四幕『ハート・スナッチャーは血溜まりの中で嘲笑う』Ⅴ
「まったく。あまりにうるさく、研究もできないではないか。センゲよ、もう少し静かにできないのかい」
「そいつぁ難しい相談だね、実験狂。ボクの〈循血機関〉はド派手なんだ。揮えば一太刀で鋼さえ砕ける――うるさくないわけないだろうに!」
「ふむ。それもそうか……」
声の主はセンゲの言葉に納得したように頷き、
――Alle Menschen werden Bruder Wo dein sanfter Flugel weilt――
突然にそんな詩を口遊み始めた。それに続くように聞こえて来たのは、耳心地のよい音色。
それは旋律だ。
何処かで聞いたことのある旋律に詩文を乗せて、
「――すべての人々は兄弟になる。ふむ、シラーは面白い言葉を残したものだ」
凛然とした声が何処からともなく。
歌の――声の主が姿を現す。
場所はセンゲの背後。
まるで闇から突如出現したかのように、その人物は立っていた。
月明かりを彷彿させるような鮮やかで淡い色の金髪。永久に熔けることのない凍土のような蒼の双眸。まるで精巧に作られた人形のような、ある種の非現実的な美しさを孕んだ白衣の少女が、其処にはいた。
外見はどう見ても年端もいかない少女だ。
だがその身から僅かに迸っている気配は、その幼い姿からは想像もつかないような手練れのものだった。
まるで長い歳月を生きた、様々な見識を培った賢者のような。
あるいは数多の戦場を渡り歩いた、幾多の死線を乗り越えた老練の戦士のような。
あたかも名工が長い歳月をかけて鍛え抜いた名刀のような――そう。ある種の極みに至ったような、そんな気配。
外見と中身が、まるで分不相応だった。
そしてそれらすべてを切り捨ててなお、異様な存在感を醸し出す、はだけた胸の中央に埋め込まれている血のように赫い宝石。
視認して、思う。
知覚して、思う。
こいつは――なんだ? と。
そう思わせるだけの異質さが、その少女には存在していた。
それこそ眼前の邪鬼――トガガミ・センゲという殺戮の権化が、易しく感じられるほどに。
容姿は美麗にして淡麗。
高名な人形技師が長い歳月と精魂を込めて作り上げた、高級な陶磁器人形のような肌。宮廷絵画師によって描かれた貴婦人そのものが飛び出してきたような姿。
そう。誰もが振り返り、目を惹くであろう美しい少女だ。
しかし、どうしてだろうか。トバリの目には、どういうわけか少女が少女として映らない。
それは異形にして奇形。
獣が人の皮を被っているような。
悪魔が人間に化けているような。
その少女は――人と呼ぶにはあまりにもちぐはぐに過ぎる。
出会いたくない。ではなく、出会ってはいけない――そう。あの鋼鉄の怪物たるレヴェナントなどよりも、遥かにだ。
少女は、言うなればそういう類の存在だった。
「――ほう……」
金髪の美少女が、宝石のような双瞳を冷淡に細めトバリを見た。
「お前がセンゲの言っていた封神一族か。見た目は何処にでもいそうな若造だな。だが……ふむ。確かに異能の気配はするが……はてさて。本当に、フィフスが渇望するほどの力を持っているのか……興味深い対象だ」
鈴の音のような美しい声音で、何かを探るようにこちらをねめつける。冷ややかで、何処までも空虚な瞳が此方を見ていた。まるで全身の至る所まで事細かに観察されているような気配に、トバリは警戒を強める。
まったくなんという日だろうか。
自分の知りえる中で最も怪物と呼べるべき存在であったセンゲ。その彼女が、自分の知りえた頃よりも遥かに高位の――怪物を遥かに超えた怪物となっていたというだけでも絶望的な気持ちだと言うのに。
(……どうして、それを上回るような存在に出会っちまうんだよ!?)
奥歯が砕けんばかりに歯を噛み締めながら、トバリはどうにか現状を打破できないか必死に思索を巡らせる。
だが、
「やっと……見つけた……っ!?」
その場にいる誰も彼もの思慮も奸計も無視して叫ぶ声。全員の視線が、一斉に声の主へと向いた。
トバリもまた同じく。視線の先――ヴィンセントに肩を借りたクオリ・アリア・リーデルシュタインが、これまでに見たこともない鬼気迫る形相を浮かべて、金髪白衣の少女を睨みつけている。
身体の彼方此方に裂傷や擦り傷を負い、その痛むであろう身体で奮い立って、青髪の女は烈火の如く声を上げた。
「――パラケルススッ!」
名を、叫ぶ。
同時に、少女の姿が掻き消えた。傍らにいたヴィンセントがぎょっと目を剥いている。だがそれはトバリとて同じこと。
まるで何が起きたのか、鍛え抜いた動体視力を持つトバリにしても捉えることができず、咄嗟に周囲に視線を巡らせて――
「……何の冗談だよ、そりゃ」
青い影を見つけ、トバリは今日何度目とも知れない乾いた笑いを浮かべながら、そう小さく零す。
頭上。
天井すれすれの高さに、彼女はいた。
青い髪を翻し、黒装の外套をはためかせ。
その背に――鋼鉄の大翼を広げたクオリ・アリア・リーデルシュタインの姿があった。
マンマシーン・インターフェイス。彼女の姿を見てその言葉が脳裏を過ぎった。
センゲが宿す〈循血機関〉に似た、鋼鉄と蒸気機関の機械。それを背に宿したクオリの姿は、まさに先ほどセンゲが口にした姿そのものだった。
ガチャリガチャリとその身の丈以上に長大な双翼を広げ、殺意宿る双眸が金髪の少女を捉えていた。
「姉さんを、返せぇぇぇぇっ!」
両手に二挺の機関式小銃を携え、クオリの身体は一気に急降下する。彼女の身体が宙空を素早く滑空し、旋回し、小刻みに軌道を変えて標的へと迫る。その姿はまるで飛燕の如し!
そして、
「――ボクを無視するなよ、オネーサン」
クオリと金髪の少女の間に立ちはだかるは、その背に四枚の大刃を構えた《心臓喰い》。
その口元を喜々と三日月に歪め、彼女はげらげらと哄笑する。
「くははっ! やっぱ良いモノ持ってんじゃんかよ! 出し惜しみは良くないぜ!」
声を上げて、《心臓喰い》はその背の大刃を一斉に閃かせた。やはり――速い! 残像すらも残さぬ高速の四刀斬撃が、縦横無尽にクオリへと襲い掛かる!
「邪魔をするな!」
迫る刃を前に臆することなく、クオリは声を上げて四方から迫る大刃の剣舞へと飛び込んだ!
剣閃と剣閃の僅かな間隙を縫うようにして、青い疾影が大刃の間をすり抜けていく!
「なんと見事な……まるで演劇を見ている気分だ」
怪物たちが織り成す超高速の工房を目の当たりにし、ヴィンセントが苦笑と共にそう零す。その言葉には何処か納得ができた。
そう、演技ならば。演武ならば。今目の前で繰り広げられた攻防は、筋書きがあっての動き――故に、回避できて当然となるだろう。
だが、そうではない。
目の前で繰り広げられているのは、まごうことなき現実。命のやり取りを前提とした、殺し合いの一幕である。
とんでもないものを見せられた気分だ。ただただ〝見事〟の一語以外、賞賛の言葉は出てこない。
例えそれが、|その身に蒸気機関を宿した者たちの戦い《、、、、、、、、、、、、、、、、、、》であろうともだ。
(まったく……次元が違い過ぎだろ)
トバリは内心舌を巻いた。
鋼鉄の――蒸気機関でできた怪物。レヴェナントと戦うことには慣れているつもりではいた。だが、いざ|人でありながら人を超えた存在の戦いを目の当たりにしてみれば、結果は一目瞭然である。
まだ、遠く及ばない。
今の自分では――異能持たざるツカガミ・トバリでは、レヴェナント《心臓喰い》には到底敵うことはないと思い知らされる。
だが、そんなトバリでも判ることがあるとすれば、それは二人の――クオリ・アリア・リーデルシュタインとトガガミ・センゲの力量差か。
初動ならば、確かにその実力は拮抗しているように見えた。だが、それは本当に最初の一合だけだ。
あとはもう、目に見えてクオリが劣勢に立たされ始めていた。
それは当然だ。トガガミ・センゲは殺戮の権化。数多の戦場と死線を超えた、戦いと殺しの天才である。そしてその才能を遺憾なく発揮し、成長し続けて来たセンゲが相手では、分が悪過ぎる。
「そらそら、どうしたんだいオネーサン! さっきまでの勢いは何処に行ったんだい?」
「く……邪魔だと……!」
「言っただけじゃ駄目さ。ちゃーんと実力を示さなきゃ、思う通りには行かない! それが世の中、それが殺し合い! 自分の意見を通したきゃ、相手の意見を問答無用で屠殺しなくっちゃさ!」
苦渋に顔を歪めるクオリに対し、センゲはゲラゲラと笑いながら大刃を振り回す。いや、それだけではない。その両手と両足を鮮血の異能に染めて、爪撃、腕撃、脚撃と、四刃連舞に混ぜて攻め込んでいた。
ただでさえ凶悪な武器と強烈な威力を誇る攻撃が計八つ。如何な達人でもあれを捌き切るには頭も手足も足りな過ぎる。
クオリはどうにかセンゲに反撃しようと銃を構えようとするが、それを許すほどセンゲは易しくないのである。
戦いは完全に、センゲの独壇場だった。
過程も結果も約束された、《心臓喰い》の勝利が描かれる舞台そのもの。
この状況をひっくり返す術があるとは思えない。
故に――結末は決まっている。
「つーかーまーえーたっ」
鮮血に染まったセンゲの腕が、クオリの鋼鉄の翼を?んだのは、まさにその瞬間だった。そしてにっかりと笑いながら不吉な科白を零したセンゲが、思い切りクオリを地面へ引き摺り下ろす。
「ぐぅっ!」地面に背を叩きつけられたクオリが苦痛に顔を歪めるが、息つく間もなくセンゲがクオリの身体を再び持ち上げて、宙吊りにし――
「さーて。オネーサンは何処まで耐えられるかな? せめてトバリ並みには耐えてくれよ?」
そう言うと同時、センゲはクオリの身体をひょいと――まるで小石を放り上げるような仕草で宙へと投げ上げて、
「せりゃっ!」
裂帛の気迫と共に、四刃を大きく翻した。クオリの双眸が恐怖で大きく見開かれる。防御も回避も、あの状態ではまず不可能だ。
「……ったく、莫迦が!」
舌打ちをするトバリと、クオリを吹き飛ばしたセンゲが同時に動く。
全力を込めると言わんばかりに跳躍するセンゲ目掛け、トバリが鎖を投擲した。鎖は意志を持ったように虚空を踊り、鎖がセンゲの足を捉え――牽曳。全身全霊で引く。
「うわっ!?」
飛び上がったセンゲの身体が傾いだ。飛翔した最中に下から引っ張られて体勢を崩す。空中で無防備になったところを狙って短剣を投擲し、同時に疾駆する。
落下するクオリをギリギリのところで受け止め――同瞬、左腕に痛みを覚えた。見れば寸前に投げ放ったはずの短剣が浅く突き刺さっている。その肩越しの向こうには、センゲが悪辣に笑う姿。
どうやらこっちが投げた短剣を受け止め、返す刀で投擲したらしい。
(やってくれるぜ、ホント)
その圧倒的な戦闘技能に、胸中で舌を巻く。
「おいおいトバリ。女の子庇って怪我するなんて、男前じゃん?」
「怪我させた本人も女だから、差し引きゼロだろ」
邪鬼の言葉に皮肉を返しながら、クオリを庇うように残った短剣を手にゆらりと立つ。
「……センゲ、お前は一体何がしたい?」
「さあね。聞きたきゃボクのご主人様に訊いてみろよ。答えてくれるかは判んないけどねー」
「ならば――私が訊ねよう」
かつんと、ステッキが硬い床を叩く音と共に。気づけば、片腕を痛めたままヴィンセントがいつの間にか傍らまでやって来ていた。
彼の猛禽の如き眼差しが、じっと金髪の少女を見据える。
「初めまして、と言っておくべきかな。ホーエンハイム・インダストリー最高経営責任者、ティオフィス・ホーエンハイム。それとも、こう言うべきだろうか――」
ヴィンセントは金髪の少女――彼の言う通りならば、あのホーエンハイム・インダストリーの最高経営責任者たる人物を睨みつけながら、言った。
「――久しいな、我が古き同胞。パラケルスス」
――パラケルスス。先ほど、クオリも口にしていた名前だ。それは何処かで聞いたことがある名だった。
(……いや待て。今、ヴィンスはなんて言った?)
寸前に、隣に立つ古の錬金術師が口にした科白を反芻する。
――久しいな、我が古き同胞。
古き同胞。
その言葉が意味するもの。それは、つまり――
トバリがその言葉に気づいたのとほぼ同瞬、ティオフィス・ホーエンハイムがうっすらと口元に笑みを浮かべた。
「ああ、実に久しぶりじゃあないか。我らが偉大なる三賢人。サン=ジェルマン伯爵よ。まだ壮健だったようだね。それで、今宵は何故此処に?」
「そこで倒れている女性の依頼でね。この工場を調べに来たのだよ」
ティオフィス・ホーエンハイム――否、パラケルススの言葉に、ヴィンセントはまるで気心の知れた友人と会話するかのように滔々と答える。
しかし、二人の間に朗らかな雰囲気はない。
二人の視線は酷く鋭く、敵意に似た雰囲気を纏っている。
ヴィンセントの科白に対し、パラケルススは絶対零度の視線と声音で問う。
「そんな言葉で、私が納得すると思ったのかな? 私は貴方に訊ねているのだ――何をしに来た、と」
「知れたこと。君の目的を阻むために」
初めから用意していたかのように。
あるいは、それ以外の科白など存在しないというように。
ヴィンセントは一言そう切り返す。
その言葉に、パラケルススもまた納得したように首肯した。
「そうだろうとも。そうだろうとも。貴方は、いつだって我々の邪魔をする。古来より続く我らが大望を、いつだって貴方は良しとしない……不思議なものだ。同じ錬金術師。同じ巡礼者でありながら、どうして我々の道は違えたのか」
「巡礼者であると言うならば、程度の差はあれ同意しよう。だが、君たちのそれは狂信だ。その狂気の如き信念が築くのは、ただただ破滅だけだ。ならば――私は喜んで嘗ての同胞と敵対するとも」
二人、交わす言葉。
二人の間でのみ通じる何か。
比喩と象徴的な言葉の連続で、内容の大半は理解できない。其処にどのような意図が組み込まれているのかは判らない。ただ一つ――パラケルススが敵であることに違いない、ということを除けば。
「トバリ――」
囁くような声と共に、ヴィンセントがするりと何かを掌に滑らせた。トバリはすかさずそれを霞め取る。
当時に、ヴィンセントが僅かに口の端を釣り上げた。
「――逃げるぞ」
そう、彼が宣言すると同時。かつん、と杖が力強く床を叩く。
地面に浮き上がる幾何学的円環型文様。炎の如き紅い輝きを放つ魔法陣――それは干渉術式が描く魔術の起動式!
そのことにトバリが気づくのとほぼ同瞬。凄まじい衝撃と共に、業火が眼前に広がった。
同時に部屋の彼方此方に浮かび上がる、同種の魔法陣。それらは最初の術式の発動に呼応するように、次々と連鎖起動し爆発していく。
(――この莫迦、部屋全体に干渉術式を展開してやがったな!)
恐らく、トバリがこの部屋に駆け付けた時にはもう、ヴィンセントは怪我をしたフリをしながらこっそりと干渉術式を展開していたいのだろう。
そして自分たちと、パラケルススやセンゲとの距離が開いたこの機を狙って発動したのだ。
爆発の勢いからして、この工場を容易く倒壊させることができる威力があると思っていいだろう。
これならば確かに。相手としても逃げる以外の選択肢はない。相手が相手だけにこの程度で死ぬとは思えないが、倒壊に巻き込まれればそれだけで面倒の種になる。追撃の心配はないだろうが……
「もう少しなんかあっただろ!」
「はっはっはっ! どうやら少しばかり威力が大きかったようだね――困った困った」
トバリの怒号に対し、ヴィンセントは呵々と笑いながら帽子を手で抑えながらこちらを振り返った。
二人の間には炎と亀裂。調整を見誤ったのかわざとなのかいまいち判別ができないが、とにかくトバリとヴィンセントの間には燃え盛る炎と、地面にできた巨大な亀裂があって近づくことができなかった。
「ミス・リーデルシュタイン嬢を連れて先に行け、トバリ」
「先にって――大丈夫なのかよ!」
「なーに、心配は不要だ。これでも長い時間を生きた魔術師であり、錬金術師だ。このくらいならどうにでもなる」
心配するトバリを余所に、ヴィンセントは非常に涼しげな表情で口の端を釣り上げて見せた。
「メモに指示がある。聞きたいこともあるだろうが、今は胸の内に留めてくれ給え」
「それでは」と言って、制止する間もなく、ヴィンセントは颯爽と踵を返し炎の向こうへと姿を消した。
視線を巡らせれば、センゲとパラケルススも姿を消していた。
残されたのは自分と、意識のないクオリ・アリア・リーデルシュタインだけ。
「……っざけやがってよー」
悪態を零し、トバリは辟易とした気持ちで項垂れ――そして溜め息を吐きながら口の端を釣り上げる。
(聞きたいことがあるだって? 当たり前だろうがくそったれが)
こうなったなら、是が非でも喋って貰う。
錬金術師の思惑も――
白衣の娘の言葉の意味も――
この青い髪の少女の見せたあの執念も――
一切合財余すことなく吐いて貰おう。そう心する。
「にしても……」
決意を胸に抱いたトバリは、そのまま視線を肩に担いだままの少女に向けた。
「……重いよ、こいつ」
呟かれた科白は、紳士とは程遠い最低の言葉だったが、咎める者は誰もいない。トバリは少女を担ぎ上げて、炎に包まれる工場から脱出すべく元来た道を走り出した。
そしてふと、先ほどヴィンセントから受け取ったメモを開き、中を読む。そこには、こう書かれていた。
――ベーカー街B211へ
と。




