第八話 天狐の呪と遠見の誓い
天眼は自ら襖を開け、
「失礼いたします」
と、深々と再び頭を下げてから、入室して襖をぴたりと閉めた。
侍女は連れていない。
彼女は足袋と畳の衣擦れの音を軽く立てて進み出ると、
迷いなく空也の右隣りに控えている真広の方を向いて、再び深々と額づいた。
空也はぎょっとした顔をして真広に振り向いたが、
真広は全てわかっていた、とばかり、凪いだ顔をしていた。
「――面を上げよ。」
真広が凛とした声を張ると、天眼はビクリと身を震わして、ブルブルと震えながら顔を上げる。
張り詰めた座敷の空気に、簪の飾りがシャラシャラと鳴る音だけが響いた。
顔を上げたものの、天眼は手元から少し先の畳を見つめたまま、視線を上げることも、姿勢を起すこともできず、しばし時間が流れた。
「――何か言いたいなら、さっさと言ってくれる?
僕、これでも疲れてるし、今日はいいことがあったから、いい気分のままサッサと寝たいんだけど。
――君には全部、わかってるはずだよね?」
真広が心底めんどくさそうに、冷たい声音で言うと、
天眼は再びその場に平伏した。
「――天宇根大明神さま、誠に申し訳ございません。
愚かな私を――、いえ、愚かな我が一族に、どうかお慈悲を……」
くぐもった天眼の声はかすれ、震えている。
けれども真広は不遜な態度で足を組み替え胡座をかくと、天眼を見下して頬づえをついた。
むしろ空也や他の従者の狐たちが落ち着きなくおろおろと主と天眼を見比べる。
「――おまえは、全部知っているんだね?」
真広が問いかけると、天眼は平伏したまま返答する。
「はい、そちらにいらっしゃいます従者様ではなく、あなた様こそが真の天狐さまであることも、
天狐さまと、そのご伴侶さまとの千四百年続く縁も、我が忌部の罪も、
少し先の未来までも――、全て見えてございます。」
「ふーん……正直なのは結構だけど、それっておまえたちがあの子から奪った力で知った事、だろ?
僕がそんなこと聞いて、愉快な気持ちのままでいられると、本気で思ってないよね?」
「――も、申し訳ございませんっっ」
天眼はまるで畳と同化してしまいそうなほど、這いつくばり身体を低くした。
真広は目を細めてしばらく天眼を見据えると、やがて立ち上がり、彼女の目の前まで行く。
「――少し先の未来を見たなら、僕が何をしようとしているか、
おまえがどうなるかもわかった上で、こうしているわけだ……
まあ、公平さに欠けるけれど……自分で来たことには変わりないから、評価はできるね。」
声音は先ほどより柔らかい。
けれども、表情は微塵も緩んでいなかった。
「申し訳ございません……、申し訳ございません……なにとぞお慈悲を――」
ひたすら謝り続ける天眼のつむじを見つめ、やがて真広は彼女の前にしゃがみ込んだ。
「ごめん、ごめん。
きみ個人が悪くないのは分かっているんだけれど、ちょっと頭に血が上ってしまった。
でも――、きみがどうしたら、その“覗いた未来”とやらを回避できるか――、わかっているよね?」
真広は彼女の顔をのぞき込むようにして、初めて笑みを浮かべる。
天眼はそっと顔を上げ、真広と目が合うと、再び額づいた。
「も……もちろんでございます。
長らく忌部が占有いたしました、この『遠見』の力を、天狐さまに――、
そして鹿奈媛さまに、お返ししとうございます。」
「……あの子の名まで、見通したんだね。
おまえたちにその名を口にされるのは、業腹極まりないけど――」
「申し訳ございません、申し訳ございません――」
再び天眼が謝り始めると、真広はフンと鼻を鳴らして不満を表し止めさせる。
「いいよ。それに、その力もすぐには返さなくていい。
あの子も返してほしいかまだ分からないし、いきなり返されても迷惑だから。」
「――では……」
真広の言葉に天眼の声がわずかに希望を含む。
だが、思わず顔を上げた先でぶつかった真広の視線は、決してやさしいものではなかった。
「約束して。
僕が空也と入れ替わっていることを誰にも言わないこと。
この家の者に関して、どんな未来が見えようとも、その結果を家の者に告げないこと。
あの子が望めば返すこと。」
「しょ……承知いたしました。必ずや守りますっ!」
また平伏した天眼に、ようやく真広は満足したような微笑を浮かべた。
『――契約の証に、おまえの真名を告げよ。』
いつの間にか、真広の身体がむくむくと大きくなり、大きな白狐へと変化して行く。
やがて四本の尾は、蒼い炎を纏い、天宇根大明神――天狐の真の姿を表した。
思わず顔を上げた天眼は、夢を見ているような表情で真広を見つめ、やがて操られたように口を開く。
「――凛暁にございます。
この名にかけ、お約束をたがえぬことを誓います。」
『しかと――』
真広は応えると、金目を細めて笑ったような表情を浮かべた。
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夕餉の後、部屋に用意された膳を足で押しやり、
差し出された件の水ようかんを重箱ごと半分ほど食して、
夢喰みは満足げに床の敷布の上へ、仰向けに寝転がった。
姫たちは各々の部屋で食事をとるのが常で、出される料理もそれぞれである。
茜は素早くもう一人の侍女に目配せして、膳を片づけるよう促した。
「――夢喰みさま、もうよろしいのですか?」
「いい、あとはおまえらで片付けて。」
「……では、ありがたく頂戴いたします。」
素早く三浦屋の包みを回収すると、部屋の隅へと押しやってから再び戻ってくる。
戻ってきた茜を、夢喰みはしばらく眺めてから、ニヤニヤと意地悪く笑った。
「――おまえも隅に置けないねぇ……」
「はい?」
茜が首をかしげると、夢喰みは鼻をつまんで顔をしかめた。
「狐臭いねぇ、ここまでプンプン臭うよ?
帰りが遅いと思ったら、どこで何をしていたのやら――」
「え? 臭いますか?」
茜は慌てて鼻に袖を付けて嗅いでみるが、何の匂いもしない。
自分に付いた匂いはわからないのかと焦っていると、夢喰みはますます面白がった。
「冗談よ。獣臭くはない。あの従者の匂いはしっかりついているが――」
茜は思わず白狐の姿をした真広を思い出した。
その途端、胸の内に、妙な不快感と、くすぐったいような気持が広がった。
「……どこも寄り道していませんし、道草も食っていません。
町へ行って、三浦屋へ行って、ただ帰って来ただけでございます。」
――嘘は言っていない。本当にそれだけだ。
けれど茜は、真広が大きな狐の姿になって狼と渡り合った事、
そして、彼に請われるままその毛並みを撫で、
彼の背に乗って村へ帰った事。
その一連を、夢喰みに報告したくない。
誰にも話したくない。
一人だけの胸の内にしまっておきたい――
そんな気持ちに駆られた。
「――本当に、それだけでございます。」
茜はその気持ちを不思議に思いながらも、もう一度きっぱりと言う。
夢喰みはそれでもしばらく意味深に茜を見ていたが、やがてごろんと敷布の上で寝返りを打ち、腹ばいになった。
「そんなあからさまな“呪”を刻まれて、白々しいけど――細工は流々と言ったところかしら。
あの従者を順調にモノにしていっているようで、何よりね。」
「“呪”ですか?」
茜が首を傾げれば、夢喰みは得意げに鼻を鳴らす。
「ええ、“呪”を刻まれたのに、おまえ、気が付いていないの?
あの狐の神威が、べったりとおまえを包んでまわりのありとあらゆるものをけん制している……
あの狐も、従者とはいえ、ただものじゃないわね……」
「……はぁ、そうなのでございますか?」
まだ実感がわかない茜は、首を傾げる。
「ふふ、これじゃあおまえ、天狐さまのご一行がお帰りになる時は、絶対に連れていかれるわ。
にげたって無駄。神隠しに遭うだけね。」
夢喰みは計画通りだと意地悪く笑った。
しかし、茜は、あの真広になら連れて行かれても悪くない――そんな気持ちを心の隅で思い始めていた。




