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MISSION 01:FIRST LIGHT 『夜明けの五機』

戦争が終わると告げられても、滑走路から灯りが消えることはなかった。


夜明け前のヴァレント空軍基地。


格納庫では整備員たちが最後の確認を進め、誘導路には夜間任務を終えた航空機が戻ってくる。


ウェラン共和国とタヴレン連邦の停戦協定は、既に成立している。


発効まで、残り二日と数時間。


その間も前線は動き続け、南部から東部へ延びる補給路には、守るべき人々が残されていた。


第17戦術戦闘飛行隊《MORROW》。


レナード・ヘイル中佐が率いる五機のユーロファイター・タイフーンに、新たな任務が与えられる。


目的地、カストラ航空基地。


命じられたのは、五機を現地へ送り届け、前線の防空任務に備えること。


01、02、03、04、05。


五つの機番が、出発を待っていた。


昨日までと変わらない朝が来る。


戦闘機を送り出す者たちがいて、その機体に乗り込む者たちがいる。


誰も、特別なことを口にはしない。


彼らにとって、今日もまた飛ぶべき日なのだから。


『FINAL VECTOR』


MISSION 01:FIRST LIGHT


──夜明けの五機。

 午前五時十二分。ヴァレント空軍基地の駐機区画は、まだ夜の底にあった。


 夜のうちに降った雨は上がっていたが、コンクリートの継ぎ目には細い水溜まりが残っている。作業灯に照らされた舗装面を、整備員の軍靴が横切った。低光沢のダーク・スレートグレーに塗られた五機のユーロファイター・タイフーンが、その向こうで同じ方角に機首を揃えている。垂直尾翼の低視認のワタリガラスは、照明が当たらなければ外板の色に紛れて見えなかった。


 主翼の下から点検灯が引き抜かれ、工具を収めた金属箱の留め具が鳴った。少し離れた場所では、給油を終えた車両が誘導員に従って後退している。地上電源車の唸り、無線から漏れる短い呼びかけ、タイヤが濡れた舗装を踏む音。ここでは、五機が飛ぶための仕事が、操縦士たちの手の届かないところでも続いていた。


 カラム・リード大尉は、02番機の右主脚の前で腰を落としていた。


 傍らには、五時前にも話した担当整備員が立っている。昨日の朝、夜勤を終えたばかりの顔で迎えてくれた男だった。今朝は目元の疲れが幾分薄い。擦り切れかけた手袋だけは替えていないらしく、端末を持つ指先の縫い目が白く見えた。


「右主脚のタイヤは、昨日の昼間の班で交換しています。記録はこちらです」


「昨日の整備でか?」


「はい。摩耗が進んでいたので」


 表示された交換記録を読み、カラムは目の前のタイヤへ視線を戻した。トレッドにはまだ使用による荒れがほとんどない。ホイールの縁や周囲の配管にも、外から分かる異常は見当たらなかった。


「綺麗なもんだ」


「新品ですからね」


「俺の着陸が荒かったと?」


「そんなこと、一言も申し上げてませんよ」


「顔に書いてある」


「気のせいです」


 整備員は端末を抱え直した。笑いを隠すつもりらしいが、口元が既に緩んでいる。


「できれば今度は、もう少し優しく降ろしてください」


「やっぱり思ってたんじゃないか」


 二人は笑った。昨日の朝、疲れの抜けないまま交わした冗談と大して変わらない。それでも今は、男の顔を確かめるのにコーヒーを必要としなかった。


 カラムは立ち上がり、機首側面のセンサーから前脚、胴体下面へと点検を続けた。左右のエアインテークに異物がないことを確かめ、主翼下面の増槽と搭載品の状態を確認する。外板に残る補修跡には見覚えがあった。機体を預けたあと、どの班が何を確かめたかは記録を開けば分かる。しかし、作業を終えて引き渡されるまでに何人の手が触れたのか、そのすべてを数えることはできない。


 先ほど整備員に、この機体を大切に飛ばすと約束した。


 今から自分がするのは、その約束を果たすための仕事だった。


「燃料は計画どおりです。代替飛行場へ向かう余裕も確保しています」


「ああ。向こうが使えなければ北西へ回る。昨日の計画どおりだな」


「はい。記録上の不具合も残っていません」


 男は02番機の機首を見上げた。点検灯を持った別の整備員が、後方で脚立を片づけている。出発準備の終わった場所から、一つずつ人影が減っていった。


「現地の整備班にも、よろしく伝えてください」


「分かった」


「あと、無茶な飛び方はしないでくださいよ」


「それは敵に言ってくれ」


「相変わらずですね、大尉」


「そろそろ覚えてくれたか?」


「ええ。大尉が簡単には言うことを聞かない人だってことは」


 カラムは笑い、手袋の擦り切れた指先へちらりと目をやった。昨日も今日も、この男は同じように02番機を送り出そうとしている。帰ってきたらまた点検させてほしいと言った声を、忘れるつもりはなかった。


「じゃあ、乗るよ」


「はい。お気をつけて、大尉」


 カラムが梯子の方へ回りかけたところで、右手から声が飛んだ。


「ブック!」


 隣の03番機の傍らに、エリオット・マーサー大尉が立っていた。ヘルメットを片手に提げ、もう一方で機体の外板に触れている。担当整備員と何か話していたらしく、その男が先に笑い、エリオットがこちらを見た。


「そういや、お前、朝飯はちゃんと食ったんだろうな?」


「食ったよ」


「何を?」


「卵とパン。あとコーヒー」


「コーヒーだけじゃないだろうな?」


「今、卵とパンって言ったろ」


「昨日の朝はコーヒーだけだった奴だからな。信用ならねえ」


 エリオットが腕を組んだ。03番機の整備員は端末へ顔を戻しているが、会話が聞こえていないわけではなさそうだった。


「お前は俺の母親か」


「違うな。母親だったら野菜も食えって言う」


「それ、お前が今言ったよな」


「じゃあ昼はちゃんと食えよ」


「話を聞け」


 エリオットは満足げに笑い、整備員から渡された記録へすぐ目を落とした。軽口を続けながらも、確認のために動かしていた指は止まらない。飛行前の点検を雑談の片手間に済ませるつもりはないのだろう。カラムは、その切り替えの早さを士官学校の頃から見てきた。


「パッチ。お前もちゃんと休んだのか?」


「休んだよ。美しい顔に睡眠不足は大敵だからな」


「そこは否定しない」


「だろ?」


「厚かましいところもな」


「おい」


 言い返す声を背中で聞きながら、カラムは02番機へ向き直った。


 01番機では、レナード・ヘイル中佐が整備員の報告を聞いていた。相手が最後まで話し終えるのを待ってから、端末に目を落とし、機体へ視線を上げる。第17戦術戦闘飛行隊を率いる四十六歳の男は、出発の日だからといって振る舞いを変えなかった。


 昨日、執務室で聞いた言葉が頭をよぎる。


 五機とも、現地へ届けよう。


 任務の説明を終えたあと、レナードはそう言った。無事を保証するための言葉ではない。五機で出発し、五機で到着する。そのために必要なものを、全員で揃えろという指示だった。


 レナードが顔を上げ、カラムを呼んだ。


「リード。現地基地の進入経路、変更は確認したな」


「はい。西側誘導路の一部が使用制限中です。着陸後は東側へ回される可能性があります」


「よろしい。向こうは交通量が多い。管制の指示をよく聞け」


「了解しました」


 レナードは頷いた。受け取った書類を整備員へ戻す動きに、急ぐ様子はない。昨日の会議でも、確認が必要なところでは時間を掛け、決まったことを何度も蒸し返すことはしなかった。カラムが自分の担当作業を抱え込もうとしたときだけは、少々しつこかったが。


「マーサー。リードと喋っている暇があるなら、自分の機体を見ろ」


「見てますよ、中佐。もう惚れ惚れするくらいに」


 エリオットは03番機へ片手を広げた。わざとらしい仕草に、整備員が視線を下げる。


「その惚れた機体で予定どおり飛んでくれれば、私は何も言わん」


「了解」


 レナードは短く息を吐き、残る二機へ目を向けた。04番機のアドリアン・ヴァレラ中尉は、担当整備員が示す記録へ視線を落としている。隣の05番機では、ルーカス・モレイラ少尉が片手で何かを説明していた。アドリアンが顔だけを向けて一言返すと、ルーカスの眉が跳ね上がる。遠くて声は届かなかったが、大体の内容は想像がついた。


「朝から元気な奴らだ」


「いつものことでしょう」


「それもそうだな」


 中佐は僅かに笑った。


「向こうへ着いたら、休む暇もないかもしれん。余計なことをせず、予定どおり飛べよ」


「了解です」


 レナードが01番機へ戻ると、カラムは梯子へ足を掛けた。


 操縦席(コクピット)へ身体を滑り込ませる。タイフーンの単座席は、外から見るよりも狭かった。射出座席の両脇にコンソールが迫り、正面には三面の多機能表示器が並ぶ。その上に広角のヘッドアップディスプレイ。膝の間に操縦桿(スティック)、左手の位置には二基のエンジンを操作するスロットルがある。手を伸ばす前から、何がどこにあるか分かっていた。


 整備員の補助を受けながらハーネスを締め、耐G装具と酸素系統を接続する。肩のベルトを引くと、身体が座席の奥へ押し戻された。ヘルメットを被り、マスクの密着を確かめる。呼吸に合わせて弁が小さく鳴った。


『通信、聞こえますか』


「ああ、良好だ」


『こちらも良好です。装具の確認を続けます』


「頼む」


 整備員は接続箇所を一つずつ確かめた。手元の確認を終えると、カラムが見える位置で親指を立て、梯子を降りていく。肩の向こうへその姿が消えるまで待ってから、カラムは表示器へ目を戻した。


 航法装置に登録された経路は昨日の最終計画と一致している。燃料量も、予備の着陸先も問題ない。既に誰かが済ませた照合を、自分の手でもう一度全部やり直す必要はない――昨日はそう教えられた。それでも操縦士として確かめるべき数字は、今ここで確かめる。


 確認を進めるうち、机に置いてきた文庫本を思い出した。


 帰る場所を探して旅を続ける男の話だった。昨夜は知らない町の宿を見つけるところまで読んで、栞を挟んだ。端末にはエリオットからの短いメッセージが残っていた。返事を打ちかけたが、彼の言うとおりに寝た方が早いと気づいてやめた。


 その判断は正しかったらしい。今朝は身体が軽い。夜のうちに十分休めたからといって、戦争そのものの疲れが消えるわけではないが、少なくとも眠気に逆らって飛ぶ必要はなかった。


 カラムは膝の上の資料へ一度目を落とし、決められた項目を終えると脇へ収めた。余分な確認を増やさずに済むことも、慣れれば悪くない。


 機首の前にはマーシャラーが立っている。蛍光色のベストを着込み、両手に発光式の誘導棒を持った地上要員だった。朝の暗さの中では、棒の赤い光が濡れた地面にまで伸びて見える。


『モロー各機、始動準備を確認しろ』


 レナードの声が、ヘルメットの内側へ落ちてきた。


「モロー・ツー、準備完了」


『モロー・スリー、準備完了』


『モロー・フォー、準備できています』


『モロー・ファイブ、準備完了です』


『了解。地上の許可を待て』


 やり取りは短かった。全員の声が揃っていることに安心する時間さえ、無線の上では必要ない。地上管制との交信が終わり、エンジン始動の許可が伝えられた。


 マーシャラーが左右を確認した。機体の周囲にいた地上要員が安全な位置まで退き、一人が後方を指さして合図する。カラムは始動するエンジンを示し、相手の応答を待った。誘導棒が頭の横で円を描く。


 始動。


 所定の操作を行うと、補助動力装置の甲高い音に続き、最初のEJ200が回り始めた。細く乾いた唸りが太くなり、座席の背から微かな振動が伝わる。表示器の数値は順調に動いていた。回転数、温度、油圧。目を走らせるたび、エンジンが正常な作動域へ近づいていることが分かる。


 一基目が安定すると、地上員との確認を経て二基目を始動する。左右から異なる振動が重なり、やがて一つの低い唸りになった。後方の排気が作業灯の輪郭を揺らし、遠くの人物を熱の向こうで歪ませている。


 飛行制御系統の点検では、操縦桿とペダルへ所定の入力を与えた。外側で監視する整備員が、カナードと主翼後縁の操縦翼面の動きを確かめている。数秒後、異常なしの合図が返った。


 キャノピーを閉じる。


 外の空気が遮られた。工具の音も地上員の声も遠のき、耳に残るのはエンジンと通信の音だけになる。機体から降りたあとには思い出しにくいほど小さな振動が、背中と太腿を通して伝わっていた。


『モロー各機、状態を報告しろ』


「モロー・ツー、異常なし」


『モロー・スリー、異常なし。機体も操縦士も絶好調』


『モロー・フォー、異常ありません』


『モロー・ファイブ、異常なしです』


 カラムはエンジン表示から視線を上げた。03番機の風防の内側にいるエリオットは、ここからでは顔の向きまで分からない。だが、あの声を出すときの表情は見なくても想像できた。


『了解。スリー』


『はいよ、ワン』


『操縦士の調子は聞いていない』


『そりゃ失礼しました』


「聞いたか、パッチ。余計な報告は要らないそうだ」


『ブック、お前だって元気そうじゃねえか』


「俺は機体の報告しかしてない」


『朝飯食ったからって調子に乗るなよ』


 カラムはマスクの下で口元を緩めた。話している間も03番機の整備員は機体の周囲を監視し、別の機体では地上員が工具を片づけている。彼らにはこちらの冗談など聞こえない。それぞれに自分の仕事があるのだ。


『お前たち』


 レナードが割って入った。


『無駄口は地上でやれ。これから五機で飛ぶんだぞ』


『了解、ワン』


 エリオットはすぐに真面目な声へ戻った。カラムももう一度燃料と航法表示を確かめる。おかしな話だが、こうして一言注意されると、むしろいつもの朝だという実感が湧いてきた。


 マーシャラーから出発準備の合図が届いた。カラムはブレーキを保持していることを示し、車輪止めの撤去を求める所定の手信号を返す。地上員がタイヤの前後へ近づき、黄色い車輪止めを引き抜いた。安全な位置まで退いたのを見てから、誘導員が撤去完了を知らせる。


 地上器材の接続は既に外されていた。最後に残っていた整備員が機体の側面を確かめ、マーシャラーの後方へ下がった。


 先ほどタイヤの話をしていた男だった。


 彼は一度02番機を見上げ、右手を挙げた。カラムも短く応じた。別れの言葉をもう一度交わす必要はない。その顔が今朝と同じように落ち着いていることを見て、前へ向き直った。


『モロー・ツー、ヴァレント・グラウンド。誘導路アルファ経由、滑走路27手前まで地上走行を許可する。滑走路手前で待機』


「モロー・ツー、アルファ経由、滑走路27手前まで。待機を了解」


 マーシャラーの二本の誘導棒が前進を示した。


 ブレーキを緩め、スロットルを僅かに進める。タイフーンが転がり始め、前脚(ノーズギア)のタイヤが舗装の継ぎ目を越えた。背中に細かな振動が届く。機首をゆっくり誘導線へ合わせる間、左右の地上員が翼端と障害物の距離を見ていた。カラムは相手の合図を追いながら、必要な分だけ前脚操向を使った。


 減速の誘導棒に応じ、僅かにブレーキを当てる。車輪が滑らかに向きを変え、機首が黄色い線へ揃う。進行方向を示したマーシャラーが脇へ退き、敬礼した。カラムは片手を上げて答礼し、そのまま誘導路へ進んだ。


 01番機が前を走っている。間隔を保って後ろにつくと、青い誘導路灯が濡れた舗装を細く照らしていた。防護掩体の前では別の飛行隊の整備員が作業を続け、牽引車が一機のタイフーンを格納庫へ運んでいく。朝の飛行を終える機体もあれば、これから滑走路へ向かう機体もある。


 昨日も、ここでは同じことが起きていた。


 自分たちが離れても、ヴァレントの任務は続く。残る航空機は防空の即応待機を担い、地上員は帰投した機体を次の飛行へ送り出す。五機が前線へ動くことは、この基地に空いた場所が五つできるという意味でもあった。


 カラムは一度だけ格納庫へ目を向け、先行する01番機へ視線を戻した。


 これまで、飛び立つ仲間を何度も見送った。今日はこちらが出ていく番だった。


 滑走路27の手前で01番機が停止する。カラムも間隔を取って停まり、離陸前の項目へ目を走らせた。速度表示、航法、飛行制御。HUDの向こうには滑走路の灯火が一直線に並んでいる。


『モロー・スリー、待機位置到着』


『モロー・フォー、待機位置到着』


『モロー・ファイブ、同じく。異常ありません』


 後続からの報告を、レナードが受け取った。


『離陸後は指定高度まで上昇し、予定空域で合流する。各機、先行機との間隔を保て。急ぐ必要はない』


「ツー、了解(ウィルコ)」


『スリー、了解(ウィルコ)』


『フォー、了解しました』


『ファイブ、了解です』


 01番機が滑走路へ進入していく。機首が西を向き、白い中心線の上で停止した。地上走行中のレナードは、旋回にも停止にも余分な修正を残さない。地上でそれができる者は、空でも無駄な動きを嫌う。


 あの人は今日も先頭を飛ぶ。


 昨日も、その前の日もそうだった。明日も同じ位置にいるのだろうと、誰もが当たり前のように思っている。


『モロー・ワン、風260度、六ノット。滑走路27、離陸を許可する』


『モロー・ワン、滑走路27、離陸する』


 01番機のエンジン音が高まった。タイフーンが滑走を始め、白い中心線を後ろへ送っていく。加速につれて輪郭が小さくなり、やがて機首が持ち上がった。前脚が離れ、主脚(メインギア)が一瞬遅れて浮く。脚を格納する灰色の機影が、低い雲の下へ伸びていった。


 次は自分の番だった。


『モロー・ツー、滑走路27、進入して待機』


「モロー・ツー、進入して待機」


 誘導路から滑走路へ入ると、黄色い線が白へ変わった。機首を中心線へ合わせ、停止する。滑走路の先まで見通せること、警告がないことを確かめ、カラムはスロットルに左手を添えた。右手は操縦桿へ置く。


『モロー・ツー、風260度、六ノット。滑走路27、離陸を許可する』


「モロー・ツー、滑走路27、離陸する」


 二基のEJ200が唸りを強めた。推力とエンジン表示を確認してブレーキを解放すると、機体が前へ押し出される。背中が座席へ沈み、舗装の継ぎ目を拾う振動が速くなった。滑走路の標識は次々に風防の下へ流れ、端に並ぶ灯火が細い線のように過ぎていく。


 HUDの数字が順調に変わる。所定の速度域へ入ったところで、カラムは滑らかに操縦桿を引いた。機首が上がり、滑走路の遠端が視界の下へ沈む。前脚が浮いた。主脚が最後の一瞬だけ機体を支え、それから舗装の震えが途切れた。


 浮いた。


 上昇を確かめ、脚を格納する。車輪が収まると機体の動きが僅かに軽くなった。カラムは推力と姿勢を整え、管制から指定された針路へ向けて旋回を始めた。


 翼を傾けると、水平線がHUDの向こうを回る。旋回荷重が身体を座席へ押しつけ、左の翼下にヴァレントの掩体と長い並行誘導路が見えた。作業灯の残る駐機区画は、もう機体の細部を見分けられない距離にある。


 朝日が東の雲を明るくし始めていた。


 カラムは指定針路へ機首を向け直す。前方に01番機が見えた。相対位置と速度差を確認し、接近率を早めに落としていく。必要以上に追いかければ、今度は位置を戻すための修正が増える。間隔を詰め、少しずつ動きを合わせる。最後にレナード機の左後方へ収まった。


「モロー・ツー、位置についた」


『了解(ラジャー)、ツー』


 続いて03番機が近づいてきた。エリオットは速度差を適切に減らし、所定の位置へ滑らかに収まる。無線では朝食の心配ばかりしていた男が、今は短い交信だけで機体を運んでいる。必要な修正を遅らせず、かといって急ぎすぎない。それがこの男の飛び方だった。


『モロー・スリー、位置についた』


 そのあとへ04番機、05番機が続いた。


『モロー・フォー、合流完了』


『モロー・ファイブ、合流完了です』


 各機の位置が整う。カラムは左後方を確認し、前を向いた。


『モロー各機、合流を確認。これより予定経路へ移行する』


 五機のタイフーンが針路を揃えた。


 低い雲の上面へ朝日が差し始め、先頭の01番機の翼を薄い金色に染めた。カラムの風防を光が横切り、その向こうでエリオット機の輪郭がくっきりと浮かぶ。


 昨日の朝も、空はこうして明るくなった。


 眼下の海も、光の色も変わらない。ただ今日は、五機とも同じ方角へ向かっている。


 第17戦術戦闘飛行隊《MORROW》は、ヴァレントを後にした。


 雲の切れ間から、ウェラン南部の海岸線が見えた。


 入り江の縁に町があり、細い道路が畑を分けながら内陸へ続いている。白い壁の住宅が丘の斜面へ並び、港には数隻の船が停泊していた。沖合を航行する貨物船が、青黒い水面へ細長い航跡を引いている。こんな高度からでは人の姿は見えない。道路を走る車の種類も、家の窓が開いているかどうかも分からなかった。


 それでも、昨日のブリーフィングで見た映像は覚えている。


 南部の幹線道路に連なる避難車両。立ち往生した一台を先頭に、橋の向こうまで続いていた渋滞。大型バスの窓際には人影があったが、車内でどんな話が交わされていたのかまでは、上空から撮られた映像には残らない。


 あの車列は、今朝もどこかを走っているはずだった。


 停戦協定は既に成立している。発効は二日と数時間後の正午。その時点の接触線が暫定的な境界線となる以上、両軍の地上部隊がそれまでの時間をどう使うかは分からなかった。カラムたちが向かうのも、南東方面の道路と地上部隊を守るためのカストラ航空基地だ。


 眼下の海が光った。船の航跡が朝日に重なり、揺れる水面へ白い筋を残している。


 戦争の始まる前、カラムはこの海を見下ろすのが好きだった。船乗りの父が、帰宅するたびに海の話をしてくれたせいかもしれない。寄港した町の朝市、長い航海で遭った嵐、何も見えない水平線。弟のエリアスはその話を聞くたびに目を輝かせ、いつか自分も船に乗りたいと言っていた。


 自分は空を選んだ。


 どうしてだったかと考えると、海を上から見てみたかったから、としか答えられない気がする。三十一歳になった今では、随分と呑気な理由に聞こえた。


 昨日、エリアスから届いたメッセージを思い出した。


 停戦のニュースを見たこと。母親も知っていること。落ち着いたら連絡をくれ、と普段どおりの調子で書いてあったこと。


 カラムは母への伝言を頼み、最後にグリのいたずらを心配する文を付け加えた。あの落ち着きのないゴールデンレトリバーが自分の部屋を荒らしていないか、と。


 返事は、もう遅い、の一言だった。


 笑いを堪えながら、カラムは航法表示へ目を戻した。帰れば床には何かが散らばり、エリアスは大したことじゃないと言い張るだろう。母も犬を庇うに違いない。庭にはウルソが寝そべっているはずだった。家族の誰もが、帰ってくる日をまだ知らない。それでも、帰る家の様子だけは不思議なくらい鮮明に想像できた。


 燃料消費は計画の範囲内だった。速度も高度も安定している。カラムは前方の01番機との間隔を確認し、編隊の小さな修正に合わせてスロットルを動かした。


 海岸線が後方へ遠ざかる。内陸には低い丘陵が連なり、畑の間を縫う道路が山あいへ消えていった。遠くの集落から上がる白い煙が、風に押されて横へ流れている。煙突の煙かもしれない。焼却炉の煙かもしれない。どちらなのかは、ここからでは分からなかった。


 カラムは再び01番機を見た。


 レナードはいつもの位置にいる。


 これまで何度も、別の基地へ飛んだ。使った飛行場の数を、今では正確に思い出せない。帰ってこなかった操縦士の名前なら覚えている。最後に何を話したかさえ、時々思い出す。


 食堂のコーヒーが不味いと文句を言っていた男。娘の写真を見せてくれた男。休暇になれば釣りに行くと話していた男。顔も、声も覚えているのに、その日が何曜日だったのかは分からなかった。


 目の前の01番機は、今日も同じように飛んでいる。


 その機影を確かめると、カラムは無意識に肩の力を抜いていた。自分でも気づいて苦笑する。三十一にもなって、士官候補生だった頃のように隊長の背中を頼りにしている。


『ブック』


 編隊内の周波数に、エリオットの声が入った。カラムは思考を切り替え、右後方の03番機へ一度目をやる。


「どうした、パッチ」


『向こうの飯、まともだと思うか?』


 カラムは返事をする前に、HUDの速度を確かめた。もちろん異常はない。それでも、今この話題が出てくるとは思わなかった。


「……お前、飛んでる間もそれか」


『重要だろ。向こうで何日過ごすかも分かんねえんだぜ』


「そこは同意するが」


『だろ?』


「食堂の味まで心配してどうする」


『悲観したって飯が美味くなるわけじゃねえし』


 呆れながらも、カラムは口元を緩めた。昨夜、戦争が終わったら飯を奢れと言った男である。そもそも昼食のことを考えていない方が不自然なのかもしれない。


「現地の食堂の味なんか、俺が知るわけないだろう」


『だよなあ』


『マーサー大尉』


 そこへアドリアンの落ち着いた声が入った。04番機は所定の間隔を維持している。無線の調子からも、特に緊張している様子はなかった。


『昨日の基地資料に、食堂の場所は載ってましたよ』


『お、そうだったか?』


『二か所あります。利用時間も書かれていました』


『さすがノックス。で、味は?』


『そこまでは書いてありません』


『役に立たねえなあ』


『食堂の味まで軍事機密にされても困りますから』


 カラムは息を漏らした。アドリアンなら、画面の更新時刻も利用時間もすぐに思い出せるだろう。だが、自分の知らないことまで知ったふりをする男ではない。相手が求めている答えが何であれ、その区別は変えない。


「お前、本当に何を期待して聞いたんだよ」


『いや、ノックスなら知ってるかと思って』


『俺を何だと思ってるんですか、マーサー大尉』


『歩く資料室』


『なら味覚は管轄外ですね』


 周波数の向こうで短い吹き出す音がした。ルーカスだ。無線の送信を切るのが僅かに遅れたらしい。


『っ、はは……やめてくださいよ、今ちょっと……』


『ジンクス、笑ってないで周囲を見てろ』


 アドリアンの声は先ほどと変わらない。笑った直後でも、後輩への注意だけは忘れないところがいかにも彼らしかった。


『見てますって!』


『だったらいい』


『ノックスだって笑ってたじゃないですか!』


『気のせいだ』


『絶対笑ってましたよ!』


 ルーカスの抗議は、本人が思うより随分と楽しそうだった。昨日の打ち合わせで、五人揃って飛べることが嬉しいと言い切った声を、カラムは覚えている。あのときと同じ調子で食い下がっているが、05番機の位置は乱れていない。カラムはそのことに少し満足した。


 右後方の03番機にも目を向ける。エリオットは余計な旋回をせず、位置を維持していた。ふざけた話をしながら、機体の細かな動きだけは丁寧に揃えている。


 士官学校の頃から、あの男はそうだった。口ではいくらでも軽口を叩くが、誰かが判断を誤りそうになれば必要なことだけを言う。逆にカラムが短く指示を出したときは、冗談で覆い隠さない。


 昨日の夕方、二人で滑走路を眺めたときもそうだった。


 明日は、俺がちゃんとついてるからな。


 カラムは、知っていると答えた。


 今日もその返事を変える必要はなさそうだった。


『モロー各機』


 レナードの声が入った。カラムは前方へ視線を戻す。


『周波数はお前たちの談話室じゃないぞ』


『了解、ワン』


 エリオットの返答が早い。さっきまでの軽さが引っ込んでいる。カラムはマスクの下で笑ったが、操縦桿を握る手はそのままにしていた。


『まったく……それとスリー』


『はい?』


『現地の食堂は二か所だが、片方は夜間の利用が制限されているらしい。着いてから確認しろ』


 予想外の情報に、カラムは思わず眉を上げた。昨日の資料に載っていた内容なら、確かに中佐も読んでいるはずだった。だが、わざわざ今それを教えるとは思わなかった。


『中佐まで調べてくれてるじゃないですか!』


『昨日の資料に載っていた』


『さすが中佐。で、味は?』


『知らん』


『ええ……』


『マーサー』


『はい』


『黙って飛べ』


『了解しました』


 しばらく無線が静かになった。エンジンの音と、ヘルメットの内側を通る自分の呼吸が耳に戻ってくる。誰も話さなくても、空にいるのが一人になったわけではない。機体の位置を確かめるたび、先頭にレナードがいて、後ろにはエリオットたちがいる。


 昨日までと変わらない。


 明日も、きっと同じようなやり取りをするのだろう。


 戦争が終わっても、飛行隊はなくならない。防空任務も訓練も続く。しかし、毎日同じ部屋で書類を片づけ、同じ時間に五機で飛ぶ日々が、いつまで続くかは分からなかった。


 それぞれに帰る家がある。


 エリオットなら休暇になると街へ出て、まず旨い飯と酒を探すだろう。アドリアンは姉に連絡し、何でもない顔で帰省の日程を決めるかもしれない。ルーカスなら弟と妹に連絡して、土産を約束させられる姿が目に浮かぶ。


 カラムは、悪くないと思った。


 五人がばらばらの場所で、戦争とは無関係の一日を過ごす。そのことを寂しいと感じるなら、少々贅沢なのだろう。


 前方に山並みが現れた。雲の影に入った斜面は暗く、谷間に沿って道路が続いている。カラムは航路表示を確かめ、燃料と進入予定を確認した。カストラは、もう遠くない。


『モロー各機、ワン。カストラ・アプローチへ切り替えろ』


 無線に短い応答が続く。カラムは周波数を切り替えた。カストラの進入管制官の声には、ヴァレントとは違う癖があった。別の航空機へ高度を指示する交信のあと、MORROWへ進入経路が伝えられる。


『モロー編隊、レーダー捕捉。五機を確認した。指示された経路を維持し、順次進入を予定せよ』


『モロー・ワン、了解。五機、順次進入する』


 カラムは高度と速度を調整し、指定された経路へ機体を向けた。雲の下へ出ると、丘陵に囲まれた平地が開けた。その中央を一本の滑走路が貫いている。周囲には分散配置された防護掩体と整備格納庫。北側に燃料施設があり、南側には土塁で囲まれた仮設施設が並んでいた。


 戦前からこの地に置かれていた常設の航空基地は、開戦後、南東方面の前進防空拠点として使われている。


 ヴァレントより狭い。


 昨日見せられた航空写真のとおりだった。だが、実際に上空から見渡すと、機体を収容できる場所の少なさがよく分かる。誘導路沿いには資材が積まれ、整備車両がほとんど途切れず行き来していた。格納庫へ入れない機体もあるのだろう。掩体の脇で、整備員たちが外板の点検を続けている。


 この基地の周辺では、敵の無人偵察機による活動が確認されていた。


 直接の攻撃兆候は報告されていない。それでも、滑走路が一本しかない施設の上空へ、敵が無人機を送っている。何のために観測しているのか分からないほど、彼らは呑気ではなかった。


 カラムは滑走路の向こうの丘と、施設を囲む道路へ目を走らせた。外周道路を軍用トラックが二台走り、燃料車の近くでは地上員が車両の進入を止めている。朝の光の中では、作業の一つ一つが妙にはっきり見えた。


 ここが、今日からの任務地だった。


『モロー各機、ワン。予定どおり着陸する。ツー、私の後に続け』


「ツー、了解」


 レナード機が先行して進入へ移った。カラムは後続との間隔を広げ、エリオットたちも順に位置を変える。五機で飛んできた編隊(フォーメーション)を、安全に着陸させるための間隔だった。


 カラムは降下を始めた。スロットルを調整し、進入速度へ近づける。滑走路が風防の中央へ収まっていくのを確かめ、脚を下ろした。表示器が展開完了を示す。計器と外の景色を交互に追い、降下角と機首姿勢を僅かずつ整える。


 前方では、レナード機が先に接地し、滑走路を離れようとしていた。管制の声に続いてカラムにも着陸許可が届く。


「モロー・ツー、滑走路24、着陸する」


 滑走路標識が大きくなった。中心線が機首の下へ伸びる。カラムは姿勢を保ち、接地直前に降下率を減らした。


 主脚が舗装を捉える。


 短い衝撃が腰と背中へ届き、少し遅れて前脚が下りた。タイヤの転がる振動が機体全体へ広がる。中心線を維持しながら減速すると、風防の外の景色が急に地上の速さへ戻ってきた。遠くに見えていた誘導路出口が、一つずつ近づいてくる。


 管制の指示に従って滑走路を離れ、カストラ・グラウンドへ周波数を切り替えた。指定された経路を復唱し、駐機区画へ向かう。誘導路脇の車両も人影も、ヴァレントより近く感じる。翼端の距離に気を配りながら進むと、前方に蛍光色のベストを着たマーシャラーが現れた。


 誘導棒が示す位置へ機体を進める。左右の地上員が翼端と周囲の間隔を監視していた。減速を求める合図を見てブレーキを当て、さらに数メートル進む。二本の誘導棒が頭上で交差した。


 停止。


 カラムはブレーキを掛けた。車輪止めの装着を許可し、地上員が安全な位置まで離れたことを確かめる。エンジン停止の合図が届いたところで所定の手順を行った。


 二基のEJ200の唸りがゆっくり弱まっていく。座席の背に伝わっていた振動が消え、機体の外を走る車両や、地上員の呼び声が浮かび上がってきた。


 静かだった。


 いや、基地は相変わらず騒々しい。ただ、自分の機体が黙ったのだ。


 地上員の合図を確認してキャノピーを開く。外の冷たい空気が操縦席へ流れ込み、航空燃料と湿ったコンクリートの匂いがした。エンジン音の残響が耳の奥にあるうちに、整備員が梯子を掛けて上がってきた。


「お疲れさまです、大尉。飛行中、何か異常はありましたか」


「いや、機体は良好だった。報告すべき不具合はない」


「了解しました。飛行後点検に入ります」


「頼む。こいつは昨日、右主脚のタイヤを替えてもらってるんだ」


 整備員は一瞬目を瞬かせ、手元の記録を確認した。


「ええ、記載がありますね。こちらでも確認します」


 その声には、よその基地から来た機体を受け取る者の慎重さがあった。カラムは頷き、装具の接続を外す。ハーネスを解くと肩が軽くなった。座席から身体を持ち上げ、梯子を降りる。地面へ足をついたところで、思ったより太腿が強張っていることに気づいた。


 ヘルメットを外すと、朝の風が額を撫でた。自分が飛んできた空を、今は滑走路の脇から見上げている。


「ブック!」


 エリオットが歩いてきた。03番機の整備員に何か伝え終えたところらしく、片手にヘルメットを提げ、もう片方でこちらへ合図している。髪は少し乱れていたが、本人はまったく気にしていない。


「よう。今日も無事に降りたな」


「お前もな」


「当然。俺の腕を何だと思ってる」


「この前、自分の着陸を芸術だと言い張ってた男の腕だな」


「実際、芸術的だっただろ」


「整備員に聞いてみるか?」


「やめろ。芸術を理解しない奴もいる」


 エリオットは大真面目な顔をした。カラムが笑うと、相手も口元を緩める。喋っているうちに二人の足は、自然と駐機区画の端へ向かっていた。


 01番機は既に点検を始めている。レナードは地上員と何か確認していた。04番機の傍らでは、アドリアンが降機用の梯子から地面へ足を下ろしたところだった。手元の装具を整え、担当者へ短く報告している。


 一方、05番機ではルーカスがまだ梯子の脇にいた。降りる直前に胸元の留め具へ手をやり、何かを確かめ直しているらしい。整備員が待っているのに気づくと、彼はすぐに手を離して頷いた。


「お、ジンクスが最後だな」


「離陸も最後だったろ」


「そういうことじゃねえよ」


 エリオットはルーカスの方を顎で示した。待ちきれないらしく、口元が既に笑っている。


「今回は俺の勝ちだな」


「何の話だ」


「降機の早さ」


「いつから競争になったんだ?」


「今」


「ずるいぞ、お前」


「勝ったもん勝ちだ」


 カラムは呆れた顔を作ったが、エリオットは意に介さない。五機が無事に到着したあとで、今度は誰が早く降りたかを争う。昨日まで飛行計画に細かな印を付けていた男と同じ人物だとは、少し考え難かった。


 そこへアドリアンが歩いてきた。ヘルメットを脇に抱え、もう片方の手でフライトスーツの袖口を整えている。二人が笑っているのを見ると、視線を交互に動かした。


「何の話です?」


「ブックが負けを認めない」


「お前が勝手に始めた競争だろうが」


「それは負け惜しみだぞ」


 アドリアンはエリオットを見てから、少しだけ考えるように目を伏せた。先ほどまでの機体点検の話でも聞いていたかのような真面目な顔で、淡々と言う。


「なら、俺も参加します」


「お、いいねえ。で、結果は?」


「俺の負けですね」


「潔いな」


「ええ。そもそも参加した覚えがありませんから」


 エリオットが言葉を失った。その一拍の間が可笑しくて、カラムは吹き出した。アドリアンは何事もなかったように袖口を直している。たぶん本人は、ふざけているつもりさえないのだろう。


「お前、そういうところあるよな!」


「何のことです?」


「自覚ねえのが一番たち悪い」


 エリオットが肩を揺らすと、アドリアンは僅かに目を細めた。それ以上説明する気はないらしい。聞かれたことに答えただけだという顔をしていた。


「何ですか? 何笑ってるんです?」


 ルーカスが小走りで追いついてきた。赤毛はヘルメットを外したせいで跳ね上がり、本人はそれを気にして指で押さえている。脇に抱えたヘルメットの紐が揺れ、歩くたびに装具の留め具が小さく鳴った。


「ジンクス、お前も競争に参加するか?」


「何のです?」


「降機の早さ」


「え、じゃあ俺の負けじゃないですか!」


「そうだな」


「先に言ってくださいよ!」


 ルーカスは大げさに肩を落としたが、口元まで不満そうなわけではない。カラムの隣に並ぶと、ヘルメットを抱え直し、今度はエリオットを見た。


 アドリアンが横から口を挟む。


「先に言われても、お前は装備をもう一回確かめてただろ」


「確認してただけですって!」


「そうか。二回目の確認だったな」


「だから! ノックス中尉まで!」


 ルーカスが抗議しながら、空いた手でアドリアンの肩を軽く小突いた。アドリアンは避けもしない。少しだけ身体を揺らし、それで気が済んだのかとでも言いたげに後輩を見る。先輩と後輩のやり取りでありながら、相手を不快にさせない線を二人とも心得ていた。


 カラムは、その様子を見ているうちにまた笑ってしまった。ルーカスがどれほど騒いでも、整備員に話しかけられると途端に真面目な顔へ戻るところまで、今朝と同じだった。少し離れた05番機では、担当者が既に飛行後点検の記録を開いている。


 飛行中は無線越しに短い声を交わしていた四人が、今は同じ地面の上に立っていた。互いの肩に手の届く距離で、どうでもいい競争の勝敗を争っている。カラムは四人の影が舗装に重なっているのを見て、それが妙に久しぶりのことのように感じた。


「お前たち」


 背後から低い声がした。反射的に四人が振り返る。


 レナード・ヘイル中佐が歩いてきていた。ヘルメットを片手に持ち、もう片方で飛行服の襟元を整えている。機体を降りたあとも背筋は変わらない。視線が四人を一通り確かめてから、近くの整備車両へ移った。


「元気なのは結構だが、ここはヴァレントじゃないぞ」


「了解しました、中佐」


 カラムが答えると、レナードは頷いた。


「全員、問題ないな?」


「はい」


「異常ありません」


「俺も大丈夫です」


「問題なしです!」


 ルーカスの返事だけが少し大きい。本人もすぐに気づいたらしく、口を閉じる前にレナードと目が合った。


「モレイラ。元気なのは分かった。声を張る必要はない」


「すみません!」


「だから声が大きい」


 ルーカスが困ったように眉を下げた。エリオットは横を向き、口元を押さえている。アドリアンも視線を落としていたが、口角が僅かに上がっているのをカラムは見逃さなかった。


 レナードは呆れたように息を吐いた。しかし、怒っているわけではなさそうだった。五人の顔を見渡したあと、手にしたヘルメットの位置を直す。


「このあとカストラの作戦室でブリーフィングだ。基地の使用規則と、明日以降の運用について説明がある。荷物を置いたら集合しろ」


「了解しました」


 四人の返事が重なった。レナードは頷き、歩き出しかけてからエリオットへ目を向ける。


「あと、マーサー」


「はい?」


「夜も使える食堂は、管制棟の裏手だそうだ」


 エリオットの顔がぱっと明るくなった。先ほどまで真面目な返事をしていたのと同じ口から、間髪を入れずに声が飛ぶ。


「お、場所まで確認してくれたんですか、中佐?」


「さっき案内された」


「で、味はどうです?」


「知らん」


「ええ……」


「自分で確かめてこい。私に報告する必要はない」


 カラムは耐えきれずに笑った。アドリアンが片手で口元を隠し、ルーカスはとうとう声を上げた。昨日から誰もが資料を確かめ、飛行経路と燃料を照合してきたというのに、着陸して真っ先に問題になるのが食堂の味なのだから、どうしようもない。


「何がおかしい」


「いえ、何でもありません」


 カラムが答えると、レナードは一瞬だけこちらを見た。その目元に薄い笑みが浮かんだように思えたが、確かめる前に中佐は前を向いてしまった。


「なら行くぞ」


 歩き出す背中を見送りながら、エリオットが小声で呟いた。


「……結局、俺は飯のことしか考えてねえと思われてるな」


「実際そうだろ」


「ブック、お前まで」


「違うのか?」


「違わねえけどさ」


 エリオットは言い返しながら、ヘルメットを持ち替えた。カラムはその仕草を見て、昨日の夕方にも同じような会話をしたことを思い出す。終わったら飯を奢れ。そう言った男は、今も変わらない調子で隣にいる。


 周囲では、整備車両が行き交っていた。滑走路へ向かう別の戦闘機が誘導路へ進み、遠くでエンジン音が高まる。すれ違う地上員たちは慌ただしく、無線機を押さえて何かを伝える者もいた。カストラが前線を支える基地であることは、建物の小ささだけではなく、誰もが手を止めないその様子からも分かった。


 カラムは振り返り、駐機区画へ目を向けた。


 五枚の垂直尾翼が、朝の光の中に並んでいた。01、02、03、04、05。機体の周囲には整備員が集まり、点検口が開かれ、車両が近づいている。誰かが外板を指さし、別の誰かが記録を確認した。数時間前にヴァレントで見た光景と、大きな違いはなかった。


 この五機を迎えるために、ここでも人が働いている。


 向こうの担当整備員が見れば、当たり前のことだと言うだろう。機体を飛ばすためには、誰かがその機体を受け取らなければならない。カラムは手にしたヘルメットを抱え直し、今朝の擦り切れた手袋を思い出した。


 停戦が発効しても、すぐに休暇が来るわけではない。警戒任務も再配置も、機体の点検も残る。だから帰れる日付はまだ分からなかった。それでも昨日、エリアスに約束した連絡は、いつかきちんと返せるはずだ。


 帰る日が決まったら、まず弟に知らせよう。グリが荒らしたという部屋の写真でも送らせれば、あいつはきっと面白がる。母さんにも伝わるだろうし、父さんが寄港したときには、また別の話の種になるかもしれない。


「ブック、行くぞ」


 エリオットの声に、カラムは振り返った。


「ああ」


 レナードが先を歩いている。その少し後ろではアドリアンとルーカスが何やら話していた。ルーカスは片手で大きな身振りをし、アドリアンは聞き終えてから短く答える。どうやらさっきの装備確認の話がまだ続いているらしい。


 エリオットが隣へ並んだ。


「さて、仕事だな」


「そうだな」


「早く終わったら飯にしようぜ」


「お前、本当にそればっかりだな」


「腹が減っては戦はできぬ、って言うだろ?」


「お前は何語の諺(ことわざ)を持ち出してるんだ」


「意味は通じたろ」


「まあな」


 二人は並んで歩き始めた。靴底の下で、朝露を含んだ砂粒が小さく鳴った。周囲では作業車両のエンジンが絶えず唸り、管制棟の方から地上員が駆け足で通り過ぎる。仕事はもう始まっている。五機をここへ運んだだけでは、何一つ終わらない。


 カラムは、先を歩く三人の背中を追った。


 五人とも、ちゃんと着いた。


 まずはそれでよかった。


ウェラン共和国南東部、カストラ航空基地。


戦前からこの地に置かれていた空軍基地は、今や南部と東部の防御線を支える前進拠点となっていた。


五機のユーロファイター・タイフーンが、所定の駐機位置に収まる。


01、02、03、04、05。


第17戦術戦闘飛行隊《MORROW》、全機到着。


整備員たちは機体の点検を始め、補給車両が掩体の間を行き交う。


操縦士たちが降りたあとも、航空基地の仕事は終わらない。


作戦室では新たな戦況報告が整理され、南東方面の航空活動が刻々と更新されていた。


停戦協定の発効まで、残り二日と数時間。


その瞬間の接触線が、暫定的な境界線となる。


だが、地上の戦闘はまだ続いている。


空から監視する者たちも、守る者たちも、最後の一秒まで持ち場を離れることはできない。


五羽のワタリガラスは、新たな滑走路へ降り立った。


そして今度は、そこから飛び立たなければならない。


⸻


《 NEXT MISSION 》


MISSION 02:ON STATION


──境界の空


五羽のワタリガラスは、守るべき空へ。

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