PROLOGUE『戦時の平熱』
古く、ウェランの海を渡った者たちは、ワタリガラスを夜明けの使者と呼んだ。
嵐の彼方から飛来する黒い鳥。
その翼は死を告げるとも、失われた者に帰るべき方角を示すとも伝えられた。
だが、鳥自身は何も語らない。
ただ海を渡り、夜の終わりを見届ける。
──これは、ウェランに伝わる、ワタリガラスの伝承。
大陸の南東部に、一本の線が引かれていた。
河川を越え、山地を横切り、幹線道路を分断するその線は、幾度となく書き換えられてきた。
昨日まで共和国軍のものだった土地が、翌朝には連邦軍の支配下にある。地図上では僅か数ミリの変化も、そこに暮らす人間にとっては、故郷を失うことを意味した。
やがて、戦争の終わりが告げられた。
停戦協定、成立。
発効は三日後、正午。
その瞬間の接触線を、暫定的な境界線として固定する。
人々は安堵した。都市には報道が流れ、離れた家族へ無数の連絡が送られた。
しかし、前線の銃声は止まらなかった。
『東部防御線、敵航空活動増加』
『南部避難経路、民間車両の退避継続中』
『友軍地上部隊より航空支援要請』
報告は途切れることなく積み重なっていく。
停戦まで、七十二時間。
侵攻する者には、奪うための七十二時間。
守る者には、失わないための七十二時間。
その空を飛ぶ者たちがいた。
ウェラン共和国空軍。
第十七戦術戦闘飛行隊《MORROW》。
低光沢の青灰色に塗られた機体。その垂直尾翼には、翼を広げたワタリガラスが描かれている。
五機のユーロファイター・タイフーン。
五人の戦闘機操縦士。
彼らは戦争を終わらせに行くのではない。
戦争が終わるその時まで、守るべき空を飛ぶために出撃する。
古い伝承の鳥が何を運んでくるのか。
まだ、誰も知らない。
『FINAL VECTOR』
──最後の七十二時間を、飛べ。
ヴァレント空軍基地の朝は、夜のうちに帰ってきた戦闘機から始まる。
――午前五時四十二分。
第十七戦術戦闘飛行隊の駐機区画には、夜半の雨がまだ残っていた。濡れた舗装面に作業灯の白い光が溜まり、格納庫の奥から響く工具の音を、地上電源車の低い唸りが覆っている。牽引車が別の飛行隊の機体を曳いて通り過ぎた。誘導員の腕が薄闇の中で動き、主脚の車輪が浅い水溜まりに細い波紋を残していく。
カラム・リード大尉は紙コップのコーヒーを片手に、自機の傍らで足を止めた。
夜間任務を終えたユーロファイター・タイフーンが、格納庫前の駐機位置に据えられている。低光沢のダーク・スレートグレーに塗られた外板には雨粒が残り、デルタ翼の前方へ張り出したカナード翼の下面に、作業灯の光が鈍く反射していた。垂直尾翼の機番は02。低視認のワタリガラスは、濡れた機体とほとんど同じ色をしている。
昨夜の帰投は午後十時を過ぎていた。機体を整備班へ引き渡し、報告を終えて隊舎へ戻った頃には、日付が変わろうとしていた。シャワーを浴びて寝台へ倒れ込んだことまでは覚えているが、それから何時間眠れたのかは怪しい。
カラムは乱れた暗色の髪をかき上げ、目頭を押さえた。寝台から起き上がるときには問題なかった手足が、立ち止まると途端に重くなる。三十一歳になった今でも睡眠不足には慣れず、飛行訓練で鍛えた身体を支えるのは、もっぱら習慣と惰性だった。早朝の冷気は目を覚ましてくれるものの、鏡の中で見たスレートブルーの瞳の下の影まで消してはくれない。
それでも機体を前にすると、視線は勝手に動いた。機首から前脚、胴体下面へ。昨日の帰投時と外見上の変化がないことを確かめ、最後に尾翼を見上げる。もちろん、外から眺めるだけで内部まで分かるなら、整備員の仕事は随分と楽になるはずだった。
「おはようございます、大尉」
主脚の陰から声がした。担当整備員が記録端末を抱えて立ち上がる。袖には油汚れが残り、手袋の指先は擦り切れかけていた。夜勤明けの疲労が目元に滲んでいる。カラムより幾つか若い男だが、この2番機の整備履歴に関しては、乗っている本人よりよほど詳しい。
「帰投後の点検は終わりました。大きな不具合はありません。記録も引き継いであります」
「早いな。昨夜は遅かったろ」
「こいつが大人しく帰ってきてくれましたから」
「それは俺に礼を言うべきだな」
「そうですね。今度から大尉宛てに整備記録を送っておきましょうか」
「やめてくれ。読む書類が増える」
整備員は声を上げて笑った。カラムも笑い、紙コップを傾けた。とうに冷めたコーヒーには紙の匂いが移っており、舌に残ったのは頼りない苦味だけだった。まだ半分ほど残っている。捨てるには惜しいが、飲み干したい味でもない。
「次もお願いしますよ」
整備員は端末を抱え直し、機体を見上げた。
「こっちは五体満足で返してもらわないと困るんです」
「努力はする」
「約束じゃないんですね」
「約束できることなら、もう少し仕事が楽なんだけどね」
男は苦笑した。冗談として交わした言葉が気休めにもならないことは、二人とも知っている。昨夜は敵機と接触しなかったが、作戦空域では何度も警戒情報が流れた。兵装を使わずに帰ってこられたからといって、安全だったことにはならない。
整備員は端末に最後の項目を入力し、画面を閉じた。
「朝の班には、ちゃんと引き継いでおきます。大尉も休めるときに休んでください」
「そっくりそのまま返すよ」
「僕はこれから帰れますから」
「羨ましい限りだ」
笑いながら敬礼する男に答礼し、カラムは格納庫へ戻っていく背中を見送った。夜中に見つかった小さな異常も、昼間に交換された部品も、次の担当者へ渡される記録の中に残っている。昨日、自分が操縦席から降りて以来、いったい何人の手がこの機体に触れただろう。
交代したばかりの整備員が一人、タイフーンの腹の下を通り過ぎていった。
「朝っぱらからよく口が回るな、ブック」
背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、エリオット・マーサー大尉が書類束を脇に抱えて立っていた。何枚もの紙が腕からはみ出しているのに、本人は落とす気配もなく、空いた手で金髪を乱暴に撫でつける。
整った顔立ちと薄い水色の瞳のせいで、初対面の相手にも気さくな印象を与える男だった。もっとも、今朝ばかりは寝不足が勝っている。短く整えたはずの髪はところどころ跳ね、眉間には報告書の枚数に見合うだけの皺が寄っていた。文句を言いに来たというより、誰かに一言ぶつけなければやっていられない顔である。
カラムとは士官学校からの同期で、同じ三十一歳。ともに大尉となった今でも、顔を合わせれば当時の調子へ戻る。エリオットのタックネームは《パッチ》、カラムは《ブック》。互いを姓で呼ぶより、そちらの方がずっと馴染み深かった。
「お前こそ寝てない顔だぞ、パッチ」
「誰のせいで昨夜の報告書が長くなったと思ってる」
「敵だろうな」
「お前だよ」
「俺は必要なことしか書いてないぞ」
「必要なことが多すぎんだよ。読む側の身にもなれ」
「それは気の毒に」
「まったく思ってねぇだろ」
カラムが笑うと、エリオットは呆れたように鼻を鳴らした。それでも書類を抱えた腕は緩めない。付箋の挟まれたページには細かな書き込みが並び、何枚かは角が折れていた。昨夜の飛行を思い出しながら、自分でも確認を重ねたのだろう。ふざけた調子のまま必要な仕事を片づけるのが、この男の昔からのやり方だった。カラムはそのことをよく知っている。
エリオットが書類を抱え直すと、袖口から腕時計が覗いた。カラムはその文字盤に目を留め、今朝の予定を思い出した。
「そういや、隊長は?」
エリオットの表情が少しだけ改まる。冗談を返さなかったことが、まず気にかかった。
「司令部だ。ついさっき呼ばれてった」
「……この時間に?」
「ああ。それと、午前のブリーフィングも延期になった。理由はまだ降りてきてねぇ」
紙コップを持ち上げかけた手が止まった。予定変更そのものは珍しくない。天候も敵情も、一晩あれば変わる。ただし、今朝は隊長だけが先に司令部へ呼ばれ、搭乗員には予定変更の理由さえ伝えられていない。
「……何かあったか」
「さあな。通信室の連中も朝から忙しそうだ」
エリオットは格納庫の向こうへ顎をしゃくった。誘導路の先で、二機のF-16が滑走路へ向かっていた。低視認の国籍標識をつけた両機の翼下には、空対空兵装が搭載されている。
「ケストレルか」
「ああ。予定より早いらしい」
「東部へ?」
「たぶんな。向こうの連中、昨日も遅くまで飛んでたぞ」
カラムは二機を目で追った。東部の防御線は、この数週間で何度も押し戻されている。地上部隊が守っているのは、地図の上では何の変哲もない道路や橋だった。だが、その一つを失えば、別の部隊へ燃料も弾薬も届かなくなる。そこまで理解していても、現地がいまどれほど切迫しているのかは、手元の戦況報告だけでは読み切れなかった。
一機目が滑走路へ入り、遠くでエンジン音が高まった。機体は雨の名残を引き裂いて加速し、薄い水煙を残して離陸する。続いて二機目が浮き上がり、両機は脚を格納すると、朝靄の上へ消えていった。
「……そういや、お前、朝飯まだだろ」
唐突に話を変えたエリオットの声に、カラムは空から目を戻した。薄闇の中を飛び去った二機はもう見えない。手元の紙コップを傾けると、少しだけ残ったコーヒーが底で揺れた。
「コーヒー飲んだ」
「それは朝飯じゃねぇ」
「そうか。残念だな」
「どこが残念なんだよ」
エリオットは呆れたように鼻を鳴らした。食事のことでカラムに小言を言うのは今に始まったことではなく、当人が素直に聞き入れた試しも滅多にない。腕に抱えた書類を持ち直すと、それ以上の追及は諦めたらしく、作戦棟へ続く通路に目を向けた。
「戻るぞ。ここにいたって何も分からん」
「ああ」
カラムは残っていたコーヒーを一口含み、冷え切った苦味にわずかに眉を寄せた。飲み終えた紙コップを所定の回収箱へ捨て、エリオットの後を追う。背後の駐機区画では、地上電源車の低い唸りが変わらず続いていた。
作戦棟へ向かう途中、給油車が二人の脇を通り過ぎた。交代したばかりの整備員が端末を見せ合い、別の班の者が機体へ向かって足を速めている。夜勤を終えた者と、これから長い一日を始める者が、同じ通路ですれ違っていた。誰にとっての朝なのかは、時計の針だけでは決められない。
カラムは一度だけ滑走路を振り返った。F-16の姿はとうに消えている。
開戦当初は、離陸する機体を一機残らず目で追ったものだった。誰が乗り、いつ戻る予定なのか。帰投が遅れれば時計を見る回数が増え、そのたびに自分が何もできないことを思い知らされた。
今も帰らない機体は気になる。ただ、その機体を案じている間にも次の出撃時刻は来る。帰ってきた者は報告書を書き、整備班は故障を探し、補給班は燃料と兵装を揃える。誰かが休めば、別の誰かがその仕事を引き継ぐ。
慣れたのは戦争そのものではない。戦争を続けるための、膨大な仕事の方だった。
作戦棟へ入ると、暖房の乾いた空気が頬に触れた。入口の床には濡れた軍靴の跡が続き、掲示板には飛行安全通達や気象情報、勤務割の変更通知が重なっている。新しい用紙の下から古い通達の角が覗き、剥がされたテープの跡だけが残っている場所もあった。
廊下の向こうから通信担当士官が足早に歩いてきた。片手に書類を持ち、もう片方の手で耳元の通信端末を押さえている。エリオットが挨拶すると、士官は短く応じたが、足を止めずに通り過ぎていった。
「……あいつ、いつもはもっと愛想いいんだけどな」
「忙しいんだろ」
「だといいけどな」
待機室の前で、エリオットは書類を抱え直し、空いた手で扉を押し開けた。室内から、淹れ置きのコーヒーと温め直した食事の匂いが流れてくる。
「おはようさん。生きてるか、お前ら」
気安い挨拶に、窓際から落ち着いた声が返った。
「おはようございます、リード大尉、マーサー大尉」
窓際の机に端末を広げていたのは、アドリアン・“ノックス”・ヴァレラ中尉だった。二十八歳。短く整えた暗色の髪には乱れがなく、灰青色の瞳が気象図の数字を静かに追っている。机の端には昨夜の予報と最新の資料が並べてあり、どこが変わったのか一目で分かるように印が付けられていた。
挨拶は確かに返ってきたが、アドリアンが画面から目を上げたのは、最後の更新時刻を確認してからだった。礼儀を欠いたつもりはないのだろう。中途半端なまま手を止めないのも、彼らしいとカラムは思った。
「おはよう、ノックス。何を見てる?」
カラムが机へ近づくと、アドリアンはようやく顔を上げ、端末を二人から見える向きへ回した。
「気象です。昨日の予測から少し変わりました」
共和国南部から内陸の山地へ、雲域が帯のように伸びている。指先が画面を滑ると、風向と風速を示す記号が重なり、山地の上空で数値が変化した。
「午後は西から雲が増える見込みです。ヴァレント周辺への影響は小さいでしょうが、前線寄りでは雲底が低くなる可能性があります。山地上空の風も、昨日の予測より強くなっていますね」
「また雨か」
「地域によっては。ただ、今のところ運用に大きな支障が出るほどではありません」
「助かるよ」
アドリアンは小さく会釈し、画面を戻す前に風速の推移へもう一度目を走らせた。「可能性がある」と「運用に支障が出る」を、彼は決して同じ意味で使わない。その区別を曖昧にしないからこそ、カラムも安心して判断材料を受け取れる。何事も慎重だが、必要なときに報告が遅れたことはなかった。
「おはようございます、ブック大尉!」
反対側から、ひときわ明るい声が飛んできた。ルーカス・“ジンクス”・モレイラ少尉が、椅子に座ったまま片手を上げている。癖のある赤毛は今朝も好き勝手に跳ね、鼻梁から頬にかけて散ったそばかすが、笑うといっそう目立った。
二十六歳で、ここにいる操縦士の中では最年少。それでも、袖口から覗く前腕は飛行訓練で鍛えられており、肩の厚みも制服では隠しきれない。顔立ちと人懐っこい振る舞いのせいで後輩らしく見えるが、操縦席を任されるだけの身体と経験を持った士官である。
ただし、そのもう片方の手には大きなパンが握られていた。
「ジンクス、お前は朝から元気だなぁ」
「朝飯食ってますから!」
「……そういう問題?」
「結構重要ですよ。腹減ってると集中できないんで」
その答えがあまりに堂々としていたので、カラムは思わず口元を緩めた。もっとも、先に笑ったのはエリオットだった。
「こいつ、さっき食堂でも食ってたぞ」
「それはそれっす」
「成長期か、お前は」
「もう二十六ですって!」
ルーカスが抗議すると、アドリアンが端末の向こうで小さく笑った。
「まぁ、ルカの言うことにも一理ありますよ。朝食を抜くよりは、よほどいいでしょう」
「ほら!ノックス中尉もそう言ってます!」
「別に俺は食べ過ぎまで肯定したわけじゃないが」
「ええっ、そこは味方してくださいよ!」
「残念だったなぁ、ルカ」
カラムが笑うと、ルーカスは大袈裟に肩を落とした。とはいえ、腹が減っているのは本当らしい。すぐに残りのパンを頬張り、包装紙をきれいに畳むと、口の中のものを飲み込んでから端末へ向き直った。
その切り替えの早さに、カラムは手元の資料へ目を留めた。食事の片手間に眺めるには、随分と細かな数値が並んでいる。
「……で、朝から何をそんなに熱心に見てるんだ?」
空いた椅子を引き、画面を覗き込む。表示されていたのは、過去の空戦訓練記録だった。飛行経路と速度、高度の推移が時系列で並び、画面の端にはルーカス自身のメモが書き込まれている。
「……あぁ、昨日の続きをやってるのか」
「はい。あの交差機動のところ、もう一回見ておきたくて」
「何か引っかかったか?」
「自分の判断が、ちょっと遅かった気がするんです。結果は問題なかったですけど、もう少し早く気づけたかなって」
返事の最後に笑みが残っていたが、ルーカスの指は既に記録の該当箇所を探していた。カラムが隣へ回る頃には、パンの包みも端末の邪魔にならない位置へ寄せられている。数分前まで冗談を言っていたのと同じ男が、判断の遅れを一つも見逃したくない顔で画面を見ていた。
訓練時の記録には、ルーカスと僚機の位置関係、それぞれの速度変化が残されている。カラムも参加した訓練で、終了後の講評では大きな問題は指摘されなかった。だが、ルーカスは自分の判断にまだ納得していないらしい。
「この時点で、お前には何が見えてた?」
「僚機の位置と、相手の旋回方向です。あと、速度が落ち始めてることは分かってました」
「なら、何を根拠に次の機動を選んだ?」
ルーカスは少し考え、当時の判断を順に説明した。最初は淀みなく話していたが、途中で言葉が遅くなる。画面上の一点に目を留めたまま、何かを確かめるように指を止めた。
「……あれ?」
カラムは口を挟まず、続きを待った。教えられた答えより、自分で見つけた間違いの方が長く残ることを、経験から知っていた。
「俺、ここで相手の動きを見すぎてますね」
「そうだな」
「判断する材料は、もう揃ってたのに」
「結果を知った状態なら、そう見える。だが、今確認したいのは、その瞬間のお前に何が分かっていたかだ」
カラムは記録を数秒巻き戻し、画面をルーカスの方へ寄せた。
「もう一度やってみろ。自分が操縦席にいたつもりで」
ルーカスは頷いた。表示を追い直し、先ほどとは違う順番で状況を整理する。やがて口にした判断には、さっきまで引っかかっていた迷いがなかった。
「悪くない。これなら、判断に使う時間を減らせる」
「……よしっ」
ルーカスは小さく拳を握った。目元がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます、大尉!」
「礼を言うのは、次の訓練でできてからにしろ」
「はい!」
「あと、ほどほどにな。今日は何があるか分からん」
「了解っす!」
元気よく返事をしたルーカスは、それでももう一度記録を再生し始めた。褒められれば素直に喜ぶが、できなかったことをそのままにはしておけない。自分の判断を何度も見返し、次こそできるように備えてくる。カラムがその努力を知らないはずはなかった。
「……朝から随分と熱心だな」
エリオットが椅子に腰を下ろし、書類を机へ置いた。
「若いからな」
「お前と五つしか違わねぇだろ」
「五年もあれば随分変わるさ」
「じゃあ、お前ももう少し大人になれよ」
「善処する」
「絶対しねぇだろ」
ルーカスが吹き出し、アドリアンも画面から目を上げて笑った。エリオットは何か言い返そうとして、結局やめた。これ以上続ければ、自分も五歳下の少尉と同じ調子でからかわれると気づいたのだろう。カラムは椅子の背へ軽く身を預けた。こうしたくだらないやり取りを聞いている間だけは、昨夜の疲れも少し遠のく。
ただ、壁の勤務予定表では午前の作戦説明の欄に横線が引かれたままだった。エリオットが書類を広げると、アドリアンの視線が自然とそちらへ向かった。
「隊長は、まだ司令部ですか」
「ああ。午前のブリーフィングも延期だとさ」
「理由は?」
「何も聞いてねぇ」
アドリアンは頷いたが、端末を操作する手を止めた。ルーカスも訓練記録の再生を止める。
「何かあったんすかね」
「さあな。どうせそのうち分かる」
「心配っていうか、気にはなるじゃないですか」
「気持ちは分かるが、今は待つしかないだろ」
カラムは椅子に腰を下ろし、話題を手元で確認できる情報へ戻した。
「ノックス、夜間の戦況報告は確認したか?」
「はい。大きな変更はありません。ただ、東部の航空活動が増えています」
「ケストレルの担当空域か」
「そうです。今朝の即応態勢も変更されています」
アドリアンが別の画面を表示した。作戦空域の使用予定を示す簡略図には、東部の複数の区域に変更表示が増えている。そのいくつかは、詳細にアクセスできない項目だった。
「南側は?」
「現時点では大きな変更はありません」
「そうか」
東へ向かう機体は増えている。それ以上の判断に必要な情報は、まだ自分たちのところへ下りてこない。
カラムは鞄から一冊の文庫本を取り出した。表紙の角は擦れ、何度も開閉した背表紙は柔らかくなっている。数日前から持ち歩いているものの、飛行と報告書の合間に拾い読むばかりで、まだ半分にも達していなかった。
「こんなときに読書かよ」
エリオットが呆れた声を出した。カラムは栞を抜きながら、悪びれもせず答える。
「こんなときだからだよ」
「何読んでんの?」
「小説」
「見りゃ分かる。どんな話だって聞いてんだよ」
「帰る場所を探す男の話」
「……もうちょい明るい本はねぇのか?」
「あるぞ。部屋に」
「今ここに持ってこいよ」
カラムは本から顔を上げずに笑った。紙をめくる音の向こうで、廊下を駆ける軍靴の音がする。続いて電話の呼出音。通信担当者が早口で何かを伝え、そのまま隣の部屋へ入っていった。
午前七時二十一分。エリオットは報告書の修正を続け、アドリアンは気象図を更新し、ルーカスは再び訓練記録を再生している。表面上はいつもの待機室だったが、廊下を誰かが急ぐたび、四人のうちの誰かが扉を見た。
カラムも同じ段落を三度読み、ようやく本の内容が一行も頭に残っていないことに気づいた。栞を戻し、文庫本を閉じた。
午前八時前、待機室の扉が開いた。
最初に気づいたエリオットが椅子を離れ、カラムも文庫本を伏せて立ち上がった。アドリアンとルーカスがそれに続く。入ってきたのは、第十七戦術戦闘飛行隊長、レナード・“ルーク”・ヘイル中佐だった。
百八十五センチの長身が軍服の肩をいっそう広く見せる。短く整えた暗褐色の髪には、こめかみを中心に銀色が交じり、四十六歳の顔には、年齢相応の皺が刻まれていた。レナードは扉の前で慌ただしく歩みを止めることもなく、手にした書類を揃えてから四人へ目を向けた。
「楽にしてくれ」
低く、よく通る声だった。立たせた部下を長く待たせることを嫌う男で、四人はそれぞれの席へ戻った。カラムが知るレナードは、判断を急ぐことと、慌てて判断することを決して混同しない。司令部からの呼び出しが何を意味するにせよ、その落ち着きが崩れていないことに、ひとまず救われる思いがした。
レナードは書類を脇へ下ろし、四人の顔を順に確かめた。カラムのところで視線がわずかに留まる。睡眠不足まで隠し通せたとは、とても思えなかった。
「午前十一時三十分から、第一ブリーフィング室で作戦説明を行う。それまでは現状の待機態勢を維持する。許可なく基地を離れないように」
「中佐、何があったんです?」
エリオットが尋ねた。
「まだ話せない。説明できるようになれば、全員に伝える」
口調は穏やかだったが、含みを持たせて期待させる言い方でもなかった。エリオットは書類の角を親指で押さえ、それ以上の質問をやめた。レナードが今は話せないと言ったなら、言える時刻が来るまでは待つしかない。四人の間に、その点への異論はなかった。
「了解しました」
「それから、休める者は休んでおけ。今日の予定は、まだ変わる可能性がある」
カラムはわずかに眉を寄せた。変更があった、ではなく、これからも変わるという。判断を待っているのは、自分たちだけではないらしい。
「了解しました、中佐」
レナードは頷いた。そのまま退室するかと思われたが、ふとテーブルの上の紙コップへ目を向ける。
「ブック。君は朝食を取ったのか?」
「コーヒーなら」
「それは朝食ではないな」
エリオットが勝ち誇ったように笑った。わざわざ口を開かなくても、その表情だけで言いたいことは分かったが、本人は黙っていられないらしい。
「ほら見ろ」
「……承知しました。あとで食堂へ行きます」
「今のうちに済ませておけ。昨夜飛んだばかりだろう」
レナードはそこでエリオットへ視線を移した。
「君もだぞ、パッチ」
「了解です、中佐」
レナードが部屋を出ていくと、エリオットは待っていたように肩をすくめた。扉の向こうへ足音が遠ざかるのを聞いてから、カラムへ向き直る。
「ま、そういうことだ。朝飯行くぞ、ブック」
「お前、俺の保護者か何かか?」
「保護者だったらとっくに匙投げてるね」
カラムは苦笑した。腹が減っていないわけではなかった。昨夜から口にしたものといえば、簡単な食事とコーヒーばかりだ。エリオットに言われるまでもなく何か食べるべきだったし、今ならその時間もある。
ただ、カラムの中ではいつも、食事の優先順位だけが妙に低かった。
午前八時過ぎ、二人は食堂へ向かった。夜勤を終えた者と朝の勤務に入った者が、同じ食堂でトレーを運んでいる。整備服姿の隊員が目立ち、別の飛行隊の搭乗員が眠そうな顔でカップを持ち上げていた。
カラムはパンと卵料理、温かい飲み物をトレーに載せ、窓際の席へ腰を下ろした。壁際のモニターでは国内ニュースが流れている。音声は落とされていたが、首都の議会施設の映像とともに、停戦交渉に関する見出しが次々と切り替わった。
交渉進展。最終調整。合意への期待。
ここ数週間、似たような文言を何度見ただろう。以前なら誰かが食事の手を止めた。今朝は誰も顔を上げない。ニュースが何を伝えても、正式な命令が来なければ次の勤務は変わらないからだ。
「お前、本当にそれだけで足りんの?」
向かいのエリオットが、カラムのトレーを眺めている。自分の皿にはしっかり食事を盛ってあるくせに、こちらの量まで気になるらしい。
「十分だ」
「昨夜もまともに食ってねぇだろ」
「食堂には行ったぞ」
「何食った?」
「スープとパン」
「それだけかよ」
「野菜も入ってた」
「そういう話じゃねぇんだよ」
カラムが笑うと、エリオットは大袈裟にため息をつき、フォークを握り直した。士官学校の頃から変わらないやり取りだった。カラムが食事を疎かにすればエリオットが小言を言い、エリオットが夜更かしをして酷い顔をしていればカラムが先に文句を言う。互いに余計なお世話だと思うこともある。それでも、どちらかが何も言わなくなったら、かえって落ち着かないだろう。
「……昨日、ケストレルの連中と話したんだ」
エリオットが不意に声を落とした。カラムはパンをちぎる手を止める。
「東部の状況か」
「ああ。地上の連中、かなりきついらしい。補給路を守るだけでも手一杯で、航空支援の要求が増えてるってさ」
「今朝も二機上がっていったな」
「見たよ。あいつら、昨夜も飛んでたはずなんだけどな」
エリオットはフォークの先で卵料理を崩した。視線は皿に落ちているが、食欲がなくなったわけではない。ただ、言葉の置き場所を探しているようだった。
「ケストレルの隊長が言ってた。地上の部隊に、あと何日持ちこたえればいいのかと聞かれたそうだ」
「……それで?」
「答えられなかったってさ」
カラムは黙った。燃料が何日持つかなら計算できる。弾薬や交代要員がいつ到着するかも、多少の遅れを見込んで答えられる。だが、あと何日耐えれば戦争が終わるのかと聞かれても、現場の指揮官には約束できない。
「向こうも疲れてるんだろうな」
「ああ」
エリオットは窓の外へ目を向けた。食堂の向こうを補給車両が走り、その後ろから工具箱を抱えた整備員が横切る。彼らはニュースを見上げることもなく、それぞれの仕事へ向かっていった。
「……終わると思うか?」
主語のない問いだった。カラムには、何について聞かれたのか分かっている。
「交渉か」
「ああ」
「分からん。だが、決まってほしいとは思う」
「珍しく素直だな」
「俺だって、好きで戦争してるわけじゃない」
「知ってるよ」
短く答えたエリオットは、それ以上何も言わなかった。二人はしばらく黙って食事を続ける。カラムはパンを口に運び、窓際を横切る車両の影を目で追った。エリオットが皿を片づけるまで、無理に会話を続けることはしなかった。長く付き合っていれば、黙ったまま食事を終える朝があっても不思議ではない。
次の休暇がいつになるかは分からない。休めるなら少しくらい寝坊をして、読みかけの本を片づけ、故郷で母親の料理を食べたい。エリアスと馬鹿な話をして、犬たちに構われる。それくらいのことを考えても、罰は当たらないだろう。
エリオットは向かいで何も言わず、水を飲んでいた。
午前十一時二十六分。
第一ブリーフィング室へ入ると、冷えた空調の風が頬を撫でた。照明は半分ほど落とされ、正面のスクリーンには共和国東部から南部にかけての戦況図が投影されている。
前方には作戦士官、その後ろに第十七飛行隊の搭乗員が並んでいた。整備幹部や作戦計画に関わる士官の姿もある。午前の説明が延期された理由は、ここへ集められた顔ぶれを見ても分からなかったが、通常の飛行前説明ではないことだけは明らかだった。
カラムは二列目の中央に腰を下ろした。隣がエリオット、通路を挟んでアドリアンとルーカス。後方では遅れてきた搭乗員が席につき、椅子の脚が床を擦る音を立てた。普段なら始まる前から何かしら声が飛び交う場所だが、今は誰も大きな声を出さない。
スクリーン上では、青が共和国軍の保持地域を、赤がタヴレン連邦軍の進出範囲を示していた。線は幹線道路や河川、都市部を避けるように曲がり、ところどころで不規則な歯形を作っている。双方の位置が確認できていない区域は、別の色で塗られていた。
南部には海岸部から内陸へ伸びる主要道路がある。複数の橋梁を渡って後方の安全地域へ至る、民間人退避の経路だ。沿道の都市からは今も住民が運び出されている。さらに東には、防御線を維持するための道路結節点があった。そこを失えば周辺の補給路まで危険に晒される。
カラムは二つの地点を見比べた。どちらも守るべき場所で、しかも互いに離れている。片方へ航空戦力を振り向ければ、もう片方の余裕が減ることは、地図を見るまでもなかった。
前方の扉が開いた。
レナードが入室すると、室内はすぐに静まった。演台の前へ立ち、手元の資料を一度だけ確かめる。四人だけの待機室では柔らかく響いた声が、ここでは飛行隊全体へ向けられることになる。カラムには、その違いがよく分かっていた。立ち姿は普段と変わらない。ただ、最初の一言が出るまでに、いつもより少し長い間があった。
「全員、揃っているな」
答礼と確認が済むと、レナードは顔を上げた。
「今朝、政府から統合軍司令部へ正式な通達があった。タヴレン連邦との停戦協定について、最終的な合意が成立した」
誰もすぐには反応しなかった。投影機の動作音が、急に大きく聞こえた。カラムの隣でエリオットが組んでいた腕をゆっくり解く。通路の向こうではルーカスが背筋を伸ばし、アドリアンはスクリーンを見つめたまま動かなかった。
──停戦。
食堂のモニターには、幾度となく映っていた言葉だった。けれど今、それを告げているのはニュースの解説者ではない。自分たちの隊長が、命令を伝える場で口にしたのだ。
カラムは戦況図へ視線を戻した。青い線と赤い線の位置は、昨日とほとんど変わっていない。誰かが協定書に署名したからといって、前線がひとりでに後退するわけではなかった。
「停戦の発効は三日後の正午。正式発表は本日正午に政府から行われる。それまでは部外秘だ」
レナードは全員へ情報が行き渡るのを待ち、それから続けた。
「発表後も、直ちに戦闘が停止するわけではない。協定に定められた発効時刻まで、双方の軍は現在の交戦規定の下で行動を継続する」
スクリーンの表示が切り替わり、南部の避難経路と東部の道路結節点が強調された。
「今回の協定には、重要な条件が一つある。停戦発効時点の接触線が、以後の暫定的な境界線として固定される」
カラムはその言葉を頭の中で反芻した。三日後の正午、それまで動いていた前線が、暫定とはいえ境界として扱われる。境界が決まるまでは、そこへ至る地上の一歩一歩に意味が生じる。
「……つまり、連中は最後まで前進してくるってことですね」
エリオットが口を開いた。レナードは否定せず、赤い線の先端を指した。
「そう考えておくべきだ。連邦軍は既に南部と東部で圧力を強めている。停戦を見越した行動なのか、以前からの作戦を継続しているだけなのか、現時点では断定できない。ただし、我々の対応は変わらない」
避難経路が大きく映し出される。
「ここでは民間人の退避が続いている。道路の輸送能力には限界があり、一か所でも封鎖されれば後続の車列は動けなくなる。東部では、防御線を維持するための補給路が依然として重要だ」
指示棒の先が、二つの地点を順番に捉えた。
「どちらも、停戦発効時に失われていては取り戻すことが難しくなる」
南部の衛星画像には、一本の橋に車両が連なっている様子が写っていた。大型バスと貨物車、それらの間を埋める乗用車。上空から見れば小さな点にすぎないが、点の一つ一つに人が乗っている。窓際の席から飛び出せばすぐ届きそうなほど鮮明な画像なのに、誰が無事に橋を渡ったのかは分からない。画面の隅にある撮影時刻は、既に数時間前だった。
橋の両側には住宅地が広がり、交差点まで車列が延びている。もしこの上空で敵機への対処を求められたとしても、使える兵装と交戦位置には制約が生じる。敵を追うことと、地上の人間を守ることは、必ずしも同じではなかった。
「交戦規定に変更はありますか」
アドリアンが手を挙げた。質問をする前に一度だけ手元の資料を確かめたのが、カラムには見えた。作戦の方針に異を唱えたいのではない。今日の飛行にも適用される条件を、曖昧なままにしたくないのだ。レナードは彼の方へ向き直った。
「現時点ではない。敵の攻撃が継続する以上、必要な武力行使も継続する」
「了解しました」
「ただし、全員に徹底しておく」
レナードは声を張り上げなかった。それでも室内の物音が収まり、誰もが続きを待った。
「停戦が決まったからといって、警戒を緩めるな。逆に、残された時間が短いからといって、不要な危険を冒すことも認めない。敵機を撃墜すること自体が任務の目的ではない。我々が守るべき空域と、そこにいる人間を見失うな」
室内を見渡す視線に、誰も言葉を返さなかった。カラムは膝の上で組んでいた手を解く。撃墜数は報告書に残る。だが、戦果を重ねた末に橋を失ってしまえば、その数字にどれほどの意味があるだろう。
スクリーンの車列へ、もう一度目を向ける。いつか帰るつもりの家を、今まさに離れている人間たちがそこにいた。
「中佐」
ルーカスが手を挙げた。朝、誰より大きな声で挨拶していた少尉は、今は真っすぐ演台を見ている。
「三日後には、本当に終わるんでしょうか」
前方で誰かが椅子を軋ませた。率直すぎる問いではあったが、笑う者はいない。カラムも同じことを考えていたからだ。レナードは少しだけ表情を和らげ、ルーカスを見た。
「少なくとも、両政府はそのように合意した」
「……そうですか」
「期待することは構わん、ジンクス。むしろ、終わってほしいと願うのは当然だ。だが、その願いと飛行中の判断は分けて考えろ」
「了解しました」
ルーカスは背筋を正して答えた。レナードは頷き、室内全体へ視線を戻した。
「希望を持つなとは言わん。ただし、希望だけで戦闘機は飛ばせない」
説明はその後も続いた。連邦軍航空戦力の活動状況、早期警戒機の運用計画、友軍の即応態勢。補給能力に余裕のない基地、使用を制限されている滑走路、整備上の問題を抱えた機体。書類に並ぶ燃料の残量や稼働機数には、昨日と変わらない数字も多い。
変わったのは、その数字をやり繰りする時間に終わりが設けられたことだった。
三日後の正午。
こちらだけでなく、敵もその時刻を知る。カラムは戦況図にある二つの地点を見比べた。地図の上なら、どちらにも戦闘機の記号を置ける。しかし、現実の機体には燃料の限りがあり、同じ時間に二つの空域へ存在することはできない。
質疑応答が終わる頃には、停戦という言葉の響きも、最初に耳にしたときとは少し違っていた。
作戦説明の終了が告げられ、室内に抑えたざわめきが広がる。エリオットは席に座ったまま、まだスクリーンを見つめていた。
「……ようやくか」
誰に向けた言葉でもなかった。カラムは隣で小さく頷く。
「ああ」
「長かったな」
「そうだな」
「三日か」
「短いようで長いな」
エリオットは口元を歪め、背もたれへ身体を預けた。
「飛んでりゃ、嫌でも長く感じるだろうよ」
返す言葉は見つからなかった。通路の向こうでは、ルーカスがアドリアンに何かを尋ねている。アドリアンは資料の一か所を指して説明し、ルーカスが真剣に頷いた。数時間前には大きなパンを頬張って笑っていた男も、今は次に必要な情報を確かめている。
カラムは二人の様子を見て、それから静かに席を立った。
正午。
政府の公式発表が始まった。待機室のモニターに首都の会見場が映し出され、政府代表が停戦協定の成立を説明している。画面の下部には発効時刻と協定の主要条件が繰り返し流れていた。
談笑していた搭乗員が口を閉じ、通信室から戻った士官が入口で足を止めた。誰かの端末が震え、続いて別の端末にも通知が届く。遠い故郷でも今、同じ知らせを目にしている人々がいるのだろう。壁際の時計は正午を数分過ぎていた。
画面の向こうで政府代表が質問に答えている間も、作戦棟の電話は鳴り続けた。外から輸送機のエンジン音が聞こえる。滑走路へ降りたらしく、しばらくすると音の高さが変わった。
画面の中では、戦争が終わろうとしていた。窓の外では、戦争を続けるための仕事が一つも止まっていなかった。
停戦の発効まで、七十二時間を切った。
カラムはモニターから目を離し、自分の端末を一度だけ見た。いずれ家族から連絡が来るだろう。母親も弟も、この報道を見ているはずだ。今すぐ知らせたいことがあるような気もしたが、何を言えばいいのかは分からなかった。
終わりが見えた分だけ、そこへ至る時間がかえって遠く感じられた。
「……終わるんですね」
ルーカスがぽつりと口を開いた。いつもの明るい声ではない。モニターの光を受けた横顔には、喜びよりも戸惑いが浮かんでいた。
「終わるさ」
カラムはそう答え、少しだけ間を置いた。
「……きっとな」
ルーカスは小さく頷いた。しばらく黙っていたが、やがて何かを思いついたようにこちらを見た。
「大尉」
「何だ?」
「終わったら、何します?」
唐突な質問だった。カラムは考え、思い浮かんだものをそのまま口にする。
「寝る」
「えっ」
「誰にも起こされずに、好きなだけ寝る」
ルーカスが吹き出した。重くなりかけていた待機室の空気が、その笑い声で少し緩む。
「それだけっすか?」
「本も読む。コーヒーも淹れる。気が向いたら散歩でもする」
「地味っすねぇ」
「平和って、そういうものだろ」
ルーカスはもう一度モニターを振り返り、そこに映る会見場を眺めた。少ししてから、納得したように笑う。
「……確かに」
横で聞いていたエリオットが、待ってましたとばかりに口を挟んだ。
「俺は絶対、休暇取って街に出るね。いい酒飲んで、旨いもん食って、しばらく飛行機のこと忘れる」
「三日で禁断症状が出るぞ、お前」
「うるせぇよ」
カラムは笑いながらルーカスの方へ向き直った。
「ルカは?」
「実家帰ります!ティアゴとイネスが待ってるんで」
「弟と妹だったな」
「はい。もうずっと、帰ったら遊びに連れてけって言われてて。ティアゴなんか、行きたい場所を全部書き出すって張り切ってるんですよ」
ルーカスは端末を取り出し、写真を一枚表示した。色鉛筆で描かれた飛行機の絵だった。翼の形はお世辞にも正確と言えず、数えると左右で枚数まで違っている。だが垂直尾翼には黒い鳥らしきものがいて、その横には不格好な字で兄の名前が書かれていた。
「イネスが送ってきたんです。俺の飛行機だって」
エリオットが椅子を寄せ、画面を覗き込んだ。
「おお。ちゃんとワタリガラスがいるじゃねぇか」
「そうなんすよ!」
「……これ、随分と翼が多いな」
「そこは七歳なんで!」
ルーカスは大笑いして端末をしまった。描いた本人はきっと大真面目だったのだろう。絵を馬鹿にされても怒らず、むしろ嬉しそうに見せているところが、いかにも彼らしかった。
「いい絵だな、ルカ」
アドリアンの言葉に、ルーカスは勢いよく頷いた。
「でしょ?」
その笑顔を見て、カラムは自分の弟を思い出した。エリアスも幼い頃は飛行機の絵を描き、兄が帰省するたびに覚えた機種の名前を得意げに並べたものだった。二十四歳になった今ではそんな絵を見せてこないが、帰ればきっと、昔と同じように「兄貴」と呼ぶのだろう。
「ノックスは?」
エリオットが尋ねると、アドリアンは資料から顔を上げた。
「俺も、まずは家族に会いたいですね」
「あぁ、お姉さんに?」
「ええ。帰省すると伝えたら、俺より先に予定を決められると思います」
「お前も結構振り回されてんだな」
「昔からですから」
アドリアンはさらりと答えて端末の画面を閉じた。言葉だけを聞けば姉に振り回されているようだが、画面を伏せる手つきはいつもどおり丁寧で、口元にはかすかな笑みが残っている。彼が家族について多くを語ることはない。それでも、帰る先のことを考える顔は分かりやすかった。
「でも、帰ってこいと言ってくれるうちは、ありがたいものですよ」
口にした本人は、特別なことを言ったつもりもないらしい。次の勤務に必要な資料を揃え、更新された欄へ目を通している。カラムは返事をしなかったが、その言葉は妙に耳に残った。
エリオットがわざとらしく肩をすくめた。
「なんだよ。みんな優等生みてぇな答えだな」
「お前だけだぞ、飲んで遊ぶことしか考えてないの」
「俺は正直なだけだっての」
四人が笑った。そこへ廊下から電話の呼出音が届き、誰かが足早に応答する声が続いた。カラムは何気なく時計を見た。
午後一時を少し過ぎている。政府の発表から、まだ一時間ほどしか経っていなかった。
待機室の扉が開き、通信担当士官が顔を覗かせた。
「リード大尉。ヘイル中佐がお呼びです」
カラムは端末を手に取り、椅子から立ち上がった。
「了解した。すぐ行く」
エリオットが顔を上げる。
「何だろうな」
「行ってみれば分かるさ」
カラムはそう答え、待機室を出た。背後でルーカスの笑い声がもう一度聞こえたが、廊下へ出て扉を閉めると、すぐに遠くなった。
レナードの執務室は作戦棟の二階にあった。カラムが扉をノックすると、入室を許可する低い声が聞こえる。室内には紙とインクの匂いがあり、机の上には読みかけの資料が積まれていた。壁に掛けられた部隊章の下では、共和国南東部の地図が広げられている。
「リード大尉、参りました」
「掛けてくれ、ブック」
レナードは椅子を勧め、手元の資料を一枚引き出した。その拍子に、机の片隅に置かれた写真立てがカラムの目に入る。私服姿のレナードと、小柄な女性が肩を並べて写っていた。
レナードの妻の写真だった。かつて戦闘機を操り、今は空戦戦術を教える立場にいる。カラムたちも何度となく彼女の指導を受けてきたが、その講評はなかなか容赦がない。訓練記録を前にして淡々と指摘を並べられた日を思い出し、カラムは思わず苦笑しかけた。
写真の女性は、そんな教官とは思えないほど気楽に笑っていた。隣のレナードも穏やかな顔をしている。
「前方展開を命じられた」
レナードの声に、カラムは視線を戻した。指先が地図上の一点を示す。
「南東方面の前線基地だ。明朝、五機で進出する」
「五機、ですか」
「ああ。私も飛ぶ」
カラムは椅子から少し身を乗り出した。ヴァレントから南東へ延びる飛行経路の先に、小規模な航空基地が記されている。分散運用のために使われ、これまでも幾つかの部隊が交代で展開していた施設だ。
主滑走路は一本。燃料と兵装の補給はできるが、駐機場所にも整備設備にも余裕がない。ヴァレントなら隣の格納庫から持ってこられる機材も、現地では人と一緒に運ぶ必要がある。しかも、敵の活動空域に近かった。
「現地では空域防護と即応支援に当たる。任務の詳細は到着後に割り当てられる予定だ」
「整備支援はどうなっていますか」
「地上要員と必要な機材を別便で移動させる。先遣隊の手配は既に始まっている」
レナードが資料を一枚めくった。
「ヴァレントに残る機体は、現在の即応任務を維持する。飛行隊全体を動かすわけではない。今回、前方展開するのは私が直接率いる五機だ」
「了解しました」
「展開期間は未定。停戦発効まで現地に留まる可能性もある」
前線基地は、南部の避難経路にも東部の道路結節点にも手が届く位置にあった。合理的な配置ではある。しかし、どちらへも飛べることと、両方を守り切れることは違う。カラムは地図上の距離を目で測った。
「南部と東部、どちらを担当することになりますか」
「まだ分からない。状況次第では両方だ」
「……厳しいですね」
「そうだな」
レナードはあっさり認め、別の資料を表示させた。前線基地の航空写真には、滑走路を中心に駐機施設と誘導路が細い線として写っている。基地の周囲を低い丘陵地帯が取り囲み、その向こうには小さな集落が点在していた。
カラムは画像の更新時刻を確かめた。昨夜のものだ。
「現地について、一つ気になる報告がある」
「何でしょう」
「昨夜、基地周辺で敵の偵察活動が確認された。航空写真の撮影を目的とした無人機とみられている」
カラムはもう一度航空写真へ目を向けた。滑走路の白い標識まで判別できる鮮明さだった。同じ施設を、敵も観察していたかもしれない。
「施設配置の確認ですか」
「可能性はある。直接の攻撃兆候は確認されていないが、基地側は警戒態勢を引き上げている」
レナードの指先が滑走路の端を示す。一本しかない主滑走路は、図面上では単純な線でしかなかった。
「移動飛行の経路と代替着陸先は、出発前に確定させる。だが、現地を拠点に作戦へ出るとなれば話は別だ。周辺の飛行場は受け入れ能力に制約がある。任務ごとの代替先は、燃料と一緒に再計算しなければならん」
「空中給油機は?」
「東部の任務にも割り当てがある。使えるとしても、こちらの希望どおりの時刻とは限らない。給油機が来る前提だけで飛行計画を組むな」
カラムは頷いた。遠くから見れば、離陸した戦闘機はどこへでも飛んでいけそうに見える。だが、何分飛べるか、どこへ着陸できるか、どの時刻に補給を受けられるか。そのどれもが揃わなければ、任務にはならない。
「現地での出撃は、毎回帰投先の見積もりから始める必要がありますね」
「そのとおりだ。離陸前に、その日の条件で確認する」
「了解しました」
カラムは必要事項を端末へ記録した。地図の上なら線を引くだけで戦闘機を動かせる。現実には、その一本の線を飛ぶために、燃料、兵装、整備員、地上管制、予備の着陸先が必要になる。どこか一か所が滞れば、残りが揃っていても飛べなかった。
レナードは端末を閉じ、椅子へ深く腰を下ろした。
「ブック。君には搭乗員の準備状況を確認してもらいたい。機体の状態、携行資料、現地で必要になる情報。地上要員との調整も頼む」
「了解しました」
「ただし、全部を一人で引き受けるなよ」
カラムは顔を上げた。レナードの口元には薄い笑みがある。
「君は放っておくと、最後まで仕事をしている」
「中佐に言われるとは思いませんでした」
「それもそうだな」
レナードが笑うと、目元の皺が深くなった。いつもは厳格な指揮官も、こういうときには年齢相応の柔らかさを見せる。その笑みが消える前に、彼は再び地図へ目を向けた。
「明朝、我々が向かうのはまだ戦場だ。三日後に停戦が発効する。それは確かだが、その三日間に何が起きるかは分からない」
「はい」
「今日できることを確実にやっておく。余計な仕事を増やす必要はないし、疲労を抱えた搭乗員を前線へ送る理由もない」
そこでレナードは言葉を切り、カラムの顔を見た。
「君自身も含めて、だ」
カラムは苦笑した。任務の準備を万全にすることと、あらゆる項目を自分の手で確かめなければ気が済まないことは違う。理屈では分かっている。分かっていても、誰かに仕事を任せたあと、つい結果を覗きに行きたくなるのが厄介だった。
「……了解しました、中佐」
レナードは頷き、机の資料を揃えた。カラムが立ち上がると、もう一度だけ呼び止める。
「ブック」
「はい」
「明日は五機で飛ぶ」
すでに告げられた命令だった。それでもレナードは、カラムの返答を待つように一拍置いた。
「五機とも、現地へ届けよう」
景気づけでも、無事を保証する言葉でもない。五機を送り出し、五機を前線基地の滑走路へ降ろす。そのために残された時間を使えという、指揮官としての指示だった。
「了解しました」
カラムは敬礼した。退室する前に、写真立てへもう一度目を向ける。写真の女性は夫の腕に片手を添えて笑っていた。レナードにも、この部屋の外へ出れば帰る場所がある。
扉を閉めると、廊下の向こうでまた電話が鳴っていた。
停戦までは、七十二時間を切っている。その前に、自分たちは前線へ向かう。矛盾しているようで、軍の命令としては何一つ矛盾していなかった。
午後三時を少し回った頃、待機室には再び四人が集まっていた。西日が机の上に長い影を落としている。朝には空欄だった勤務表示には、翌朝の前方展開を示す指示が追加されていた。
カラムは展開命令の写しを机へ置いた。紙が卓上に触れる乾いた音で、残りの三人が顔を上げる。
「明朝、五機で前線基地へ移動する。中佐が一番機、俺が二番機。以下、パッチ、ノックス、ジンクスの順だ」
「全員か」
エリオットが書類を手に取り、記された名前を確認した。
「ああ。現地では即応待機に入る。どの程度飛ばされるかは、向こうの状況次第だ」
「例の停戦絡みですかね」
ルーカスが尋ねた。さっきまで机に置いていた菓子の包みは片づけられ、代わりに端末と筆記具が揃えてある。
「無関係じゃないだろう。ただ、今は準備が先だ」
カラムは画面を切り替え、移動前に必要な確認項目を示した。飛行計画に関する欄には、作戦室で調整中の表示が残っている。
「移動飛行の計画は作戦室で調整中だ。経路、燃料、代替着陸先は出発前に確定させる。俺たちはまず、各機の準備と個人装備の確認を終わらせる」
「予備機なし、五機きっかりか」
エリオットは文面を読み直し、短く息を吐いた。
「ああ。ヴァレントに残る機体も即応待機を続ける。向こうで一機でも動かせなくなれば、その分だけ出せる戦力が減る」
「整備班との連絡を密にしないといけませんね」
アドリアンは既に自分の端末へ資料を開いていた。到着予定時間帯の気象情報と周辺飛行場の一覧が、比較しやすいように並べられている。カラムが指示を出すより先に、確認すべきところを整理していたのだ。朝の待機室で更新時刻を気にしていたのも、こういう準備に繋がっている。
「だから仕事を分ける。現地での任務に使える代替先と補給条件は、最新情報が入り次第更新する」
「それなら、気象から報告します」
アドリアンは画面を三人へ向けた。
「明朝の予定時間帯なら、雲底と風は許容範囲と見ています。ただし、到着までに更新される予報は再確認が必要です」
「助かる。ノックスは気象と代替着陸先の更新を追ってくれ。作戦室の最終計画とも照合しておきたい」
「了解しました」
「パッチは装備と任務資料の確認を手伝ってくれ。整備班との調整は俺が持つ」
「おう」
「ジンクスは、各自の携行装備と資料の更新状況をまとめてくれ」
「了解っす!」
ルーカスは返事をするなり一覧を開いた。さっきまであれほど大きな声で話していたのに、作業に入れば端末へ視線を落とし、項目を一つずつ照合していく。分からない箇所は自分で確かめ、確認が必要なものだけを印で残した。笑顔の印象が強いせいで見落としそうになるが、こういう仕事ぶりも彼の一部だった。
カラムは不思議に思い、少し離れた位置から声を掛けた。
「……嬉しそうだな」
「え?」
「前線へ行くんだぞ」
「分かってますよ」
ルーカスは顔を上げた。問いの意味を測りかねたように眉を動かし、それから何でもないことを告げる口調で言った。
「でも、やっと五人揃って飛べるじゃないですか」
エリオットが口元を緩める。
「おいおい、遠足じゃねぇんだぞ」
「そんなつもりじゃないっすよ。ただ……」
ルーカスは少し言葉を探した。手元の端末を置き、カラムたちを一人ずつ見た。
「中佐も、ブック大尉も、パッチ大尉も、ノックス中尉もいるんで。ちゃんとやれます」
カラムは一瞬、返事を忘れた。ルーカスは難しいことを言ったつもりもないのだろう。すぐに資料へ目を戻している。しかし、朝の待機室で訓練記録を何度も見返していた背中と、今の言葉とが重なった。
彼は自分の判断を疑い、できなかったことを悔やみ、それでも次の飛行へ備えていた。そして今、当たり前のように四人を信頼している。
「……ああ」
遅れて返事をすると、ルーカスが顔を上げた。
「頼りにしてるよ、ルカ」
「はい!」
弾んだ返事にエリオットが笑う。
「よかったな、ジンクス。褒められたぞ」
「何すか、その言い方!」
「お前、ほんと嬉しそうだな」
「そりゃ嬉しいですって!」
アドリアンも小さく笑った。ルーカスは少しだけ照れたように視線を落としたが、すぐに担当した一覧を開き直した。仕事を与えられれば、その分だけ顔つきが変わるところも相変わらずだ。
「さて、仕事に戻ろう」
カラムが促すと、四人の表情が自然に引き締まった。
「機体と装備の確認が終わったら、各自休息を取れ。明朝は早い。今日できることと、明日で構わないことを間違えるな」
「大尉」
アドリアンが静かに口を開いた。指示を聞き終わるのを待っていたらしく、端末には既に幾つかの項目が整理されている。
「整備班との調整も、一部はこちらへ回してください」
「お前も仕事があるだろ」
「ええ。ですから、重複している作業を減らしたいんです」
アドリアンは一覧の一部を拡大した。
「装備記録と飛行資料の照合はこちらで確認できます。大尉が個別に回る必要はありません」
エリオットが横から顔を出し、画面を見て笑った。
「ほらな。ノックスの方がよっぽど段取りいいじゃねぇか」
「お前は黙ってろ」
「やだね。俺も同意見だ」
カラムは二人を見比べた。画面に並ぶのは、まさに自分で確認するつもりだった項目である。誰に頼むより自分でやった方が早いと思っていた仕事が、既にアドリアンの手で半分ほど整理されていた。
ここを任せれば、整備班との調整に集中できる。レナードの執務室で交わした言葉を、今さら思い返すまでもなかった。
「……分かった。整備班との連絡は俺が続ける。資料の照合はノックスに任せよう」
「了解しました」
「パッチ、装備の最終確認を頼む」
「おう。最初からそうしろよ」
「うるさいな、パッチ」
「お前が言わせんだろうが」
エリオットは笑いながら自分の端末へ担当項目を送った。そのあとで、一つだけ未確認の欄を指さし、カラムに確認を求める。アドリアンは重複する作業を一覧から外し、ルーカスは携行装備の確認表を引き取った。先ほどまで一人の端末に集まっていた仕事が、四人の手元へ分かれていった。
打ち合わせが終わると、アドリアンとルーカスはそれぞれの担当へ向かった。扉が閉まっても、エリオットだけは席を立たなかった。
「ブック」
「何だ?」
「さっきの話、忘れんなよ」
「忘れないさ」
「本当か?」
カラムは端末から顔を上げた。親友はまっすぐこちらを見ている。いつもなら何かしら余計な軽口を付け足すはずが、その気配はなかった。
「……ああ」
カラムは頷く。
「分かってるよ、エリオット」
タックネームではなく名前で呼ばれたことに気づいたのか、エリオットは少し目を細めた。それからようやく表情を緩め、書類を抱え直した。
「ならいい」
それだけ言って、待機室を出ていった。
午後五時を回る頃には、駐機地区の景色も朝とは変わっていた。舗装面を濡らしていた雨は乾き、昼間の熱がコンクリートからゆっくり抜け始めている。開け放たれた格納庫の奥には整備用の作業灯が点り、車輪付きの機材が床を転がる音が、建物の中へ響いていた。
前方展開を命じられた五機は、それぞれの整備位置で翌朝の飛行に備えていた。カラムは02番機の傍らへ回る。昼間の班に交代しているため、担当する整備員も朝とは別の男だった。
「大尉、お疲れ様です」
「お疲れ。どうだ?」
「順調です。今のところ不具合の報告はありません。明朝の出発前点検を残すだけですね」
「何か気になるところは?」
「機体そのものにはありません。ただ、向こうでの整備環境が少し気になります」
整備員は記録端末を片手に、機首を見上げた。作業服の袖口には新しい油汚れが付き、手袋の指先はすっかり黒ずんでいる。
「設備も人手も、ここほど揃ってないんでしょう?」
「ああ。持っていけるものも限られてるらしい」
「でしたら、こっちでできることは済ませておきます」
男はそれが当たり前の仕事であるように言い、端末の項目を一つずつ確かめていった。別の整備員が工具を持って近づき、二人で短い確認を交わす。その無駄のない動きを見ていると、自分がここへ来て新たに頼むべきことは、もうなさそうだった。
「助かるよ」
「いえ。飛ばすのは大尉ですから」
整備員は少し笑い、手袋で端末の縁を持ち直した。
「できれば、あんまり無茶な飛び方はしないでくださいよ」
「それは敵に言ってくれ」
「大尉が敵の言うことを聞くとは思えませんが」
「俺もそう思う」
二人は笑った。カラムはデルタ翼の下をゆっくり歩き、外板の補修跡へ目を向ける。交換された部品も、その理由も、整備記録を開けば分かる。だが、操縦席で受け取る微かな振動や、操縦桿に返ってくる感覚のすべてが数字に置き換えられるわけではない。
02番機には02番機なりの癖がある。いつか別の機体を任される日が来るとしても、今はこの機体に自分の身体が馴染んでいた。
明朝の移動先は決まっている。その先で何を命じられ、どの滑走路へ戻ることになるのかは、まだ誰にも分からなかった。
日没が近づくと、ヴァレントの空は鈍い金色に染まった。カラムは作戦棟脇の喫煙所で煙草に火をつけた。建物の影に入ると昼間の熱が薄れ、吸い込んだ空気が喉の奥へ冷たく落ちる。西の空には細い雲が伸び、その下を帰投してきた輸送機がゆっくり降下していた。
着陸灯が夕闇の中に白く浮かぶ。遠くで車輪が接地し、しばらくしてエンジン音の高さが変わった。カラムは煙を吐き出し、携帯端末を取り出した。
弟のエリアスからメッセージが届いていた。
『ニュース見た。停戦、決まったんだな』
少し間を置いて、もう一件。
『母さんも見てた。落ち着いたら連絡くれよ、兄貴』
短い文章だった。七つ年下の弟は、こういうときに妙な気遣いをする。心配していると長々と書く代わりに、普段どおりの調子で連絡を寄越す。それでいて何日も返事をしなければ、遠慮なく文句を言ってくる男だ。
カラムの口元が緩んだ。故郷の家が、思いのほか鮮明に頭へ浮かぶ。
庭に続く扉と、午後の光が差し込む床。大きな身体で悠然と寝そべっているエストレラ・マウンテン・ドッグのウルソ。玄関が開くたび飛んでくるゴールデンレトリバーのアレグリア──家ではたいてい、グリと呼ばれている。
あの犬は相変わらず落ち着きがなく、帰省したカラムを見るなり全身で飛びついてくるに違いない。母親は台所から声を掛け、エリアスが何か余計なことを言って笑う。船乗りの父は今頃、どこの海を航行しているだろう。長い航海の途中なら、停戦の知らせを聞くのも少し遅くなるかもしれない。
犬の爪が床板を鳴らす音まで思い出せたことが、自分でもおかしかった。
カラムは端末へ視線を戻し、短く返信を打った。
『ああ。落ち着いたら連絡する。母さんにもよろしく』
送信しかけて、もう一行付け加える。
『グリに俺の部屋を荒らさせるなよ』
ほどなくして画面が光った。
『もう遅い』
カラムは思わず声を出して笑った。どんな惨状になっているのか、見なくても大方の想像はつく。エリアスはきっと片づける気がないし、母親は犬がやったことだからと笑っているだろう。実際に帰れば文句の一つも言うだろうが、そんな騒がしさが恋しくもあった。
端末を伏せ、滑走路へ目を向ける。停戦が発効しても、すぐ休暇になるわけではない。警戒任務も再配置も、機体の点検も残る。それでも、いつか帰省できるという考えを、今日は笑い飛ばさずに済んだ。
煙草を灰皿へ押しつけたところで、背後の扉が開いた。
「こんなとこにいたのか」
振り向くまでもない。エリオットの声だった。
「探したぞ」
「何かあったか?」
「いや。準備が終わったから報告しようと思ってな」
「わざわざ?」
「お前、そうでもしないと自分で見に来るだろ」
「信用がないな」
「信用してるから、終わったって報告に来たんだよ」
エリオットはカラムの隣へ立ち、誘導路を進む輸送機に目を向けた。金色だった空はいつの間にか青みを増し、滑走路の灯りが一本ずつ目立ち始めている。
「装備の確認は全部終わった。ノックスからも連絡が来てる。気象情報と代替飛行場の資料は最新版で揃えたってよ」
「早いな」
「あいつ、仕事が丁寧だからな。ジンクスも照合を終わらせてる」
「そうか」
「これで俺たちの方は片づいた。あとは整備班の最終報告だけだろ」
「ああ。明朝の確認事項はもう整理してある」
エリオットが横目でこちらを見る。先ほどまでの報告口調が消え、いつもの友人の顔に戻っていた。
「じゃあ、お前も帰って寝ろ」
「分かってる」
「ほんとかよ」
「今日はちゃんと寝るさ」
「そこは信じといてやる」
しばらく二人は黙って滑走路を眺めた。輸送機が誘導路をゆっくり進み、機体の影が向こう側の灯りを覆っては過ぎていく。昼間から途切れることのなかった基地の仕事は、日が落ちても終わらない。
「……なあ、ブック」
「何だ」
「あと三日で終わるんだよな」
「協定どおりならな」
「その言い方、嫌いだわ」
「俺だって好きじゃない」
エリオットは小さく息を吐いた。手すりに軽く寄りかかり、滑走路の向こうを見ている。
「長かったよな」
「ああ」
「終わったら、しばらく戦闘機なんか見たくねぇ」
「どうせ三日もすりゃ飛びたいって言い出すだろ」
「三日も要らねぇかもな」
二人は笑った。エリオットは笑いを収めるとポケットから煙草を取り出し、火をつけた。深く吸い込み、しばらく黙っている。その横顔は、出会った頃から少しずつ大人びてきた。それでも黙り込むときの癖だけは変わらない。
「……明日は、俺がちゃんとついてるからな」
カラムは隣を見た。軽口ならいくらでも返せる相手だったが、その声を聞いていると、今は冗談を言う気にならなかった。
「知ってる」
「お前、たまに忘れるだろ」
「忘れたことはないさ」
「ならいい」
エリオットは煙を吐いた。士官学校の頃から、こういうときだけ余計な言葉を付け足さない。カラムが仕事を抱え込めば止めるし、飛行中に見落としがあれば遠慮なく指摘する。反対にエリオットが熱くなりすぎたときには、カラムがブレーキを掛けてきた。
空でも同じだった。右後方を任せたなら、必要以上に振り返ることはない。自分が見えない場所を誰が見ているのか、確かめ直す必要がない。それは操縦士にとって、決して当たり前のことではなかった。
「……ありがとな、パッチ」
「気持ち悪ぃこと言うなよ」
「礼くらい言わせろ」
「じゃあ飯奢れ」
「安い礼だな」
「高い酒でもいいぜ」
カラムは声を立てて笑った。エリオットも口元を緩め、手すりへ置いた腕を持ち上げる。
「戦争が終わったらな」
「ああ」
エリオットは煙を吐き、もう一度だけ頷いた。
「終わったら、だ」
夜になっても、ヴァレントの灯りは消えなかった。
格納庫では整備作業が続き、地上要員が移動に必要な機材を選別していた。補給担当者は輸送品の一覧を照合し、作戦士官は翌朝の気象情報と飛行計画を更新している。明日飛ぶ五機のために、今夜も誰かが働いていた。
午後七時を少し過ぎた頃、カラムは搭乗員側の最終確認を終えた。現時点で、翌朝の移動を妨げる不具合は報告されていない。出発前点検は明朝あらためて行われるが、各自の携行装備と必要資料については確認が済んでいた。
端末の最後の画面には、飛行する順に五人の名前が並んでいた。階級と姓が揃った表示を、カラムは頭の中でいつもの名前に置き換える。
レナード・ヘイル。
カラム・リード。
エリオット・マーサー。
アドリアン・ヴァレラ。
ルーカス・モレイラ。
第十七戦術戦闘飛行隊《MORROW》。書類の上では、たった五行の記録だった。
けれど、その五行を明日の空へ送り出すために、何十人もの地上要員が一日を費やしている。燃料を運ぶ車両が動き、先遣隊の輸送便が手配され、整備員が外板と機器を確かめ、作戦士官が飛行経路と任務の条件を照合した。
カラムは確認済みの記録を送信し、端末を閉じた。
隊舎へ戻る途中、格納庫の前で足を止める。開いた扉の向こうに、2番機の機首が見えていた。作業灯の下では整備員が二人、記録を照合している。やがて片方が頷き、もう片方が端末へ何かを入力した。
いつもなら、もう一度近づいて状況を聞いていたかもしれない。だが、今日は必要な報告が揃っている。整備班に任せた仕事を、今ここで自分が確かめ直す理由はなかった。
カラムは格納庫へ向けかけた足を止め、踵を返した。
もう、自分の出る幕ではない。
自室へ戻ると、脱いだ上着を椅子の背に掛けた。机には読みかけの本が積まれ、空のマグカップが二つ並んでいる。ベッド脇には畳みそびれた洗濯物があり、ソファには昨日のシャツが無造作に置かれていた。隊舎の一室として、褒められた有様ではなかった。
もっとも、困るのは自分だけだ。誰かを部屋に招く予定もない。
窓を少し開けると、夜の空気が流れ込んだ。遠い駐機区画から、エンジンの低い音が聞こえる。基地の一日は終わっていないが、自分の仕事は終わった。カラムはシャワーを浴び、翌朝着る服と必要な装備を手の届く場所へ揃えた。
机から、朝の待機室へ持ち込んだ文庫本を取り上げる。
帰る場所を探す男の話だった。栞を抜き、ベッドへ腰を下ろして数ページ読む。物語の男は、知らない土地でまた一つ宿を見つけたところだった。旅を続ける理由は、まだ明かされていない。
カラムは栞を戻し、本を閉じた。続きが気にならないわけではない。しかし、今夜はそこまで読む必要もないように思えた。
続きは、帰ってから読めばいい。
文庫本を机の端へ置き、照明を落とす前に携帯端末を確かめる。アドリアンからは必要な照合作業を終えたという報告が届き、ルーカスも装備と資料の準備を済ませていた。どちらも余計な説明のない、簡潔な連絡だった。
エリオットからのメッセージは、さらに短かった。
『寝ろよ、馬鹿』
カラムは笑った。返信を打ちかけて、やめる。返したところで「早く寝ろ」とまた怒られるのが落ちだろう。
端末を伏せ、寝台に横たわる。時計はまだ午後八時を指していなかった。普段ならもう少し本を読んでいただろうし、何か理由をつけて飛行計画を見直していたかもしれない。
だが、明日は早い。
必要な仕事は、もう終わっている。
窓の隙間から、遠いエンジン音がかすかに届いた。カラムは目を閉じる。その夜、彼は珍しく、明日のことを考えずに眠りについた。
翌朝、午前五時。
ヴァレント空軍基地の駐機区画には、五機のタイフーンが並んでいた。
夜明け前の冷たい空気の中、地上要員がそれぞれの機体に取りつき、最後の準備を進めている。作業灯の光は青灰色の外板を鈍く照らし、垂直尾翼に描かれた低視認のワタリガラスを、濡れた金属の上へ浮かび上がらせていた。
01。
2。
03。
05。
カラムはフライトスーツの襟元を整え、ヘルメットを片手に自機へ向かった。夜のうちに短い雨が降ったらしく、舗装面には再び湿り気が戻っている。鼻の奥を刺すような冷気、格納庫から漂う作動油の匂い、地上電源車の唸り。そのどれもが昨日の朝と変わらなかった。
駐機区画の向こうでは、レナードが整備員と資料を確かめている。相手が説明を終えるまで口を挟まず、最後に短く頷く姿は、昨日の待機室で部下たちの顔を見渡していたときと同じだった。
エリオットはヘルメットを脇に抱え、地上要員に何かを言って笑わせていた。だが、相手が示した点検記録にはすぐに目を落とす。アドリアンは一度確認した装備の留め具へ指を滑らせ、ルーカスは担当整備員の説明を聞き終えると、真剣な顔で一つだけ質問していた。
四人の仕草は違っても、誰ひとり浮き足立っていない。カラムはその光景を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
カラムが近づくと、最初にエリオットが気づいて振り返った。
「よう、ブック」
「おはよう」
「よく眠れたか?」
「ああ。お前のおかげでな」
「そりゃどうも」
エリオットは嬉しそうに笑った。昨夜の一文をしっかり読んだことが伝わったのだろう。
「珍しく素直に寝たんだな」
「俺だって、言うことを聞く日くらいある」
「それが昨日でよかったよ」
アドリアンが二人へ会釈した。既に手元の確認項目には、ほとんど印が付いている。
「おはようございます、リード大尉、マーサー大尉」
「おはよう、ノックス。準備は?」
「問題ありません。気象情報の更新も確認済みです」
「ジンクスは?」
「大丈夫っす!」
少し離れた場所からルーカスが答えた。いつもの明るい声だったが、装備を持つ手に落ち着きがある。昨日、彼が言った言葉を思い出した。五人揃って飛べることが嬉しいのだと、あんなに簡単に口にできる男だった。
「朝飯は食ったか?」
エリオットが横から尋ねる。ルーカスは当然だと言わんばかりに胸を張った。
「もちろん!」
「一食分だけか?」
「パッチ大尉!!」
抗議の声が駐機区画へ響き、アドリアンが小さく笑った。その声に気づいたレナードが、整備員との話を終えて歩いてきた。
「全員、揃っているな」
四人は姿勢を正した。レナードは一人ずつ顔を確かめる。昨日は司令部から戻ったばかりの上官として、今朝は五機を率いて飛ぶ編隊長として、同じ四人の前に立っている。だが、その声も視線も変わらなかった。既にそれぞれの準備を把握している者の落ち着きがあった。
特別な訓示はなかった。長々とした励ましも、勇ましい言葉も必要なかった。
「予定どおり、前線基地へ進出する。各自、飛行前の確認を確実に行え。現地到着後は、指示があるまで即応態勢を維持する」
「了解しました」
四人の声が揃う。レナードは一度だけ頷いた。
「では、各機へ」
それだけだった。五人はそれぞれの機体へ散っていく。エリオットが軽く片手を上げ、アドリアンはすぐに担当整備員のところへ向かった。ルーカスも機体の横で話を聞き直している。
2番機の傍らには、昨日の朝と同じ整備員が待っていた。作業服の襟を立て、冷えた指先をこすり合わせている。夜勤明けの疲れは薄れていたが、手袋の擦り切れた指先は昨日のままだった。勤務の間に休息を取ったらしく、今朝は目元にも幾分余裕がある。
「おはようございます、大尉」
「おはよう。準備は?」
「完了しています。昼間の班からも、きちんと引き継いでますよ。最終点検も問題ありません」
「ありがとう」
整備員は頷いてから機体を見上げた。作業灯に照らされた機首からデルタ翼へ、視線をゆっくり動かす。
「……向こうでも、よろしくお願いします」
「ああ」
カラムも同じ方を見た。黒に近い青灰色の機体が、夜明け前の空を背負って静かに佇んでいる。誰も座っていない操縦席には、地上の灯りが届いていた。キャノピーの縁に残った水滴が、小さく光っている。
前線基地の滑走路と、その周辺を探っていた敵の無人偵察機。移動飛行に必要な燃料計画と代替着陸先は確定した。それでも、現地で何を命じられるのか、次にどこの滑走路へ降りることになるのかは分からない。
昨日までと同じだった。ただし、今度は終わりの時刻が決まっている。
カラムはヘルメットを持ち直した。
「大切に飛ばすよ」
整備員が笑った。今度は冗談を挟まず、まっすぐこちらを見ている。
「帰ってきたら、また点検させてください」
「そのつもりだ」
昨日の自分なら「努力はする」と答えただろう。だが今朝、そう言い直す気にはならなかった。
整備員は短く頷き、端末を抱え直した。遠くで一機の航空機が滑走路へ進入する。基地内無線から地上要員への連絡が聞こえ、誘導員が作業車両に合図を送っていた。冷えた舗装面には、まだ昨日の雨と同じような光が残っている。
空は暗かった。東の地平線の色が、ほんのわずかに変わり始めている。
停戦まで、残り二日と数時間。
カラムは一度だけ振り返った。
1番機の傍らではレナードが整備員へ短く何かを告げていた。3番機のエリオットはこちらに気づき、手を上げる。4番機のアドリアンは装備の確認を終えて顔を上げ、5番機のルーカスは隣の機体へ向かって声を掛けていた。
五機の垂直尾翼が、同じ方角を向いている。
ダーク・スレートグレーの外板に描かれたワタリガラスは、まだ夜の色を残していた。遠くから差し始めたかすかな光が、デルタ翼の輪郭をゆっくり浮かび上がらせていく。
カラムは静かに息を吸った。
そして、自分の機体へと歩き出した。
南東方面、前線航空基地。
共和国軍の防御線を支えるその基地には、一本の滑走路と、限られた整備施設しか存在しない。
停戦発効まで、残り二日と数時間。
五機のユーロファイター・タイフーンに下された命令は、南東方面への前方展開。任務は空域防護、ならびに友軍地上部隊への即応支援。
しかし、進出先の基地周辺では、既に敵無人機による偵察活動が確認されていた。
移動飛行に必要な燃料、飛行経路、代替着陸先。
すべての確認は終わった。
だが、前線で彼らを待ち受けるものが何なのか、まだ誰も知らない。
夜明け前のヴァレントに、五機の戦闘機が翼を並べる。
古い伝承にその名を残す、五羽のワタリガラス。
その翼が向かう先に、明日はあるのか。
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《 NEXT MISSION 》
MISSION 01:FIRST LIGHT
──夜明けの五機
五羽のワタリガラスは、夜明けの空へ。




