離れ合わさり三葉の幸 1
第参章 離れ合わさり三葉の幸
水中に潜るのに似た、ヌルッとした感覚の後に、鋭利は放り出された。
謎の空間に落とされた鋭利は、辺りを見回した。
動くものはない。建築物も植物も存在しない、平坦な灰色の大地。死んだ空。
見通しは悪くはない。というか、空間の末端というか、地平線がなかった。灰色の空と灰色の大地は、遠くで絵の具のように混ざり合っている。
風もない、密閉されている。しかし息苦しさはなく、気温や湿度も過ごしやすいように調整されている。地面はほどほどに堅く、人肌の温かみを感じる。
人工的な異空間。そこに閉じ込められたってわけだ。
自分らを襲撃し、ここに投げ込んだのは十中八九次門系の鬼だ。超能系に幻覚を見せられている可能性もあるが、もしそうだった場合の対処は容易なのでありがたい。まずは最悪の可能性を考え、対抗策がほとんどない次門系を想定して動こう。
一番厄介な可能性から考えていくのは、『例の組織』で染み付いた癖だった。
「……近くに雲水と虚呂はいない。連携されないよう引き離した、か」
トラップの有無だけを調べて早々に調査を打ち切り、鋭利は座り込んだ。
脱出の見通しもなく無闇に動いて体力を削るのは愚作である。二人がどこかに落とされていても、この広域を探す気にはなれない。何せ全体像すら掴めないのだ。
となると、結局は肉弾戦しか能がない鋭利は待機を選ぶ他ない。あの二人の異能力なら鋭利よりはこの空間に対応できるだろう。
「でーもまー、何もねーってのも、気持ちいいもんだなー……」
思いもしないタイミングで入った寸暇に、鋭利は暢気を得ていた。
ストレスとは無縁な生き方をしている鋭利だったが、前の組織を抜け出てから心休まらない日々が続いていたのも確か。なので、ここに来て緊張が緩んだ。
どうせ出られないんだし、存分に謳歌させてもらおっかねー。
ゴロン、と温かい大地に寝転んだ鋭利は、ソッと目を閉じた。
ゆっくりと眠気が寄ってきて、風の音がどこかから聞こえ、ゴムの靴音がした。
せっかくの昼寝を邪魔された鋭利は不快な気分で身体を起こし、顔を向けた。
視線の遠くに、月桂樹の枝を頭に巻いた美青年が立っていた。
月桂冠をかぶる金髪の下には、物憂いに更ける緑眼が並んでいる。
無手の手を挙げて彼は、やあ、と牧歌的な表情で挨拶した。
「君の相手は僕だね。心を病みかねない異界に放り込まれて矢継ぎ早に悪いけど、『悲劇こそ心の妙薬である』って言葉、知っているかい?」
「アンニュイなお兄さんには悪いが、オレは詩も哲学もやらないんでね。悲劇なんかで心癒される奴なんて、どいつもこいつも性格が悪いに決まってる」
それで、と続ける。
「アンタがオレの『悲劇』かい? 迂闊にちょっかい出すと火傷じゃ済まないぜ」
この空間に捕まった時点ですでに鋭利は無力化されている。念を入れる必要はない。余計に手を出してしっぺ返しを食らったら、痛むのはそちらだろうに。
そうだろうね、と肩を竦める美青年。
「でも、君らを確かめてみようと思ってね。町を散々引っ掛け回して僕らを負け犬に変えた小鬼三匹が、この町にとって救世主なのか、それともただの疫病神か」
青年はこちらと十メートルの間隔を開けて、立ち止まった。
「僕は瀬田組と同盟していたチームの一つ、《深森の騎士ボスケ・カバリェロ》団長のタリオ。さあ、本気で暴れてみせてよ。君の暴力は僕を打ち負かすことができるのか、否か」
そう言うと、タリオは左腕を前に伸ばした。その肌が、ザワリと波立つ。
七分丈のシャツから覗く彼の両腕が、木質に変化していった。ゴツゴツした木肌の手指には苔が繁茂し、左手首からニョキリと二本の枝が生えてきた。頭の栄冠も、よく見れば髪に混じって生えている、円状に絡み合った枝葉であった。
鋭利は敵の変容を見すえ、頷いた。
「木の精霊。鬼形児の半分を占める獣化系でも、かなり珍しいタイプだな」
タリオの左手から生える二本が弧を描いて生長し、彼は柔和に笑む。
「珍しいからスタイルの指針も得にくくてね、ほとんど独学なんだ。戦闘なんて特に苦手分野だったから殊更に研鑽を重ねてたら、まあスクスクと育ってしまって。気付いた時には今のこの立場と《西部最強》なんて称号を手に入れていたよ。最強、って言われてみると間抜けっぽくて笑えるよね。ああ、僕らしいやって」
上下に伸びた二本の枝は、やがて端同士を一本の蔓によって繋げられる。太さが腕と同じにまで成長して、間に通された細い蔓がピンと張る。
こうしてタリオの左腕に半月の円弧が出来上がる。
それは剛弓。
しなやかな樹木を素材にし、頑強さを十全に利用した遠距離射撃器。
矢がないと思ったら弓に添えた右手指の一本が、弦を引く動作と共に伸びていき、大矢に変貌して手から切り離される。矢筈を当てられる。
矢尻がこちらをピタリと差し、溜められた弓が離された。
大樹の張力が発射された。
鋭利は焦らなかった。
矢の速度自体は大したことない。この距離でも避けられる。
弓の大きさから大体の威力は推測できる。いくら剛弓であろうと材質が木である以上、大砲並みの破壊力を有するとは思えない。日頃から機関砲クラスを相手取っている鋭利を倒すにはいささか力不足だ。
しかし、そんな鋭利の過信は矢が至近に迫った瞬間、打ち破られることになる。
飛来する矢の先端が、ギュロリと蠢いた。
「……ッ! やば……ッ!」
右に身体を飛ばした。大樹の枝が鋭利のいた空間を貫く。
杭矢は、あるかも分からない異空間の終端を目指して飛び去っていく。
こちらが避けたのを見たタリオは眉を上げて、声を弾ませた。
「ありゃ。直前になって気付いちゃったか。僕の力の特性が」
「分からいでか。とんだ千両役者だなアンタ。アンタが飛ばした枝の矢は、枝は枝でも挿し木。当たった場所から相手の体内に侵食し、その精気を奪う寄生植物だ。自分の子種を飛ばすって相当な変態プレイだぜ、二枚目さん」
嬉しそうに拍手を打つタリオ。
「うん、良い洞察力だ。放つ前に気付いても良かったけど、及第点はあげられそうだね。〈宿木の枝〉は生物に刺さらなくても成長してくれるのが自慢の子でね。例えば、」
とこちらの手前の地面に向けて一射する。地面に刺さった〈宿木の枝〉が、根を暴れさせ、枝葉を増やして急成長し、数秒経たずに見上げんばかりの大樹になる。
鋭利は、自分の右手首に噛み付いて、淡々とその様子を見守っていた。
「と、まあ。栄養の一切ない土壌でも健気に元気に育ってくれる。外の本物の大地だったらこれの三倍は大きくなっ――」
彼の演説が途中で切れたのは、生まれたばかりの大樹の幹に鋭い断線が入り、ゆっくりと傾いでいったからだ。大地に倒れ落ちて、振動を生む。
その傍らに立つ鋭利の腕には、目映く光る一振りの長剣がある。
たった今振り下ろしたばかりの剣を、唖然としている青年に突き付け、鋭利は言う。
「本気で、行っていいんだったよな? この世界をぶっ壊すくらいに」
「……当然だとも!」
喝采してタリオは、弓矢になった両腕を揃えてこちらに向けた。
鋭利は敵を指す剣を引き、左手も沿え、胸元で構えて腰を落とし、
「……ォおおッ!」
乙女の身体は一つの弾丸となりて、世界樹の幹に向けて放たれた。
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パチリと目を開く。盲目の自分には意味のない動作だ。
虚呂は、五感に何も訴えてこない空間の中で今一度瞬きをした。
何も聴こえない無音というのは、存外人にストレスを与える。ましてや視力のない代わり聴力が鋭くなっている虚呂は耳を塞いで、音を作りたいくらいだった。
どの方面に耳を傾けても音を拾うことはない。生きている音がしない。檻などではないようだが、そこより厄介な場所に落とされたと考えていいだろう。
無色透明だった世界に、色が投じられた。
色は人間の形をしていて、呼吸や脈動の音色を豊かに奏でている。
力強い生の衝動を持つ人影は、虚呂をジィッと認識している。
憎しみや怒りといった不の感情は篭っておらず、宝石を見定めるような気配だ。
見られるのは構わないが、何もしてこないとはなぜだろう。
「僕に何か御用かい? お姉さん」
声を掛けると人影は、若々しい女は、ああ、と視線を上げて返事した。
「すっかり忘れてたよ。うちらんとこにわざわざ手ぇ出してきた暇人はどんな馬鹿かと思ったら、何だいまだ子供じゃないかってね。すまんね、放置しちゃって。ま、あんたらをここに召喚した用件ってのは、あれさ。頼んでもないのに瀬田組を追っ払って同盟をガタガタにしてくれた落とし前、どう付けてくれんだって話。反省は当然してないだろ?」
まあね、と虚呂は敵を見据え、笑う。
「悪びれるつもりはないよ。僕は虚呂だけど。あなたは?」
ニイ、と女が口角を上げる。
「いい心掛けだ、坊や。闘争においての最低限の礼儀は備えているようだね。あたしゃ第五地区まとめている《魔女の火と釜亭》女主人のアマンテさんだ。本当は千香ってんだけど、こっちの方がお洒落だろ?」
「その辺の機微は僕慣れてないから。名前を二つ持っているなんて羨ましいなあ、って思うくらいかな? アマンテさんは僕と戦う気かい?」
「年下の坊やにはまだまだ負けたくないが、勝てる気もしないよ。戦うなんて物理的コミュニケーションは古臭いから、あたしは不意打ちと時間稼ぎさね」
不意打ち? ともう姿を現してしまっている彼女に虚呂は笑う。
「だったらさっさとすれば良かったね。僕はもうあなたの姿を捉えたよ」
掌を相手の胸部に伸ばす。そこにある心臓を掴み出すように、指を動かして、
ああね、とアマンテは神妙に笑って、頷いた。
「だからすでにさせてもらったよ、坊や」
変なことを言う彼女に首を傾げ、虚呂はすぐに異変に気付く。
自分の右腕を感知した。まっすぐ伸ばしているはず、だが右手が袖の内側にある。長袖が余ってぶかぶかに垂れている。自分の腕が、消されている?
否、そうではない。腕だけではない。足も肩も胴体も、縮んでいる。
「……っ!」
ここに来て、虚呂はようやく事態の全貌を把握した。
身体が幼くなっている。視覚的に確かめられないから断言はできないが、恐らく顔も。
自分が、子供に戻っている。
推定六、七歳ほどと思われる。指先が覚束ない。短い足を動かすのがもどかしい。思考力が明瞭なままなのが不幸中の幸いだ。が、妙に痛む箇所がある。
虚呂は、サングラスを震えながら外して、開いた両目で光を感じ取る。
「――――」
二年半ぶりに感じた外光は、ただただ白い凶器だった。
脳裏を切り裂き殴るナイフはしばらく収まりそうもなかった。
真っ白な雪化粧の中央に、ぼんやりと陰る黒いシルエット。
頭に魔女のとんがり帽を被った人型の影。あれがアマンテ、か。
「どうさ? 久々に見る世界がこんな味気ないとこですまないね。ともあれ、あたしがするのはこれだけ。能力も未熟になっているだろうけど、あたしを倒せれば縮んだ身体も元に戻るし、ネムの空間からも出してあげる。ああ、いや違ったね」
そうじゃなかった、と恥じるように頭を振るい、言い直す。
「あたしらを突破で来たら、うちらの盟主に会わせてやれる。そういうことさね」
「君らの、盟主?」
発した声のなんて甲高いことか。キイキイ煩くて敵わない。再び両耳を押さえたくなったが両手は現在目を覆うのに忙しい。セーターの袖が邪魔だ。
「あたしらは自分の力だけじゃ領地さえ満足に守れない、そんなちんけなチームだけど、《天楼族》のボスだけは器の違うお人でね。同盟組んでるチームたちの間で敬意を込めて盟主って呼ばれてるんさ。もしあたしを倒し、あの人も超えることができるようなら認めてやるよ、坊やたちをね。さ、条件は言い渡した。ゲーム開始だ」
アマンテが距離を取り出した。彼女の影が遠くに走っていく。
逃げて時間を稼ぐ気か。咄嗟に追おうとするが、サイズ違いの服は足手まといだし、三半規管も幼児化してるのでまともに走れない。足元に気を付けるのが精一杯だ。
いっそのこと裸になってやろうか。そんな発想をズルズルのズボンの裾をずりながら思い浮かべるが、幼稚でしかないはずのそれが妙に名案に思えた。
確かに全裸の方が動くのに具合が良いし、ここに着替えが用意されてるわけもなし。開放感や効率面から考えれば、裸になってしまうのが最善かもしれない。どうせ、アマンテ以外他に見てないのだし、問題はないじゃないか。
「ああっと、坊や。一つ言い忘れていたけど、子供の状態が三十分以上続けば、頭の方も完全に子供化するわよ。これって餌になるかいね?」
「それは一番先に言ってくれ……っ!」
あと少しで幼さ心に屈して全裸を晒すところだった。この虚呂をして理性を亡き者にするとは、子供の無邪気な心恐るべし。
虚呂はセーターの袖をめくりズボンの裾を半分まで折って、靴はそこに置き捨てることにして、幼い全力疾走で魔女との鬼ごっこを再開した。
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