神殿の聖女編2
やっとのことで祈りの言葉を暗唱できるようになったクラリッサは、なんとか国民へのお披露目の日を迎えた。
足を引きずりながら大聖堂の中央を歩くクラリッサの耳に届いたのは、どよめきと嘲笑。ベールを被っているせいで、隣にいるジェレマイアの表情すらよく見えない状態が、彼女の不安をあおる。
ベールの向こうにある世界がどうなっているのか、わからないことがひどく恐ろしい。
大神殿のそとで待ち構えていた多くの国民は、聖女と王太子の登場を喝采で出迎える。大聖堂の中にいた貴族たちとは違った反応に、クラリッサはさらに混乱する。
「おどおどするな。……為政者となるものは、いつでも堂々としていなければならない」
周囲の音で会話を聞かれる心配がないと判断したジェレマイアが、クラリッサの手が震えていることに気づいて叱責する。
彼に悪気がないことはわかっている。彼は幼い頃からそれが当たり前の世界で生きてきて、他者から求められる立ち振る舞いができる人間なのだろう。クラリッサを蔑んでいるわけではなく、単純に聖女に求めるものが多く、早くそうなれと言っているだけだ。
でも野良犬の少女には無理だった。
「はい、王太子殿下」
心と言葉が解離して、クラリッサが本来持っていたはずの前向きな性格がどこかに消え去っていく。
大神殿で目が覚めた日、聖女に選ばれたと知った日に抱いた希望は完全に消失してしまった。
(マティアスは、こんな世界で生きているんだね……)
野良犬だったときのクラリッサには安全や未来はなかったが、自由だけはあった。自由といっても野良犬としての限られた自由だ。でも、その狭い世界しか知らない彼女にとっては、なにをするのも自分の責任で自分の勝手だった。
気の合う仲間とつるみ、がんばって稼げば好きなものを食べられる。未来がないぶん、そのときを自由に生きる。それが彼女の日常だった。
聖女になったクラリッサには一切の自由がない。左足は動かず、行動も言葉も制限される。誰にも縛られるはずのない心すら、そのうち誰かに操られるのかもしれないという恐怖が彼女を支配する。
聖女になってはじめて、彼女はマティアスの孤独を理解した。
古き神殿で建国王の壁画を見ていた彼が、自分とは違うものを見ている気がしていた。あたりまえの話だ。マティアスは本当に、野良犬たちとは違う世界に住んでいたのだから。
(なにもできないのに、そとの世界を知ろうと思ったマティアスは、強い子だったんだなぁ……)
彼に比べてクラリッサは弱かった。ベールの外に広がる世界が、ぼやけて見えないことが恐ろしい。でもクラリッサの姿を笑ったのが誰なのか、目をこらして見ることはできなかった。自分ではどうにもならないことなら、目を閉じて見ないふりをするほうがまだマシだと彼女は考えたのだ。
長い時間をかけて、民の歓声に小さく手をふり応えた二人は、大神殿の最奥の宮へと移動する。
「ちゃんと歩けるのか? ……足が震えている」
ジェレマイアは宮までクラリッサに付き添うつもりのようだ。
「申しわけありません。大丈夫です」
「そうか」
左足はまだ使えない。右足には大きなけがはないはずだが、杖を頼りに片足だけで歩くことに慣れていないことや、極度の緊張でひどく疲れている。
「あっ……」
最奥の宮へとむかうための回廊、おうとつのある石畳の隙間に杖の先が引っかかり、クラリッサは倒れた。
「聖女!」
「申しわけ――――」
「こんな場所でみっともなく倒れるくらいなら、なぜ言わない? ……私に、私に恥をかかせたいのか!?」
二人の後ろには高位の神官やジェレマイアの護衛騎士たちがついてきている。女官しかいない最奥の宮なら、みっともない姿をさらしても、今以上に印象が悪くなりようがない。でも護衛や側近に、未来の王妃の無様な姿を見られるのは、彼にとっては恥ずかしいことなのだろう。クラリッサはそう思って急いで立ち上がろうとする。
「申しわけありませんっ……っ……、立てます! 自分で、自分で……くっ……」
ジェレマイアが杖を拾おうとゆっくりかがむのを見たクラリッサは、急いで杖を引き寄せて立ち上がる。転倒したときに少し左足を使ってしまったようで、動いた瞬間に激痛が走る。
甘えないできちんと歩かなければいけない。痛みと、誰にも頼れない苦しみでポタポタと涙がこぼれる。
「イルマシェ殿と医師を呼んでやれ……」
後ろにいる神官の一人にそう命じてから、ジェレマイアは再び歩き出す。クラリッサはその後ろを必死についていく。
やっとのことで最奥の宮までたどり着くと、アーシェラが出迎えてくれる。
彼女がきてくれたことに安堵したクラリッサは、宮に入れない神官たちの姿が見えなくなったところで、アーシェラにしがみつくようにして泣き出す。
「聖女様!? どうされましたか?」
驚いたアーシェラがクラリッサの肩を抱きかかえるようにし支え、様子をうかがう。
「う、うぅっ……足が痛いの……転んで……それで、足がっ!」
「医師と、イルマシェ殿を呼んである。……早く座らせろ」
宮の中で、一番手前にある応接室だけは許可さえあれば男性も入れる。老神官と医師が訪れるのはその場所だ。
ジェレマイアが応接室の扉をみずから開け、早く中に入れと命じる。
「かしこまりました。さぁ、私がお支えしますからこちらへ」
「う、うん。アーシェありがとう」
ベールをつけたままハンカチで顔をぬぐい、アーシェラが用意した水を飲むと、クラリッサは落ち着きを取り戻す。
ジェレマイアはそのあいだ、ずっと無表情で扉の近くに立ったままだ。
「……お見苦しいところをお見せしてしまい、申しわけありませんでした。二度とこのようなことのないようにいたしますので、ご容赦ください」
「よい、私はそろそろ王宮に帰らねばならない。……しっかり休んで、これ以上悪化させないように」
いちおう許しの言葉を口にした彼の表情は、相変わらずの無表情。
「はい。……アーシェ、私の代わりに王太子殿下をお送りしてください」
「かしこまりました、聖女様」
さっさと帰ろうとするジェレマイアをアーシェラが慌てて追いかける。一人残されたクーは、また孤独を感じて涙をこぼす。
「私、なんでこんなに弱くなっちゃったの……? 怖いよ……誰か助けてよっ!」
誰からも歓迎されていないのに、この場所にいなければならない。クラリッサにとってそれがひどくつらかった。




