第8話:悪龍との交渉
『まずは、貴様を喰って腹拵えとしようではないか』
蛇のように長い舌を覗かせながら、三つの頭が一斉に一人の女性を定める。
悪龍アジ=ダハーカ。
ペルシアの詩人であるフェルドウスィーが編纂した『シャー=ナーメ』によれば、人間の姿に変身して王宮に住まい、英雄フェリドゥーンに封印されるまでの間、一日二人の人間の脳味噌を貪って1,000年間生活していたと言われている。
人間の姿では若者の脳味噌二人分で済んでいたようだが、さて、空を覆い隠すほどの巨体となった姿では、一日にどれほどの生物を貪れば腹が膨れるのか。
「アジ=ダハーカ。一つ聞いて欲しいことがあるの」
英雄ガルシャースプを遮るようにして女性は悪龍の前に立つ。
「私はこの世界とは別の世界からやってきた人間で、この世界に動物園を作りたいの。そのためにあなたに協力して欲しいんだ」
『動物園?』
聞き馴染みのない言葉に中央の頭が疑問符を零す。
「王族が自分が持っている財宝や宝石を見せびらかすように、いろいろな動物やモンスターを展示して、いろいろな人に見てもらうんだよ」
『それはつまり、』
『苦痛』を司る頭が口を開く。
『人間の私利私欲で動物を捕まえて、死ぬまで拘束するということだろう?そんなことをされて動物は幸せだと思っているのか?』
さすが1,000種類以上の魔法を使えるドラゴン。頭の回転の速さが人智を超えている。
ぐさりと胸に刺さりそうな一撃をもらいつつも、絵理華は口を開く。
「動物の中には人間が保護しないと絶滅してしまうような動物もいて、それらの絶滅しそうな動物の保護・繁殖という役割もあるんだよ。自然界では個体が減ってしまった動物たちを保護し、繁殖し、そして、絶滅してしまいそうであるということを知らない人々に熟知させる。そうすることで、人間と動物がどうやったら共存できるかを考えさせる場所でもあるの」
『……よく分かった』
絵理華の主張が伝わったのか、中央の頭が言葉の意味を吟味するように間を置くと、
『つまり、貴様は我に「畜生と共に首に紲を付けて生活しろ」と言いたいのだな?』
その瞳に憎しみを含んだ色を煌々と燈す。
『そのような下等で下賤な生き物どもと並べてくれるなよ?我が名はアジ=ダハーカ。アンラ=マンユより生み出されし破壊の化身なり!!』
ゾロアスター教によれば、この世界は全て善の神スプンタ=マンユと悪の神アンラ=マンユによって生み出されたものであり、善の神の創造物と悪の神の創造物が絶え間なく抗争を繰り広げる戦場であるとされている。
善悪二元論において、絶対的な悪の神であるアンラ=マンユが生み出したアジ=ダハーカを『悪』とするならば、絶対的な善の神であるアフラ=マズダが用意する善は英雄ガルシャースプか。
『貴様らを始末し、この世界に災厄を与えてやろう!!』
閉ざされた三つの口に違う色の光が宿る。
『苦痛』を意味する口からは全てを焼き尽くす煉獄の光。
『苦悩』を意味する口からは全てを浄化する白亜の光。
『死』を意味する口からは全てを飲み込む常闇の光。
それぞれを司る属性は火・光・闇か。
「退いてろ嬢ちゃん。交渉は失敗に終わったみたいだぜ?ここからは、オレとアジ=ダハーカの世界を賭けた戦争だ。嬢ちゃんに出る幕はねぇ」
肩に戦棍を担いだ英雄は残念そうに言葉を漏らす。
何か手はないのか。
もう戦うことしか道は残されていないのか。
『くくく。その意気やよし。貴様が我の野望を邪魔するというのであれば、戦争開始の号砲は貴様の悲鳴にするとしよう』
絵理華への興味を失ったのか、その矛先が天界の大英雄へと向けられる。
やるなら今だ。
今しかない。
「【テイム】っ!!」
【テイム】を成功するのに必要なのは、その動物やモンスターと仲良くしたいという強い意志。
世界を滅亡させてたまるか。
地上の三分の一の生き物を殺させてなるものか。
自分を優しく迎え入れてくれたガルシャやセレンを傷つけてなるものか!
黒い龍へと手を翳し、スキル【テイム】を発動させる。
『ぐ、ぐおおぉおっっ?!!』
『なっ!なにっ?!!』
『一体何がああっ!!』
三つの頭から放たれた三色のブレスはガルシャの脇ギリギリを通り過ぎ、背後にあった山を一つ燃やし、蒸発させ、溶かす。
「ひええっ!!恐ろしいですう!!」
真っ赤な炎を挙げながらアイスクリームのようにどろりと形を崩し、やがて黒い灰となって霧散していく山を見ながら顔色を悪くしたセレンが呟く。
『おのれっ!!次は外さんっ!!』
原因はあの生娘に違いない。
一発一発が即死級のブレスを口内に充填しながら睨めつける。
『あの山のようにこの世から消してくれるわ!!』
「絵理華さんっ!!」
セレンの叫び声が聞こえるが、【テイム】が掛かっているのだとしたら恐れることはない。
その攻撃を拒否するかのように掌を突き付けると、
「待て!!」
犬を躾けるように一言。
直後、まるで氷漬けにされたかのように黒龍の動きがピタリと止まる。
『なっ?!!』
精神を操作する闇属性の魔法を使われたか?
いや、それよりも高度な魔法か?
いやしかし、そんな素振りも気配も全く見せていないぞ?
1,000種類を超える魔法を知る三つの脳をフル回転させるが、自身の動きが止められた理由を算出できない。
『貴様……。何をした…………?!』
「私の名前は山城絵理華。絵理華って呼んで」
そんなものは知るものか。
次の手を打つべく魔法を唱えようとするが、
『はい、エリカ様!!』
思うように口が動かない。
何が起きている?
一体自分の身に何が起きている?
『貴様ああああぁあああぁぁぁぁぁああああぁぁあああああああああぁぁぁぁぁあああぁぁぁああああああっっっっっっっっ!!!!』
例えば犬の場合、「侵入者を追い払った」と間違った学習をすることで、通行人が通り過ぎるたびに吠えるようになることがある。
このように意味もなく吠えることを『無駄吠え』といい、近所迷惑や騒音対策として、なるべく鳴かないように躾けなければならない。
『絶対に許さぬ!!踏み潰してくれるわあっ!!』
赤い空を覆い隠すほどに巨大な前脚を持ち上げる。
が、
「お手!!」
そう一言唱えた途端、圧倒的な質量と運動エネルギーを持つ前脚の動きは驚くほど遅くなり、上に向けられた絵理華の右の掌の上に鋭い爪の先端が優しく乗せられる。
「あはははははははは!!!!」
世界を滅ぼすはずの巨大なブラックドラゴンが華奢な女性の言いなりになり、まるで飼い犬のようにお手をしている。
シュールな光景に耐えられずにガルシャが空中で腹を抱えて笑い始めた。
「こっ!!こりゃあ傑作だぜっ!!お前はいつから犬になっちまったんだ?!!」
その目尻には涙まで浮かべていた。
「絵理華さん、これって…………?」
「うん」
今にも嚙み殺しそうなほど目を見開いて睨むアジ=ダハーカを後目に、一人の女性は口を開く。
「【テイム】が成功したみたい。今日からアジ=ダハーカは私たちの仲間だよっ!」