最愁話
「ここだよ」
幼く、舌の足りていない可愛らしい声が到着を告げる。師匠はいつの間にか小さな体の雨合羽を来た少女の姿になっていた。傘は最早私を守ってくれてはいなかった。しかし今居るのは森の中だ。木々がある程度雨を凌いでくれている。
私たちの前には大きな鳥居が尊大に立っている。
「ここを潜れば太陽の街だ。花の遺跡はそう遠くないから、不器用なオマエでも容易に辿り着けるだろう」
小さな師匠は煙草に火をつけると、無邪気な顔で笑う。なんともトンチンカンな絵面だ。
「オマエは可愛い弟子だよ。自愛するといい。じゃあオレは別件があるからここで失礼するよ。じゃあな」
矮小な師匠は私に背を向けて何処かに行ってしまった。
挨拶を返す暇もなかった。しかし師匠は突然現れ、突然消える人だ。こういう別れもらしいと言えばらしい。次に会うのは何年後になるだろうか。まあ近いうちに再会出来る気がする。
私は鳥居を見上げながら一歩、また一歩と前進する。赤い横線が視界に入る。
横線が視界から消えると、いきなり強烈な光が私の目を刺した。
慌てて目を抑える。本当に痛い。全く太陽とは危険極まりない球体である。あんなものはどうせお飾りなのだから、廃棄して空から照明でもぶら下げておけばいいのだ。
心の中で悪態を吐き、嘆息してから後ろを見ると、鳥居の先で一匹の狛犬が怪訝そうにこちらを見ていた。なんて不細工な狛犬だろうか。私そっくりだ。
狛犬に向かって舌を出してみる。狛犬は怒り狂って笑い出し、地団駄を踏んだ。
こんな所で犬と戯れている場合ではない。私は一目散に花の遺跡へと走り出した。
*
コンビニエンスストアの外に設置されているベンチでココア味のアイスクリームを頬張る。一休みだ。太陽の街は暑い。灼熱だ。ここに来るまでに太陽光で焼死する人間を何人も見た。阿鼻叫喚地獄のような有様だった。並木通りでは蝉の断末魔と人の断末魔が混ざり合い、最早どちらの悲鳴なのだか把握することが出来なかった。煩わしい。
それに人が焼死する様を見ていると、塔子さんが自らの業火に焼かれているのを思い出してしまうからあまりいい気持ちがしない。
「あれ? ◯※▲ちゃんじゃない?」
私のことを読んでいるのだろうか。聞き覚えのある声だ。名前の部分だけ発音が奇妙でよく聞き取れなかった。
顔を上げると、私の顔を覗き込んでいる麦わら帽子の女性が一人。
家奈美春菜さんだった。家奈美家長女にして世界一の大天才。心の研究の第一人者だ。人間の感情が脳のシナプス信号に依るものだという論を否定し、それを証明した学会の怪物。全ての科学者、研究者の尊敬の的であり、嫉妬の的であり、憧憬の的であり、恵愛の的だ。
私は笑顔を返し、こんにちはと挨拶を口にした。口にしてから思い出した。彼女は耳が聞こえないのだ。久しぶりに会ったものだから失念していた。
心の中で挨拶を仕直す。
「こんにちは。どうしたの? こんな所に来るなんて珍しいねっ」
私は原初の公式が発見されたのだということを心の中で呟いた。
「ホントにっ!? すっごいね。アレがあったら色んなことが一杯助かっちゃうね! 流石は◯※▲ちゃんだよ」
お褒めに預かったのは光栄であるし重畳である。けれど私の心の痛むのは、相変わらず春菜さんが私の名前を上手く発音出来ていないということに原因がある。尊敬する人に名前を呼んでもらえないというのはどうにも少しばかり悲しいものがある。
「おやっ? どうしたの? 少し表情が暗いね」
おっと、こんな贅沢な悩みを知られるわけにはいかない。
私はとっさに、標くんと喧嘩をしたのだと嘘を吐いた。全く最低この上ない。いや、下がないのか。
「へえ、珍しいこともあったものだね。しーちゃんは怒ることすらあんまりないし、人との軋轢を嫌うから喧嘩なんて全然しないんだけどな。すごいねっ! しーちゃんと喧嘩出来る人が居るなんてビックリだ!」
春菜さんの輝く目から放たれる視線が痛い。
私は、自分が一方的に非道いことを言ったのであり、標くんが怒っているかは判らないと思った。
「そっかあ。それにしても◯※▲ちゃんが怒っちゃうのも珍しいよね。流石は我が弟だよ。でも困ったなあ、二人とも頑固者だからね。特にしーちゃんは言葉にしないと判らない子だから、ちゃんとお話しないと仲直り出来ないと思うなあ」
流石は心のプロフェッショナルだ。私たちの心理などお見通しらしい。とは言え嘘までは見抜けなかったようである。
しかしそれも仕方のないことだ。疑うということを知らぬからこそ彼女は心の天才なのだから。脳感情論を否定したのだって、それを疑ったからではなく、感情とは心から発現するものなのだと信じたからなのだ。そんな彼女に付け込んでこんな嘘を吐いている私は、世界で最も卑劣な女なのだろう。受け入れなければなるまい。
「喧嘩する程仲がいい。仲がいい程喧嘩する。どっちも同じだね。そういうお友達はとっても大切だよ」
友達とはもう言えないかも知れない。私は標くんのことが嫌いになってしまったのだから。そう考えればとっさに吐いた嘘も実であるように思える。いや、思えるのではない。確信出来る。さながら長岡さんが自身の死を確信するように、私もまた標くんとの衝突、確執を確信することが出来る。
嘘から出た実に一層暗澹とした気持ちが膨らむ。
「ほらほらっ、そんな顔したらダメなんだよっ。あ、でもいいのか。心は流れるままにしておいた方が健全かもしれないね。そうした方が色んなことが解決するものね。暗い気持ちも大切にしなきゃだよ、◯※▲ちゃん」
そうなのだろうか。しかし、春菜さんが言うからにはそれは真実なのだろう。なんせ彼女は天才なのだから。脳感情論者とは違うのだ。
「脳感情論も心感情論も論じてみれば同じようなものだよ。ただ、確かに人には心という器官があって、そこから感情が発するというのが正しいというだけ。縦え感情が脳のシナプス信号が原因で生ずるものなのだとした所で、それにはなんの不都合もないんだよ。感情は感情さ。脳だろうと心だろうと同じっ」
どうやら思考が漏れていたようだ。春菜さんは私の誤解に近い愚考を正す。
そうだこの人は全く自由闊達な人なのだ。正しいことを正確に調べていきたいというその一点のみがブレず、他のことに関しては本当に縛られぬ人なのだ。
「まあ何にしても、しーちゃんとはこれからもよろしくねっ。あ、あとふーちゃんの相手もしてあげて。何だか◯※▲ちゃんのことを慕ってるみたいだからね。ただあの子はあの子でしーちゃんのことが嫌いだから面倒をかけると思うけど……ある意味、しーちゃんよりも手のかかる子なんだよ」
確かに冬人くんは異様に標くんを嫌っている。恨んでいると言っても、呪っていると言っても過ぎた言い回しにはならないだろう。
何故あんなにも標くんを嫌うのだろうか。
春菜さんに聞いてみる。
「うーん。これはねえ、私のせいでもあり、父さんのせいでもあり、母さんのせいでもあり、なっちゃんのせいでもある。ふーちゃん自身のせいでもあるね。つまり、家族ぐるみでしーちゃんを追いつめちゃったせいなんだよ。それでしーちゃんが凶行に出ちゃってね、それで一族追放、ふーちゃんの怨念を一身に受けることになっちゃったんだ……それでもしーちゃんはふーちゃんにだけは優しくしてたよ。弟っ子だったし、兄としての責任も感じてるんじゃないのかなあ」
なかなか複雑で根の深い家庭事情のようだ。一人っ子で理不尽に愛されてきた私とはほど遠い環境で標くんは生きてきている。なんだろう。妙な、嫉妬にも似たような感情が心にある。私は一体全体誰に対して嫉妬しているのだ。
「まあ凶行の内容についてはちょっと私の口からは言えないかなっ。いや、でも一番辛いことを弟に伝えさせるって言うのはちょっと酷かな」
私は春菜さんの言葉を制した。言い難いことならば無理に言う必要はない。私は自害が嫌いなのだ。相手に腑を引きずり出せとは口が裂けても言えぬ。
「んーでもなあ。何時かは知っちゃうよ。その時◯※▲ちゃんはしーちゃんのことを軽蔑せずにいられるかな。どうせなら喧嘩している今、聞いておいた方がいいんじゃないかな?」
そうだろうか。私は標くんのことが嫌いなだけだ。軽蔑などするとは思えない。そんな高尚な感情が私の心に現れるなどあり得ない。全然あり得ない。
私は、標くんの口から聞きますと春菜さんに伝えた。
「そっか。判ったよ。そうだね。その方がいいのかもね」
しーちゃんをよろしくねと春菜さんは改めて私に言う。判りましたと私は快諾した。
嫌いになった標くんと話してみるのも良いかも知れない。きっと何時もとは違った会話が出来るだろう。
アイスクリームはどろどろに溶けてネズミ蟻達の肥やしになっていた。私は件さんのことを思い出す。何度だって思い出す。彼女ならば、私と標くんと塔子さんの行く末を見通せたのだろうか。
いや、そんな戯けたこと考えることに意味などない。彼女は死に切ったのだし、加えて私の友人なのだから。
件さんが友人ならば私たちは四人だ。私と標くんと塔子さんと件さん。あり得なかった未来は、論理的に妄想され、私の記憶に刻まれた。