File.EX -side-???-『相変わらずの器』
気がついた時には、妾はここにいた。
いつからこの廃屋にいたのか、かつて自分に名前があったのか、そんな記憶は海の底の泥のように濁っていて、すくい上げることすらできない。妾は何者で、何のために生まれ、何のためにこんな暗い場所に縛り付けられているのか——いくら思考を巡らせても、答えなどどこにも存在しなかった。
きっと神様が妾を戯れに生み出したに違いない。なんとも神とは悪戯なものよ。
妾を生み出した神の言う通りにすべきなのであろうが、神は妾に何も語りかけてはくれない。妾にはもう、神の声は届かない……。
ただ、この焦げた廃屋の朽ちた窓から、鉛色の海と曇天の空を眺め続ける日々。
それだけが妾の世界のすべてだった。何者でもない存在、形なき輪郭だけの呪い、それが妾だった。
ある時、この廃屋のすぐ前を通った人間の子供たちが、足を止めてこんなことを言っていた。
「ねえ、知ってる? この廃屋を5秒見ると呪われるんだって」
そうか、と妾はぼんやりと思った。妾は、人間たちが勝手に紡ぎ出した「噂」という名の器から零れ落ちた、澱のようなものだったのか……。
この街の若者たちが抱く、根拠のない恐怖と好奇心が、妾という実体を形作ったのだ。
そんな、くだらない人間の気まぐれのために、妾というものは生まれた。
疑念、疑い、秘密、そして隠しごと。
そんなドロドロとした負の感情が渦巻くこの街の空気が、妾を産み落としたのだ。ならば、妾を形作った人間どもをどう扱おうと、妾の勝手ではないか。
◇
ある日、夏の湿った空気の中、女子高生たちが5人、妾の領域に足を踏み入れた。
くだらない……。好奇心に目が眩んだだけの、浅はかな人間どもだ。呪いである妾は、せっかくの来訪者たちをちょっとした実験台として試すことにした。彼女たちの仲がどれほど脆いものか、ほんの少しの恐怖でどれほど簡単に崩れ去るのかを見てみたかったのだ。
自分の友達が冷たく死に絶えている姿を、最初に幻で見せてやろう。
どうせ他人のことなどどうでもいい、見せかけだけの偽りの関係だ。すぐにお互いを疑い、憎しみ合い、醜い本性を剥き出しにするに決まっている。
そう思ったのは、ただの退屈しのぎ、ほんの気まぐれな暇つぶしだった。
案の定、人間たちは滑稽だった。
恐怖に怯え、お互いに見たものを隠し、強がり、少しずつ不協和音を響かせていく。
妾はそこに面白みを感じ、さらなる余興を思いついた。一気にではなく、1人ずつ、じわじわと精神をすり潰しながら消してやろう。単なる気まぐれ、それだけの思いつきだった。
最初に見つけたのは、『まつり』と呼ばれる人間だった。
あぁ、なんていうことだ。その怯え、その絶望に染まる顔、そして命が引き剥がされる瞬間の悲鳴は、妾にとってこの上なく甘美なものだった。妾は呪いであり、恐怖を糧にする存在。この後、彼女たちの関係がどう崩壊していくのか、それを眺めるのが楽しみで仕方がなかった。
ただ、一つだけ気に入らないことがあった。
この『まつり』という人間は、消えゆくその瞬間まで、他の人間のことばかりを気にかけていた。もっと自分の保身を考え、もっと利己的になればいいのに。人間とは、こんなにも滑稽に他人のために自己犠牲の真似事を好む生き物なのか。妾には、それが理解できなかった。
だが、まつりが消えたことにより、残された4人の関係は妾の期待以上に面白くなってきた。
怯える者、必死に隠そうとする者、正気を保とうと空元気を振り絞る者。それぞれがそれぞれの歪みを抱え、崩壊へと向かっていく。愉快、実に愉快だった。
次は、『うい』という人間にしよう。
妾はその少女の家へと赴き、室内の暗がりから彼女を観察した。
妾の異様な姿を見て、彼女は狂ったように怯えた。その恐怖に震える呼吸音は、妾にとって心地よい子守唄のようだった。
だが、あいつは何をした? 自らの目を傷つける? そんな無意味な自傷行為に、一体何の意味があるというのか。視界を潰したところで、妾という「恐怖の概念」は脳の奥から消えないというのに。
この『うい』という人間も、最期まで家族や他の者を気にしていた。妾の思惑は、なぜいつも人間たちの「余計な情動」によって少しずつ狂わされてしまうのだろう。
その次は、『ゆめ』という人間を消すことにした。
孤独に怯え、部屋の隅に引きこもる少女を消すのは、あまりにもたやすかった。
正直なところ、少し退屈だった。だが、最後にこいつは妾を大いに驚かせ、そしてあきれさせた。
戯れに命を奪われるというのに、こいつは最期に「あたたかくて気持ちいい」「みんなが待っていた」などと、まるで救済であるかのような言葉を吐いた。
死の恐怖を、仲間のもとへ行くための救いだと勝手にすり替える。
何の意味もない、ただの残酷な死にざまなのに……人間というのは、どうしてこうも勝手に物語を美化し、幻想に浸ろうとするのか。理解しがたい。
そうこうしているうちに、残された『みと』と『しぐれ』という人間が、妾に対する考察を始めた。
なかなか面白い。自分たちがどうして狙われているのか、どうすれば助かるのかを必死に推理し、真実に近づこうとしていた。
だが、愚かだな。妾は無なのだ。妾自身すら、自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのかを知らないというのに、ちっぽけな人間どもにおいそれとそれがわかるわけがない。
だが、ここまで妾を楽しませてくれたご褒美をやろう。
この『しぐれ』という女に、妾の役目——「次の器(呪いの主)」としての役目を与えてやろう。
これもしばらくの間の、新しい余興だ。
『みと』という人間は、最後までリーダーぶって強がってみせ、それなりに妾を楽しませてくれたが……まぁ、それだけの事だ。最後にあんな見栄を張ってみせたところで、妾の前ではただのちっぽけな餌にすぎなかった。
すべてを隠そうとした者も、すべてを打ち明けた者も、結局のところ妾の掌の上から逃れることはできなかった。
秘密を持つことも、真実を告げることも、人間が恐怖のなかで行うすべての足掻きは、結果として妾を強大にし、妾を継承させるための最高のトリガーへ仕立て上げられたのだ。
◇
さて。
半焼した廃屋の冷たい床の上で、虚ろな目をこちらに向ける『しぐれ』よ。
お前はこれから、どれほど長く、どれほど深い絶望の中で、妾を楽しませてくれるのだろうか?
新しい夜が訪れ、新たな愚か者たちがこの港町にやってくるその時まで——妾は、その冷たい影の中で、静かに次の余興の幕が上がるのを待ち続けている——。
『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』を最後までお読みいただきありがとうございました!
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よろしかったらそちらも読んでいただければ嬉しいです。
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