プロローグ 踊り狂える程の旨味は毒物で
『お腹が空いた』
皆はきっと俺と同じように毎日、当たり前に感じるこの欲求。
しかし、そのごく当たり前の欲求は例えどんな人格者、どんな聖人であっても抗えない欲だと考える。
一方で、この欲求は面白い。
少しの物であれば食による幸福へと至るためのスパイスとなるのだから。
けれど……ひとたび極度の空腹に陥ればどうだろうか。
みんな同じように狂い散らかす。
そんなことはない。
人の善性はそんなものでは揺るがないという反論があるとしよう。
もし……
もしも世界が優しくて……
皆が堕ちないと証明するのであれば。
俺が幼かった日。
あれほど仲の良かった友が……たった一つの腐りかけのパンを奪おうとするために。
俺の命まで、奪おうとはしないはずなのだから。
「……」
嫌な夢を見た。
ゆっくりと目を開ければグラグラと揺れている。
視界はどす黒い緑と黄緑やらなにやらでまみれている。
「あれぇ……森の中にいたような?」
めまいがひどい。
それに喉も熱い。
水が欲しい。
加えてぼんやりとした手足の感覚。
鈍った嗅覚。
俺は何をしていたんだったか……?
でも、なんだかお腹が空いたなぁ。
腹に手を当てる。
緑色の光が輝き瞬く間に火傷をしたような全身の感覚が退いて意識がはっきりとしていく。
そんな何かが体から抜けていくようなすっきりした感覚の後。
青々しい空気が鼻を通り抜け薪の燃える熱と炭の香ばしい香りが肺を満たした。
「そうだ……食べてたんだ」
左手に握る半分だけかじられた深い藍色に白の斑点で彩られたキノコ。
正式名称、イリュジョニア・ヒュ―ガス。
要約するとやばい毒キノコだ。
「食べた瞬間の幻覚、その後に感覚もなくなったか……それに昔の夢をみていたような……それは良いとして書き留めておこう」
俺は胸ポケットにしまえるほどの一冊の手帳とインクの入った小さな瓶と羽を取り出し急いで書き記す。
「即効性あり。幻覚の後にめまい、感覚の鈍化と視力の低下……と、えっと味は……」
っく……思い出せない。
またあの感覚に襲われるのかと思うとあまり良い気はしない。
でも仕方がない。
これだけは外せないのだから。
「ふふ。もうもう一口」
毒キノコをそっと口へと近づける。
ぶよぶよで、いかにも食欲を掻き立てることのないような見た目。
他の人が見たらきっと、こんなものが美味しいはずないと言うだろう。
だがしかし、事実は違う。
世の中は本当に残酷だ。
こんな見た目をしていようと、どんなにとてつもない毒があろうと……極上に美味しいものは世の中にあるのだから。
ゆっくりと独特な木の香りを鼻の奥に閉じ込めながら咀嚼。
あぁ……これだ。
「美味しい」
とんでもない旨味が口の中を駆け巡り舌を躍り狂わせる。
そんな旨味が心地良い夢を見せてくれる。
もう一口頬張った。
あぁ、やってしまった。
くらくらしてきた。
でもおいぢい。
もうひとぐぢ
「うま」
もうぢょっど……
「うみゃぁ」
あたまが振り子になる。
あぁ……
感覚が鈍る。
そして緑が入り混じった極彩色の世界が再び訪れた。




