美登里と恋の行き先
「美登里、用意はできたのかい?」
祖母の声が飛んできて、土御門美登里は鏡の前ではあ、とため息をついた。
手伝いの女の子が四苦八苦して美登里の着物の帯を結んでいる。
「お嬢様、出来ました、よくお似合いですよ」
と側で見ていたばあやが言った。
「そう?」
鏡に映った自分を見ても美登里はそれほど綺麗だと思わなかった。
祖母の靜香がいくら大枚はたいた高級な着物でも、着るのが自分では着物が気の毒だ。
身長が百七十近くあり、体重もその半分ほどある。
どこへ行くにも付添いがいて、車移動なので身体を動かす事もなく少しも痩せない。
何をするにも制限があり、自転車に乗るのさえ禁止されているし、包丁を持つ事も許されないのでもちろん料理も出来ない。
許されるのはマナー本を読む事と、楽器を演奏することだけだ。
要するに二十五歳の今になって出来るのがピアノを弾く事と魚を上手に食べられる事だけだ。
それもすべて土御門本家の次代に嫁ぐ為に。
その為に祖母が躍起になっているのを美登里は知っていた。
賢のお嫁さんが祖母の目標みたいだが、美登里自身は賢の事をあまり知らない。
子供の頃に一緒に遊んだ事はあるが、無愛想で楽しいと思った事もない。
浮遊霊を捕まえて遊ぶのが嫌だったし、賢がその時一緒にいたもう一人の女の子を気にしていたように思うからだ。
この間、本家へ行った時の帰りにその女の子、和泉に会った。
賢ちゃん、と親しげに言っていたので親交があるのだろう。
美登里はもっと和泉のような女の子の友達が欲しかった。だが祖母は和泉を土御門の下の方だから口をきくのも禁じた。誰と親しくするのも禁じられてきたので、美登里には友達がいない。
(私って…)と思うのだが、自分がどうすればいいのかも分からない。
「美登里、行きますよ。今日こそはきちんと結納の日取りを決めなくては、こんな…」
祖母、靜香の手には土御門神報が握られている。
それを読んだ時の靜香の慌てっぷりに家族中が苦笑した。
神報の記事の元総理大臣孫娘の存在が、美登里が本命だと自分で決めつけていた靜香の顔色を変えた。
「さ、行きますよ!」
靜香が顔を見せた。きりっと険しい顔で美登里の全身をくまなくチェックする。
自らも高級な着物に身を包んで、まるで出撃前の雰囲気だ。
嫌だ、と思ったが、そんな事はとても言えない。
賢に嫁ぐのも否応なしの決定事項だ。
恋をした事がない。誰かを好きになったりした経験がない。
楽しいとか、嬉しいとか思った事がない。
悲しいとか、辛いとか思った事もない。
だが、最近、少しだけ寂しいと思う。
このまま賢に嫁いで、跡継ぎを生んで、年をとっていくだけなのだろうか。
そんな事を思ってみても胸の内だけだ。とても言葉に出せないし、うまく説明も出来ないだろうと思う。そして、とてもこの祖母には分かってもらえないだろう。
本家が加寿子大伯母に逆らわないように、美登里の家でも誰も靜香には逆らわない。
「はぁ」と美登里はため息をついた。
「お邪魔しますよ」
靜香が玄関で声をかけた。
だが、本家の家の中はしーんと静まり返っている。
いつもならば女中頭の沢がすまして案内に出てくるのだが、今日は少し遅れて、若い手伝いの娘が走って出てきた。
「客様を迎えるのに、走って出てくるとは何事?!」
「も、申し訳ございません」
勝手知ったるという風に上がり込んで、ずかずかと家の中に入って行く。
大きな広間を覗いても誰もいない。
「おかしいわね。誰もいないなんて」
「皆様、ご祈祷に出ていらっしゃるのでは?」
と美登里が言った。
「それにしても朝子さんも姿を見せないなんて」
と言っていると、
「靜香伯母様!」
と声がして、朝子がやってきた。
「今日はどのようなご用ですか?」
と言ったその言い方が、歓迎されていない感じがしたので、靜香は眉をひそめた。
「用がなければ来てはいけないと言うのかい?」
「いえ、そういうわけでは…どうぞ、お座りください。すぐにお茶を、美登里さんもどうぞ」
靜香がソファに座ったので、美登里もその横に腰をかけた。
二人の前に朝子が腰を下ろし、
「美登里さん、今日はとてもお綺麗ね。お出かけでしたの?」
と聞いた。
「いいえ、今日こそは賢さんと美登里の婚約についてきっちり決めていただこうと思いましてね」
と靜香が言った。
「婚約?」
「ええ、これ、あなたもご覧になったでしょうね?」
靜香が土御門神報を出して、テーブルの上に置いた。その上をパシパシと叩く。
「この北山沙織さん? どういう方なのかい? 婚約者候補? 聞いてないねえ、そんな話は。お家柄はよいらしいけれど、当主の結婚相手は同門から取るのが決まりのはずだね? これに関して姉さんと雄一さんは何と言ってるの? 賢さんは? いるなら呼んでもらえるかい」
「賢兄は謹慎中だから出られません」
と声がして、陸が入ってきた。黒犬のジャッキーが尻尾をふりふりついてくる。生き物が嫌いな靜香が口をハンカチで押さえる。
「謹慎中?」
「ええ、広報部のパソコン五台、特注の強化ガラス、ドア、机、椅子、照明、天井を怒りに任せて壊しまくって、損害額が総額五百万円なり。で、謹慎中です。しかもこれ以上、土御門とはいえ、誰もかれも霊界に流されたらかなわないですから。靜香おばさんもその年で霊界に流されたら戻ってくるの苦労しますよ。これ以上、賢兄を刺激しないでください」
と陸が言った。
「どういう意味だね?」
「そのゴシップ記事を読んで、怒ってるのは靜香おばさんだけじゃないって事です」
「賢さんが怒ってるという事かい?」
「ええ」
「どこに賢さんが怒る理由が? 北山家のご息女もうちの美登里も結婚相手に不足はないだろう」
陸は肩をすくめた。朝子ははあっとため息をついた。
「賢兄に選択する権利はないんですか? 次期当主なのに、嫁さんを選ぶ自由もないんですか?」
「次期当主だからですよ! それなりの嫁が必要なんです」
「それなりの嫁ってなんです」
「それなりの格式を持つ家柄の娘ですよ。教養もマナーもある、当主を支えて尽くしていくような娘が必要なんです! そんな事も分からないのかい?」
「分かりませんね。賢兄の気持ちはどうでもいいんですか? それに美登里ちゃんだって好きな人と結婚したいんじゃないんですか?」
陸はちらっと美登里を見た。
陸の言葉に美登里はうなずきそうになったが、祖母が睨んでいるので、ただ黙って下を向いた。
「靜香伯母様、賢さんは心に決めた人がいるようですから、婚約の話は無理だと思います」
と朝子が言った。
「そんな甘い事を言って! これだから最近の若い人は! 土御門の先が思いやられるもんですよ! 美登里! 姉さんの所に行きますよ!」
祖母が立ち上がったので美登里も慌てて立ち上がろうとしたが、その拍子に紅茶のカップをひっくり返してしまった。
「あらあら、沢さん、拭いてさしあげて」
と朝子が言い、沢がキッチンへ布巾を取りに向かった。
「美登里さん、染み抜きをしてからにしましょう。伯母様はどうぞ先にいらしててください。お義母様がお待ちかねですわ。退院はしたものの、食事制限で退屈なさってますの」
靜香はぷりぷりと怒りながら広間を出て行った。
「やれやれ、困ったばあさんだ」
と陸が言い、大きくのびをした。
「すみません」
と美登里が言い、
「美登里ちゃんもちょっとは言い返したらいいのに。俺もさ、最近まで加寿子ばあさんにびびってたんだけどさ、最近、ちょっと賢兄を見習って言い返す修行してるんだ。言われっぱなしだと、それが正しいって相手に間違った認識を与えたままになる」
と陸が言った。