01_香
「違うな」
レオンは香炉から立つ煙を嗅いで、首を傾げた。
初めて作る香りのはずなのに、何が違うのかは分かっていた。
ヴァルディア帝国の皇宮、そのさらに奥。
古い城壁と森に挟まれるように建つ、小さな別館。
皇太子の住まいにしては質素で、本館からも遠い。使用人も常駐しておらず、掃除や食事など、必要なときにだけやってくる。
レオンはそれを気に入っていた。
誰も来ない。
誰にも邪魔されない。
別館の奥にある香房にも、今日は彼一人しかいなかった。
壁一面の棚には、大小さまざまな瓶が並んでいる。
ヴァルディアで採れる葉や花、樹脂。交易商を通して、遠い東方から取り寄せた香木もある。
レオンは黒い手袋をした指で、小瓶を取った。
まずは杜松。
青い葉を潰したような、冷たく鋭い香り。
そこへ香柑。
最後に香杉。
柑橘の皮の苦味と、乾いた木の香りが重なる。
「俺はこれくらいでいいかな」
すぐに決まった。
問題は、もう片方だ。
レオンは香水木の瓶を取る。
蓋を開けると、濃密な花の甘さが広がった。
薫衣草をほんの少し。
一滴。
もう一滴。
そこで止める。
何度も作ったことがあるように、指が覚えている。
けれど。
「……違う」
香炉へ二つの香りを移し、熱を加える。
冷たい森のような香りへ、濃密な花の甘さが絡みついた。
悪くない。
むしろ、香としてなら十分に完成している。
それでも違った。
「もう少し甘かったかな」
呟いてから、レオンは笑った。
「いや。怒られるか」
誰に。
答える者はいない。
レオンも答えを口にはしなかった。
別の瓶を取り、ほんの少しだけ加える。
白い煙が揺れた。
今度は。
「……ああ」
目を細める。
甘い。
濃密な花の奥に、青い鋭さと微かな苦味がある。
熱を含んだその香りは、どこか媚薬めいていた。
レオンはしばらく黙っていた。
「これだ」
懐かしい。
黒い手袋をした手を伸ばす。
煙は指先に触れ、そのまますり抜けた。
レオンは目で追う。
「相変わらずだな」
楽しそうに言って、手を下ろした。
香房にはレオンしかいない。
なのに、二人分の香りがする。
しばらくそれを楽しんでから、レオンは立ち上がった。
香房を出る。
廊下にも人はいない。
歩いていくと、古い床板が一か所だけ小さく鳴った。
レオンは気にも留めない。
その先には暖炉のある居間がある。
小さな食事の間。
庭へ続く扉。
二階へ上がる古い階段。
本館に用意された皇太子の居室と比べれば、どれも簡素なものだった。
レオンは食事の間の前で足を止めた。
中を見る。
二人なら十分。
三人でも、まあ座れる。
「……」
なぜそんなことを考えたのか。
自分でもおかしかったのか、レオンは少し笑って歩き出した。
玄関近くの卓上には、明日のための書類が置かれている。
行き先はエルグラン王国。
レオンは一番上の書類を手に取った。
日付を見て、指が止まる。
今度は笑わなかった。
そのとき、玄関の扉が叩かれた。
「殿下」
「どうした?」
「明朝のエルグラン行きについて、最終確認に参りました」
「入っていい」
侍従が扉を開ける。
だが、玄関から先へは入ってこなかった。
「馬車は予定どおり日の出前に出発いたします。十五日の到着予定で、エルグラン側にも連絡済みです」
「あぁ」
「同行者についても変更ございません。それから、先方への贈答品ですが」
「もう用意してあるよ」
レオンはいつもの調子で笑った。
「結婚祝いだからね」
侍従は一瞬だけ顔を上げた。
それでも何も聞かず、残りの確認を済ませる。
「では、明朝に」
「よろしく」
扉が閉まる。
また別館から人の気配が消えた。
レオンは香房へ戻った。
香炉では、まだ二つの香りが混ざっている。
杜松。
香柑。
香杉。
香水木。
薫衣草。
もう、どちらの香りがどちらへ入り込んでいるのか分からない。
レオンは火を消そうとして、やめた。
椅子に座り直す。
明日には、エルグランへ発つ。
「何を着てるかな」
煙を眺めながら、ぽつりと言った。
「髪は……」
そこで止める。
少しだけ考えて、笑った。
明日になれば。
ようやく。
「会える」
誰もいない香房で、レオンは幸せそうに笑った。




