2、オーレリア――黒碧――1
オーレリアの熱が下がったのはウィルフレッドが帰った翌日だった。
(やっぱり兄さまにこれ以上甘えちゃいけない)
オーレリアはエーギルの予言を書いたノートを開いた。
忘れないようにその日のうちに書いておいたのだ。
大切な兄の手を自分から離すのは胸を切り裂かれるように辛い。けれど、嫌われるのだけは嫌だ。依存して甘えて、寄りかかり過ぎてはいずれそうなる。だから自分で立てるよう、今のうちに自分の気持ちの準備をしておくことはとても大切だと思えた。恐らく時間がかかるだろうから。
オーレリアは離宮の護衛の中でも一番歳が若い少年に声をかけた。
「妾は貧民街に行きたい。連れて行け」
「え!?貧民街!?ひ、姫さま、何を」
声をかけられた少年は名をコリンといった。少年といっても今年十六歳になっている。小柄で柔らかい麦穂色の髪と澄んだ榛色の瞳が綺麗な可愛らしい顔立ちのため、十三、四歳にしか見えないのが本人の密かな悩みだ。
コリンは突然姫さまは何を言い出したのだと狼狽していた。
「貧民街なんてダメですよ!危ないです」
「妾は行かなくてはならぬのだ」
「…………それは公務としてですか?それなら隊長から命令が来るはずですが」
「妾はこっそり行きたいのだ」
「ダメに決まっています」
両親や離宮の近衛隊長に言ったら絶対にダメだと言われると思ったからこそ、一番若くて融通の利きそうな相手を選んだのだが、思った以上に石頭だったようだ。
「姫さまはお身体もあまり丈夫ではないのですから。あそこは空気も悪いですし、治安も良くないです。俺一人では姫さまをお守り出来ません」
オーレリアは眉間に盛大に皺を寄せた。
「そんなお顔しないでください姫さま……。なんだって急に貧民街に行きたいと思ったのです?」
「……予言だ」
「予言?」
「なんでもよい!そちは妾を貧民街へ連れて行けばよいのだ」
「無理ですって」
オーレリアの頬がぷっくりと膨らむ。コリンは思わずその頬を指で押してしまった。姫の碧色の瞳がまんまるに見開かれる。
「あ……」
やばい。つい姪っ子みたいに扱ってしまったが、この方は王女殿下だった、とコリンが思い出した時にはオーレリアの顔は何故か紅く染まっており、くるりとコリンに背を向けて走り去っていた。
「え……姫さま!?」
オーレリアが突然走り去ったことよりも、その頬がほんのり紅く染まっていたことが、今まで病弱で我儘な近寄りがたい王女様という認識しかなかったコリンにとって、普通の可愛い女の子なんだなと、少なからず衝撃だった。まんまるに見開かれた瞳も、思い出すとぷっと吹き出しそうになる。
「なんか姫さま、可愛いなあ」
許可なく姫君の頬に触れたことが不敬罪に問われるなどとは想像もしていないコリンだった。
一方、オーレリアは両親や兄姉とは離れて暮らしているためスキンシップに慣れていない。唯一彼女に触れるのはウィルフレッドだ。ウィルフレッド以外に気安く触れられたことがなく、オーレリアは動揺していた。
(何をするのだ、妾の許しもなく)
ほっぺたを押さえたままぐるぐると室内を歩き回る。
秘密の話をするため侍女を撒いて一人で行ったことが間違いだった。どうしていいかわからないが侍女に相談することは出来ない。このことを公にしたら自分が貧民街に行こうとしたことが露見してしまうためだ。それは避けたい。
貧民街。
エーギルに気に掛けろと言われたため、オーレリアは何が何でも貧民街に行かねばならなかった。どういうところなのか、皆目見当がつかないためだ。
(そうだ、妾の目的は――)
目的のためには手段は選んでいられないのだと自分に言い聞かせる。
翌日、コリンが一人になったところを捕まえて、オーレリアは宣言した。
「無礼者!妾のほっぺを許可なく触った罪を咎められたくなければ、妾を貧民街へ連れて行くのだ」
コリンはぽかんとした。
「えーと……姫さま。……それ、そんなに重い罪なの?」
「当然だ!妾は恥辱を味わった!」
「恥辱って……。よくそんな難しい言葉知っているね、姫さま」
コリンはオーレリアの視線に合わせて片膝を付いている。目の前で憤るオーレリアに生暖かい表情を浮かべずにはいられない。ほっぺたを突かれたことが余程恥ずかしかったのか、オーレリアは真っ赤になっている。その林檎のような頬をもう一度突きたい衝動に駆られる。
(なんかもう、かっわいいなあ)
すっかり親近感を覚え、言葉使いも随分砕けたものになっていることにコリンは気付いていない。
「ダメなものはダメです。そんなところへ連れて行く方が咎められる」
「わ、妾は命令しているのだ」
「俺が命令を受けるのは隊長からで、隊長は国王陛下から命令を受けます。陛下がお許しにならなければダメですよ」
「……!頑固な石頭め!ハゲろ!!」
「ひど!姫さま、それは酷いですよ!」
コリンの言うことは正しい。けれどオーレリアには思い通りにいかないことが腹立たしかった。
週末になって、ウィルフレッドと共に国王夫妻が離宮を訪れた。
「リア、私の宝。元気になったようだね。先週熱を出したと聞いて心配していたよ」
国王はオーレリアを抱き上げた。
王妃は微笑んで二人を見守っている。
王女に対して愛情がないわけではないのだ。だが、王宮に住まわせることは出来ない。空気の良い離宮で育てるというのは口実だった。実態は人の少ない郊外の離宮に隔離しているに過ぎない。
王女が病弱なのは、その身に抱えきれない程の魔力を有しているからだった。
小さな身体では持て余す程の魔力。それが王女の身体を苛んでいた。
時折発熱するのは、魔力が高まり過ぎてその熱が身体を燃やすためだった。
国王夫妻は王女を憐れに思った。けれど万が一魔力が暴走して周りを巻き込むことがあってはならない。それを免れるためには郊外に隔離するしかなかったのだ。
幼いながらも聡明なオーレリアはそのことを理解しても淋しさは拭えなかった。両親に会いたくて仕方がなかった。抱きしめられたかった。熱に苦しんでいるときに手を握っていて欲しかった。だからそのすべてをウィルフレッドに求めずにはいられなかった。
だが、予言がオーレリアの意識を変えた。
オーレリアは父親の膝の上に抱っこされていた。
忙しい両親は週末をずっと一緒に過ごせるわけではない。今回は一泊で王城に戻る予定だった。短い滞在期間ということで、出来る限り愛情を注ごうとしてのスキンシップだ。その為今この部屋には王と王妃とオーレリアの家族水入らずで三人だけだ。
オーレリアはスキンシップに飢えていながら、慣れていないため、ドキドキしていた。それにはこれから父親に「お願い」する事柄に対する緊張も含まれているのだろうが。
「お父さま、……あの、お願いがあります」
恐る恐る切り出すと、父親は優しく微笑んだ。
「何だい?リアのお願いは何でも叶えてあげるよ」
甘い父親は小さな王女の髪を優しく撫でる。
オーレリアはごくりと息を飲みこんだ。緊張にからからになった喉をなんとか潤して慎重に言う。
「…………ウィル兄さまの訪問を…………少なくして欲しいのです」
国王と王妃の顔が強張った。オーレリアの「お願い」は完全に予想外だったようだ。
「……リア。ウィルフレッドが何かおまえに意地悪をしたのかい?」
「!!ち、違います!兄さまはとても優しいです!!」
父親の目が見たこともないくらい怖い。オーレリアは震えあがって慌てて否定した。ウィルフレッドには何の落ち度もない。
「兄さまは優しすぎるから……いつも私のことを大事にしてくださいます。でも、毎週城下から、ここまで来るのはとても大変だと思うのです……。それに週の三日もここで私の遊びに付き合わせるのも申し訳ないのです。……兄さまには他にやりたいこともたくさんあるでしょうし……。私は熱を出せば、本当に何も出来ないので……兄さまを独りぼっちにしてしまいます」
「リア…………」
国王夫妻は感動した。
「なんて優しい子…………」
王妃は涙ぐんでいる。
「優しいのは兄さまで、私はずっとそんな兄さまに甘えていただけです」
オーレリアはふるふると首を横に振った。
そう、甘えていて気付かなかっただけだ。ウィルフレッドがどれ程の犠牲を払って自分に会いに来てくれていたのか。男の子とはいえ一つしか違わないウィルフレッドに親元を離れて週の半分も自分の元へ来させていたのだ。馬車で三時間もかかる僻地へ。しかも病人の遊び相手として。元気に動き回ることが出来ない女の子の相手など、退屈極まりないだろうに。
予言がなければ気付かない振りをして、ずっと甘え続けてしまったことだろう。そして将来嫌われてしまうのだ。それが怖かった。だからそれを回避するために今から少し我慢をするだけだ。もう来なくていいとは言えないずるい自分に嫌気がさしても。
(兄さまを失うのだけはいやだ……)
たまにでいいから、会いたい。ウィルフレッドの時間を自分だけに奪うつもりはない。ただ、忘れないで欲しいだけだ。
「ウィルフレッドには言ったのかい?」
父親がオーレリアの瞳を見つめて聞いた。オーレリアは首を横に振った。
「いいえ。…………兄さまは優しいからそんなことを言っても大丈夫だって言いますから」
「……そうか」
国王は思案するように顎を撫でて空を見つめた。
実際、国王からの依頼で王弟である公爵の息子の彼をオーレリアの遊び相手として離宮に派遣している。それは伯父からの甥っ子への「お願い」だったが、彼は臣下の息子でもある。国王命令に逆らえるはずもない。彼が義務感のみでオーレリアの元に通っているとは思わないが、確かに嫌だとは言えないだろうと思う。
「では、オーレリアの遊び相手を増やそう」
「え?」
「ウィルフレッドの訪問回数が減ってしまえば、おまえが淋しくなってしまうからね。他に何人か増やせば、紛れるだろう」
「でも、それではその者たちにめいわくでは……」
哀しげに目尻を下げる娘に国王は笑った。
「迷惑のはずがないだろう。むしろ光栄に思うはずだよ。おまえはとても愛らしいからね。自信がないなら…………そう、彼らに思わせなさい。おまえは自分を磨いて、愛される王女になりなさい」
オーレリアは目を見開いた。
オーレリアの元へ通うことが光栄に思われるように、自分を磨く。
「……どうすれば、いいのですか」
「そのままでも十分可愛いけれど……。そうだね、相手の心を思いやること、相手を大切にすること。相手の望みを知るためには、相手の立場を知らなくてはね。よく勉強することだ」
愛おしむように頭を撫でられて、オーレリアは自分が満たされていくのを感じた。
愛されるよう、努力すればいい。
それは自分に自信が持てず、命令だけで人を従わせようとしておきながらそのことに孤独を感じていたオーレリアにとって天啓ともいえるような答えだった。




