの足の甲を短剣の柄で容赦なく叩き潰す。
「――ッ!!(声にならない悲鳴)」
「――ッ!!(顔を真っ赤にして耐える)」
血みどろの死闘。関節が外れ、肉が裂け、血が舞う。
しかし、地下空間にはただ「シュッ」「ヌチャッ」という、極めて生々しくも小さな音しか響いていなかった。
『……ゴホッ……んぅ……』
天井から咳払いが聞こえるたびに、三人は「ビクゥッ!」と動きを止め、俺が起きないかを固唾を飲んで見守る。
そして、俺が再び寝息を立て始めると、一斉に殺し合いを再開するのだ。
もはや狂気の沙汰である。
彼らは互いの体を破壊し合いながらも、「聖女様の睡眠を守る」という謎の使命感によって、究極のステルス戦闘を繰り広げていた。
***
「……んあ……?」
一方、その真上にいる俺は、浅い眠りの中で微かな違和感を感じていた。
(なんだ……? さっきから、床下の方で、トントン、モソモソ……ネズミでもいるのか?)
微熱のせいで頭がボーッとする。
床下から伝わってくる微かな振動は、三十八歳のオッサンの神経を逆撫でするには十分だった。
(うるせえな……。静かに寝かせろっての……)
俺は寝返りを打つと同時に、布団から腕を出し、苛立ちに任せて床のフローリングを「ドンッ!!」と強く叩いた。
「静かにしろ、ネズミ共!!」
――パァァァァァァァァァンッ!!!
その瞬間だった。
俺の寝起きの不機嫌と、風邪による魔力コントロールの乱れが、聖女ボディの【神聖力】を暴走させた。
床を叩いた俺の手から、凄まじい威力の『超・浄化の波動』が床板を透過し、真下の地下空間へと一直線に放射されたのだ。
***
「(((なっ――!?)))」
地下で血みどろの取っ組み合いをしていた三人は、天井から突如として降り注いだ『黄金の極太ビーム(浄化の光)』を完全にモロに浴びた。
「(ギャアアアアアアッ!! 女神様の聖気が、不純物である私の邪念を焼き尽くすゥゥゥッ!!)」
「(アババババババッ!! ヴァルちゃんの愛が! 愛が強すぎるッス!!)」
「(浄化されるゥゥゥ! 泥に塗れた俺のオッサン人生が、真っ白に漂白されていくゥゥゥ!!)」
声を出せない彼らは、心の中で絶叫しながら、その神々しい光に飲み込まれた。
浄化の力は彼らの物理的な傷を完全に癒やすと同時に、その異常な執着心や煩悩といった「精神的汚れ」に強烈なダメージを与え、三人の意識を一瞬にして刈り取ったのである。
光が収まった後。
地下空間には、互いに抱き合ったまま(関節技を掛け合った状態)、安らかな赤ちゃんのような寝顔で気絶している三人の屈強な男たちの姿があった。
***
翌朝。
「ん……」
俺が目を覚ますと、昨日の熱が嘘のように引き、体がスッキリと軽くなっていた。
「お、治ったか。やっぱり睡眠が一番の薬だな。昨日の夜はネズミがうるさかった気がするけど」
俺が伸びをしていると、外からアリアたちの騒がしい声が聞こえてきた。
「ヴァル様! 大変ですわ!」
「どうした?」
「合宿所の裏山に、大きなクレーターができていて……その中に、泥だらけの不審な男たちが三人、なぜか組体操のようなポーズで気絶していましたの!」
俺は窓から顔を出した。
見ると、裏庭の地面が陥没しており(ユリウスの地下室の天井が抜けたらしい)、その底で、ゴルド小隊長、ルッツ、そしてユリウスの三人が、白目を剥いてピクピクと痙攣していた。
「……」
なぜ、辺境の砦のオッサンと、教会の暗殺者が、一緒に泥だらけになって気絶しているのか。
俺の三十八歳の脳細胞は、その謎を解明することを全力で拒否した。
「……山の妖精さんじゃないか? ほら、温泉の精霊的な。ほっとけば山に帰るだろ」
「まあ! さすが女神様、あんなむさ苦しい姿の男たちの中に、精霊の気配を感じ取られるなんて!」
アリアたちが感涙する中、俺はそっと窓を閉めた。
(もう、アイツらのストーキング能力は国境を越えるレベルだな……。後で王都の騎士団に匿名で通報しておこう)
こうして、俺の風邪と貞操は、無自覚な一撃(寝返り)によって完全に守り抜かれた。
最強の聖女の周りでは、今日もオッサンには理解不能な狂信者たちの聖戦が、人知れず繰り広げられ、そして人知れず鎮圧されていくのだった。




