3. 不死
『炎を見据えろ! ギルヴェルクの肉体が焼かれることはない』
フェンリルの叫びが頭に響いた。
猛り狂う灼熱の嵐が、逆巻く紅蓮の炎が、わたしを呑み込み焼き尽くそうと向かってくる。
見据えるなんて無理だ。怖い、怖い、怖い。本能が怖いと叫んでいる。どれほど踏ん張っても脚ががくがくする。歯の根が合わない。砕けそうなほど奥歯を噛みしめた。
フェンリル、やっぱり無理……!
竜の炎がぶつかる瞬間は目をつぶってしまった。
熱いのに、なぜか熱くない。熱を孕んだ嵐が身体をすり抜けて行く感覚にうっすらと目をあける。炎に煽られ波打つ銀の髪が舞い上がるが、焼かれることはない。
『後ろだ!』
フェンリルの声が響いたその時、背中になにかが叩きつけられ、不意打ちに思わず膝から崩れ落ちた。背後から蒼黒い腕が腰に巻きついてくる。
「な……っ?」
「隙だらけだ、ヴァンパイア」
間近で乾いたように響く声が笑った。声の主は、そう軽くはないはずのギルヴェルクの身体を長い腕で易々と絡めとり、月に向かって跳ぶ。
怖くはない。竜の吐いた炎の息に比べれば、怖くはないのに、脚にも腕にも力が入らない。
遠くなる大地に金の双眼が光るのが視えた。
「フェン……」
……駄目だ。唇をきつく噛み締めた。彼はわたしがギルヴェルクのふりをすることを望んでいる。こんな時に助けを求めるのはギルヴェルクらしくない。
蒼黒い肌の男はわたしを左腕に抱えたまま、黒く煌めく竜の背にひらりと着地した。腕をふりほどこうともがくと、耳の上を右肘で容赦なく殴りつけられる。
「ぐっ」
頭蓋にひびが入ったんじゃないかと思うほどの衝撃があったけれど、痛みは鈍い。そのまま仰向けに転がされると裸の胸や腹、急所を堅い靴の踵で蹴りつけられた。やはり痛みは麻酔でもかけられたかのように鈍く、傷はすぐに治った。
「はっ、痛めつけがいのない男だ。再生直後の腑抜けでも、相も変わらぬ化け物ぶりだな」
嘲る声が頭上から降ってきたと思うとすぐに、背中がふわりと浮かぶ気配がした。冷たい風が頬を掠める。
ああ、竜が飛び立った。
フェンリル──彼と離ればなれになってしまう。
起き上がろうとしたところを脚で首を蹴られる。骨の折れる厭な音がした。
「ふつうならこれで死んでいるのに、気持ちが悪い奴」
男が呟く。
気持ちが悪いんなら、やるなよ。
さすがに首をへし折られると、不死身の身体もすぐには動けないらしい。つま先でひっかけるように転がされ腹這いになると、背中に馬乗りにされた。背後から乱暴に顎を上向かされ、首元にひやりとした堅い感触とともに鈍い金属音が響く。男の喉がくくっと鳴る。
「魔力を封じる首輪だ。あの悪辣高名なギルヴェルクに隷属の環とは! これで貴様は私の奴隷だ」
「ぐ、ふッ」
首輪が後ろにひかれると、否応なく喉が圧迫され妙な声が出る。じゃらりと、重い鎖の擦れる音がした。
奴隷だなんて。どうして、こんな目に遭うんだろう。涙が滲んできた。わたしはギルヴェルクじゃないのに。
帰りたい。うちへ帰りたい。日本へ帰りたい。
元の世界へ帰ったら、すぐに帰省しよう。お母さんに逢いたい。お父さんに、お兄ちゃんに、逢いたい。元の世界のわたしの身体はどうなっているんだろう。みんなに心配かけているんだろうか。どうして、いままで家族のことをほとんど思い出さなかったんだろう。ここに来てから、おかしい。ずっと、なにかがおかしい。
耳許で風が鳴る。竜の皮膜のある大きな翼の向こうに見えるのは、草も木もない荒野だ。荒野の遥か先に高く盛り上がった月光に輝く山が見える。裾野の広い、左右対称の見慣れた美しいかたち。
まるで──富士山のような。
山頂にうっすらと積もる銀雪。なだらかな傾斜のライン。
「う、そ……富士」
「なにが嘘だ、再生で頭がいかれたのか?」
見あげると蒼黒い肌の男が大きく声をあげて嗤った。
「不死以外にあんな形の山があるものか」
その頭からは細く長い二本の角が伸びていた。