神殿の聖女編1
目が覚めてから十日。クラリッサは自分がいかに歓迎されていない存在か、十分に知ることができた。神官も世話役の女官も皆冷たく、外部――――ブリュノたちに無事を伝えたいと言っても、住む世界が違うことを自覚しろと言われて、手紙すら書けない状態だった。
聖女が平民の、それも孤児であることを隠すつもりまではないが、クーという野良犬の存在は消しさりたい。関係者たちがそう考えているのだと彼女は察した。
孤児であったとしても、たとえば神殿の慈善院出身ならばまだよかった。野良犬の巣の住人は国も神殿も救済してこなかった、彼らが存在を否定している人間なのだ。そんな少女が“心清き乙女”だというのは、誰にとっても都合が悪い。
ネオロノーク教の聖職者はみな男性である。クラリッサが聖女として暮らすのは大神殿の最奥にある宮で、女官と王太子以外は基本的に立ち入りが許されない、隔離された場所だった。
アーシェラをはじめとする女官は神殿の所属ではなく、立場としては王宮に出仕している。そこから聖女付きとして大神殿に派遣されている状態だ。
五十年前に選ばれた聖女――――“先代様”は高齢ながら存命だ。聖女付きの女官は、王宮で暮らす先代聖女のもとでしばらく知識を身につけたあと、新たな聖女を迎える支度を整えていた。
「アーシェはなぜ女官になったの?」
「私は下級貴族の娘ですが、父はすでに他界しておりまして。いつまでも兄のもとにいるのは、申しわけないと思いまして」
一年前、最初の神託直後に女官の募集があった。彼女はそれから先代聖女付きとして礼儀作法を学んだということだった。
聖女付きの女官にはいろいろな役割があり、大まかにわけるとアーシェラのように使用人のような雑用をする者と、教育係の二つにわけられる。
皆、同じ地味な灰色のドレスをまとっているが、教育係――――身分の高い者の衣装には白い糸で刺繍がされている。刺繍の有無で役割がわかるようになっているのだ。
使用人のような仕事をしているアーシェラですら、下級とはいえ貴族だということにクラリッサは驚く。
「貴族といっても、見かけ倒しで生活は貧しい……という家も多いんです」
「そうなんだ……そうなのですか」
アーシェラとは比較的良好な関係を築けているクラリッサだが、ほかの女官との関係は散々だ。教師は教えるつもりがなく、無知なことを馬鹿にするために時間を割いているようだ。
単に厳しいだけなら、クラリッサはへこたれたりしない。一座で幼い頃に芸を仕込まれたとき、怒号とげんこつが当たり前だった。ナイフ投げは失敗すれば最悪の場合、人の命を奪うのだから当然だ。
たとえば古語で書かれた聖典の勉強をするとき。彼女がすらすらと読めない、くずし字で訳された教本で学ぶよう強制される。
くずし字は読めないと言えば、教養がないと罵倒され、ではまずはくずし字を教えてほしいと言えば、そんな授業は上からの指示にないという。
たとえば隣国の言葉を学ぶとき、わざと訛った発音を教えられる。
クラリッサが反抗的な態度をとると、聖女としての資質に欠けると半日ねちねちと嫌みを言って、わざと勉強を教えない。
まったく教えないと教育係の能力に問題あり、とされてしまうから「聖女が理解力の乏しい人間である」と説明できる範囲で教えている。
クラリッサが耐えかねて町へ帰ると言えば、老神官がどうなってもいいのかと脅される。――――彼はクラリッサが逃げ出さないための人質なのだ。
今日も憂鬱な一日がはじまるのだと思い、彼女は大きくため息をつく。
「アーシェ、今日の予定はどうなっていますか?」
足はがっちり固定されたままだが、脇で支えるかたちの杖を使えば移動はできるようになっていた。アーシェラに手伝ってもらいながら着替えを済ませ、髪を整える。怪我のせいで浴槽につかることはできないが、毎日髪を洗い、身を清めているクラリッサは、それなりにらしくなったはずだ。
「本日は王太子殿下がいらっしゃるそうです。お勉強は午後からですね」
「王太子殿下ですか……」
聖女として三年の勤めをはたしたあと、クラリッサは彼の妃となる。そのことはすでに説明を受けていた。ただ、納得したわけでも拒否する気持ちがあるわけでもない。正直、どうすればいいかわからないのだ。
もう決まってしまっていることならば、良好な関係を築けるように努力する。会ってみないと始まらない。クラリッサは前向きにそう考えていた。
(マティアス……)
彼のことは考えても意味がないとわかっている。でもクーの心には棘のようなものが突き刺さったままだ。
「聖女様? ご心配なさらずとも、王太子様はご立派なお方だという評判です。あまり緊張なさらずに。そのほうがきっとうまくいきますから」
「そうね……、仲良くなれるとよいのだけれど」
未来の夫のことではなく、もう会うことのない少年のことを考えていた。これではいけないとクラリッサは大きく深呼吸をして気持ちを切り替える。マティアスはもう会えない、忘れなければならない人なのだから。
聖女の衣装は真っ白なドレスで、建国の歴史が描かれた壁画に出てきそうな装いだ。ふわりとした生地に金の縁取りがされ、胸の下のあたりに切り替えがある。袖が大きく広がっているので、手を上げ下げするときにもたついてしまうのが難点だった。
女官と王太子以外の者に会うときはベールをつけなければならず、クラリッサにはそれがとても窮屈に感じられた。
鮮やかに見えていた世界が白くぼやけて見えるのだから。
クラリッサの住む神殿の最奥の宮には、寝室と居間、そして客人を迎え入れるための応接室などがある。今日はその応接室で王太子ジェレマイアと会うことになっていた。
応接室は宮の一番手前にあり、許可された者であれば男性でも立ち入ることができる。義父となった老神官と面会する場合は、この部屋が使われる。
未来の夫であるジェレマイアだけは自由に最奥の宮に入ることが可能で、寝室をのぞけば立ち入りの制限もない。
予定時刻の少し前、教育係の一人が私室にやってきて、応接室でまっているようにと言い残して去っていく。かなり待たされたあと、ジェレマイアの到着が告げられ、クラリッサは立ち上がり杖を支えにしたまま頭を下げた。
カチャリと扉が開く音がしたあと、クラリッサの正面までやってきた人物が静かに告げる。
「名を」
「正式な礼をとれないご無礼をお許しください。このたび、恐れ多くも王太子殿下をお助けするための聖女の位を拝命いたしました、クラリッサ・イルマシェと申します」
「おもてを上げよ」
クラリッサの目の前に立っている人物は、くせのある金髪にアイスブルーの瞳をした少年。目鼻立ちは整っているがどこか冷たい印象だ。
「見苦しいから座ってよい」
ジェレマイアは感情の読み取れない無表情で冷たくそう言い放つ。
(み、見苦しい……?)
一瞬、なにを言われたのかクラリッサには理解できなかった。
「座れと命じたのだが?」
ジェレマイアの表情は無表情から不機嫌に変わる。クラリッサはたった一言言葉を交わしただけで、今後の彼との関係を悟らなければならなかった。
(この人も、歓迎していない側の人間なんだ……。まぁ、当たり前か、あの教育係を用意した側の人間なんだし)
「怪我の具合はどうだ? 後遺症は?」
「はい、お医者様のお話では骨がつながれば歩けるようにはなると。ですが、怪我をする以前と同じには戻らないとのことです」
「そうか、まずは怪我を治すことだな。……本来ならすぐにでも聖女としての職務を行ってもらうはずだったのだから」
聖女としての仕事は毎日ネオロノーク神に祈りを捧げることのほか、王太子の公務への同行などがある。祈りに関してはクラリッサが古語を理解できないうちはまともに行えない。公務に関しても怪我を治して最低限の礼儀作法を身につける必要がある。
「ご期待に添えず、申し訳ありません。いたらぬ身ですが、早くお役目をはたせるように――――」
「そのことだが! 指導役の女官から態度を改めるように言われているだろう」
クラリッサの言葉をさえぎり、ジェレマイアが語気を強める。
「……はい」
「こちらにも話がきている。やる気がない、覚えが悪いと。……覚えが悪いことを咎めることはしないが、態度は改めるように」
相手に教える気がないんだ、と叫びたい気持ちをクラリッサはぐっとこらえる。かっとなって発した言葉で、立場がよくなることなどないのだ。養父となった老神官にも貴人相手に感情的になるなとあらかじめ注意されていた。
「高位の女官は名家の出身で、政治的な意味でも今後うまく付き合っていかなければならない存在だ。あなたは聖女で、私の婚約者なのだから、身勝手な行動は許されない」
相手にその気がない場合、どうすればいいのか。クラリッサが知りたいことを答えられる人物はこの場にはいない。




