2話(1)
アーチにとって母アンジェルを簡潔に表すなら、明るく、優しく、そして強い。それに尽きる。
いつも朗らかに笑っていて、叱られることもあったけどそれは娘を思えばこその優しさであったと、今ではわかる。
何よりアンジェルの強さが印象的だった。
剣術道場は基本的にデフトンが稽古を付けているが、時々アンジェルが門下生の相手をすることもあった。その時の母は圧倒的だった。屈強な門下生たちを相手に圧勝する姿は幼きアーチに大きな衝撃をもたらした。
そんなアンジェルがアーチの憧れであり誇りでもあった。
アンジェルが何故それほど強いのか。アーチからすると母が強いことが当たり前すぎて疑問に思ったこともなかったが、図らずも昨日そのルーツを知ることとなった。
母は世界を救った英雄の仲間だったのだ。
人魔大戦。魔族との戦い。英雄ドルクや父デフトンたちと支えあった日々。それらが母の強さを形作ったのだろう。あの圧倒的な強さが世界を救うために鍛えられたものだと知ると、アーチは母のことをより誇らしく思えた。
そして今度はアーチ自身が世界を救おうとしている。魔族の復活を阻止し、平和を守れるかはアーチの働きに掛かっている。
自分は母のように強くなれているだろうか。自問してみても否と答えるしかない。ただでさえ近頃は稽古をサボり気味だったのだ。世界を背負うには明らかに実力不足であることは自覚している。
だがそれでも。
アーチはやると決めたのだ。聖剣も、想いそのものも、大人たちから託された。旅は前途多難ではあるが悲観はしていない。
やると決めたからにはやるしかない。そうすれば少しは憧れに近付けるかもしれない。
そんなアーチが現在何をやっているかというと、
──猪に追いかけられていた。
「うおおおおおおおおおっ!」
雄叫びに近い悲鳴を上げながら全力疾走するアーチ。そのうしろを二頭の猪が猛烈な勢いで追走する。
どどどどどっ! と、雪崩のような重低音の足音がアーチのすぐ背後まで迫って来ていた。
「ちょっとアーチ! なんとかしなさいよ!」
パラァがアーチの肩にしがみつきながら訴える。
「えーっと、こういうときは……」
アーチは走りながら背中の〈聖剣ヴァーエイル〉を引き抜く。親指で魔石に上へ一本線を引き、点を一度打つ。
「〈符律句〉第十三番、霧散の相!」
ヴァーエイルの刀身から白い霧が発生。大量に噴出されたそれは瞬く間に広がりアーチを覆い隠していく。
突然の濃霧に猪たちは視界を遮られ足を止める。しばらくして霧が晴れると、アーチの姿はなくなっていた。標的を見失った猪は戦意を喪失し、とことこと森の中へと去って行った。
その様子を、アーチは木の上から伺っていた。霧で姿を隠している間に木に登っていたのだ。
「ふぅ~、危ないところだった」
「だから言ったじゃないの! 子供の猪には近付いちゃダメだって」
「だって可愛かったんだもん」
少し前のこと。アーチが森の中を歩いていると、猪の子供を見かけた。パラァの制止も聞かずに興味本位で接近を試みたところ、親猪に見つかり追いかけ回されることになったのだった。
「森の中の危険は魔獣だけじゃないんだから、気を付けなさいよね!」
「へいへい。……口うるさいのはうちの父親だけかと思ってけど、そうでもないみたい」
「何か言った?」
「いやなんにも!」
アーチは逃げるように木から飛び降り軽やかに着地する。
「今ので道に迷ったりとかしてないわよね?」
「ここまでほとんど一本道だったし、大丈夫だと思うけど。一応確認しておくか」
そう言ってアーチはヴァーエイルに新たな〈符律句〉を描く。
「〈符律句〉第三十二番、方位の相」
翡翠色の魔石が輝きを放つと、空中に丸く切り取られた世界の縮小図が浮かび上がった。簡易的に描写された地図の南側に現在地を示す光が小さく点滅していて、アーチはそこを差す。
「うん、とりあえず道は逸れてないみたい」
「今目指してるのはここよね?」
パラァが現在地から少し北方向へ上がったところに灯っている光点を指で示した
「そう、コッパ村。正確にはこの村の近くにある洞窟ね。昨日お父さんに教えてもらった話だと、そこにお母さんが大戦のときに使ってたものがあるんだって。必ず役に立つだろうから持っていけってさ」
昨日旅立つと決めてから、アーチは改めてデフトンとドルクから色々と情報や今後のことについて教わっていた。
「大戦のときに使ってたってことは、戦いに関係するものよね」
「たぶんそう。で、それを手に入れたら次に行くのが──」
丁度いい機会なので、アーチは昨日教えられたことをおさらいがてら説明することにした。投影されている地図に手を翳すと、縮小度が増しより広範囲の地形が表示された。現在地から北へ進んだ地点に触れると光が灯る。
「ここ。名前はたしか……ギヤカニ国、だったかな? お父さんたちはいざという時のために、再封印に必要な予備の魔石を用意しておいたらしくて。ここにそれを預けてる人がいるんだって。その人から魔石を受け取ったら、あとは──」
翳していた手を下へ撫でると地図がスライドし、上方へと進む。北西方向に、大陸から少し離れた場所に浮かぶ島が映し出された。
「この島に行く。名前は、えーっと……あ、そうそうオーマグァ島。この島に魔族が封印されてる祠? ってのがあるんだって。私たちが目指す最終地点はここ」
「随分と遠いわね」
最終目的地となるオーマグァ島は広大な大陸を渡ってさらに海を隔てた先にある。南の端に位置するザブン村からは直線距離にしても大陸ひとつを縦断することになる。歩いて移動するには途方もない距離だ。
「まあ移動手段は追々どーにかするして。とにかく流れとしてはそんな感じかな。お母さんが残したものを探して、魔石を受け取って、最後に魔族を封印する!」
言葉にしてみると容易いようにも思えるが、実際はそう簡単なものではない。ヴァンテラを始めとする魔族の協力者たちの妨害は必ずあるだろう。そうでなくとも旅には危険が付き物だ。アーチもそれは承知している。承知の上で、アーチは楽天的であろうと振る舞う。
何はともあれ前向きに。それがアーチの矜持であった。
「コッパ村までもう近いわよね? 早く行きましょ!」
意気揚々と飛翔するパラァ。しかし何故かアーチの足取りは重かった。パラァが「どうしたの?」と尋ねるとアーチは顔を引きつらせた。
「いやぁ急ぎたいのはやまやまなんだけど……結構歩いたじゃん? さっきも追いかけ回されてだいぶ走ったし、その……臭いとか、さ」
アーチは自身の腕を嗅いで恥ずかしそうに苦笑する。年頃の乙女にとって体臭は死活問題なのである。
パラァはアーチの近くまでもどり顔を近付ける。
「別に気にならないけど」
「でも汗もヤバいしさぁ。せめてどこかで汗流せたらいいんだけど」
「それなら……」
何か思いついたパラァが森の中へと飛んでいく。
「パラァ?」
「ちょっと待ってて!」
パラァの姿はすぐに見えなくなった。それから少ししてすぐに戻ってきた。その顔は嬉しそうにほころんでいた。
「やっぱりあったわよ! こっちこっち」
誘われるままにアーチはパラァのあとについていく。
木々の間を抜けると、そこには水辺が広がっていた。
「すごーい! 最高じゃーん!」
アーチは眼前景色に目を輝かせる。高低差の緩やかな小さな滝が、ざあざあと小雨のような清涼な音を響かせながら止めどなく流れている。下方の滝つぼには水が溜まり小規模な池を作っていた。底が見えるほど綺麗で透き通った水は川へと続き、下流へと運ばれていく。方向からしてこの川はザブン村の海にも繋がっているのだろう。
「ここで汗を流して行けば?」
「お手柄だよパラァ! よくここにこんなのがあるってわかったね」
「フェアリー族は匂いで水のある場所がわかるから」
「マジ最高。じゃあ早速──」
背中に背負っていたヴァーエイルを近くの岩場に立てかけると、アーチはシャツのボタンを外し豪快に脱ぎ捨てる。続けてショートパンツも脱ぎ上も下も下着まで脱ぎ全裸になると「ひゃっほーう!」と池の中に飛び込んだ。慣れた動きですいすいと泳ぎ、水面から顔を出して髪を掻き上げた。その顔はまさに水を得た魚のように生き生きとしていた。
「気ん持ちいい~! 生き返るわ~」
アーチはそう言って体を仰向けに浮かせる。金色の髪が水面に広がり、水に濡れた小麦色の肌が木漏れ日に照らされキラキラと煌めく。見る人が見れば幻想的な絵画にも見えることだろう。
パラァが手のひらで池の水を掬い口に運ぶ。喉を潤してから岩場を振り返るとげんなりした様子で嘆息した。
そこには乱雑に脱ぎ捨てられたアーチの衣服が散らばっていた。
「汗流したかったのはわかるけど、もうちょっと行儀よくできないのかしら」
「パラァは水浴びしないのー?」
「遠慮しておくわ。翅を濡らしたくないもの」
「そっかー」
「それよりもうちょっと控えめに水浴びできないの? そんな恰好で堂々と泳ぎ回って、誰かに見られたらどうすんのよ」
「平気平気~。ここに来るまで誰とも行き会わなかったし、どうせこんなところ通りがかる人なんかいないって」
そう言ってアーチは優雅に池の中を泳ぐ。
森の中からアーチたちの様子を伺う視線があるとも知らずに──。




