(5)新しい未来
――そんなこともあったな。
部屋の中にいけられた桜草を見ながら、俺は思い出していた一年前の苦い記憶を瞼と一緒に静かにしまった。
あの後――リーゼを生き返らせるために、復讐の道に進んだことをなにも後悔はしていない。
だから、かたんと簡素な木の椅子に腰かけた。実家のブルーメルタール公爵家に比べれば随分と質素だが、牢獄の椅子に比べたら、極上品と言っても差し障りのない座り心地だろう。
今いるのは、王太子様の所領になっているとはいえ、数年前までは敵国だった町と村が連なる北方の辺鄙な国境だ。雨風がしのげればもうけものだと思っていた追放先だったが、与えられたのは、意外にも元領主の別宅だというかわいい赤い屋根の館だった。
大きな煙突が二つ並んだ下に、白い壁と煉瓦を組み合わせて作られた外観は、まるで童話に出てくる森の家のようだ。到着して初めて見た時には、さすがにこの土地を管理している父の選択に頭を抱えたものだった。
「まったく……父上も追放先だとわかっているのかな……」
「それに関しては、百パーセントわかった上で、陛下への嫌がらせにここを選ばれたのだと思います」
「だよな……」
側からすかさず答えたギンフェルンの声に、思わず脱力してしまう。
「公爵様はああ見えて、烈火のごとくお怒りでしたので。リーゼ様が亡くなられて、何度も坊ちゃまが死にかけられたこと。本を正せば、リーゼ様に公平な裁判を受けさせられなかったこと。だから、坊ちゃまが復讐に走られて、命を落とされかけた件については、簡単な言葉で纏めれば、『私のかわいい一人息子になにをしてくれる!?』だったと思いますよ?」
「父上……」
公爵家の内部を取り仕切っているギンフェルンがこういうところを見ると、きっと陰では本当に叫んでいたのだろう。思わず手に顔を置くが、側で漂う柔らかな香りに面をあげた。
「ところで、お前は本当に俺についてきてよかったのか?」
予想した父の言動にふうと息をついてから、上目遣いでギンフェルンがさしだしたカップを受け取る。
白磁のカップからあげる湯気の向こうでは、ギンフェルンが少し驚いた顔をしているが、公爵家に比べればここの生活はなにもかもが簡素だ。緑の壁紙を貼られた居間は落ちついていて、慎ましやかに暮らしていくにはむしろ居心地がよいほどだが、ついてきてくれたのが罪人の追放先では、さすがに有能なギンフェルンには申し訳ない気がする。
だが、ギンフェルンはにこっと笑った。
「私の仕事は公爵家で坊ちゃんの身の回りの世話をすることです。ほかの件は執事長にお任せしておりますので」
だから、かまわない。むしろ本望だと笑ってくれる笑みに、これ以上なにを言うことができるだろう。
「ありがとう――」
少ない人数で、ここの管理をするだけでも大変だろうに。こみあげてくる感謝に、そっと目を伏せて微笑むと、紅茶のカップには満足そうに笑うギンフェルンの顔が映った。
「ああ、それと坊ちゃま。お母上様から、大急ぎで荷物が届けられてきましたよ?」
「荷物?」
「はい。それから、ご伝言で、急いで都を出るので、少しの間だけ到着を待っていろと――」
言われていぶかしげに目をあげると、ギンフェルンの両手には大きな白い箱が持たれている。そして開けられた中に入っていたのは――。
一面の白いレースがこぼれてくるのに、つい顔がほころんでしまった。
「そういえば、三月の中頃にと言っていたが」
「今日が三月の十一日ですから。今日からが中旬と言って問題がないでしょう」
「では、きっと今日来るな」
日にちを確認して、母が慌てて送ってきた白いレースのドレスを持ち上げる。
まるで真珠のような輝きだ。これから咲こうとする白い薔薇が膨らんでいくかのように、ドレスの裾に向かっていくつものレースが重なり広がっている。
繊細な花柄のレースは、きっとクリーム色の髪によく似合うだろう。小柄な体を包んで、彼女がいつか自分の側にこれを着て立つ。
そんなことを考え出したら、結婚式の準備なんて初めてではないはずなのに、奇妙なほど心が浮き立ってくる。
だから、まだ朝を少し過ぎたばかりなのに、玄関で鳴った鐘の音に苦笑をしながら立ち上がった。
「坊ちゃま、私が」
「いいんだ。ここには人も少ないし――」
笑顔で、止めるギンフェルンを制して玄関へと進む。
――それに、きっと。
自分の予想は間違ってはいない。
だから、鳴った鐘の音を逃がしたくないように、急いで玄関へと向かうと、古い樫の扉を開いた。
「いらっしゃい。多分、今日来ると思って待っていたよ」
俺が直接開けたからだろう。自分で呼び鈴を鳴らしていたリーゼが、鐘が聞こえたか迷っていた顔から、急にぼんと赤くなっている。
「イ、イザーク!」
ああ、久しぶりだ。こんなにも赤くなって自分を見つめてくるリーゼは。ちょっとはにかんだ笑顔も、慌てて言葉を探している様子も、なにもかもが、二度と見られないと思っていた仕草なだけに、嬉しくてたまらない。
「あの、私。都を出ると書いてから、ちょっと、その、遅くまで馬車を走らせすぎて……」
だから、手紙で示した期間、ギリギリの速さでついてしまったということなのだろう。
だけど、真っ赤になって白い帽子を抱えている姿はとてもかわいい。
「予想していたよ。きっとリーゼなら、来れるとなったらなにを置いても駆けつけてくると思っていたから」
「ええっ、そんな!」
俺が笑いながら話す言葉に、リーゼが唇をぷくっと尖らせているが、そんな仕草の一つ一つが、どれだけ愛らしいことか。
「本当だよ。だから、母上が自分たちが到着するまでは待つようにと伝言をつけて、早馬で君のウェディングドレスを送ってきたほどだ」
「えっ……ウェディングドレス……」
話せば、面白いほどにリーゼの顔が真っ赤に染まっていく。
愛らしすぎて、ついいたずら心がわいた。
「俺とは――、嫌?」
「嫌じゃないわ! 私は、ずっとイザークだけが好きだったんだから」
咄嗟に叫んだ言葉にまた赤くなって、トマトのようになってしまうのが、なによりもかわいい。
あまりに愛しくて――。だから我慢ができなかった。
「ありがとう、俺の側にもう一度戻ってきてくれて」
そっと赤い頬に手を添えた。
あの日、リーゼが牢の中へ連れ戻されていかれる時。どれだけ心が張り裂けそうだったか。彼女の体が無理矢理刑場に引き立てられて、無惨に首を落とされた時、どれだけ世界が狂って見えたことか。
だけど今、またリーゼは俺の側に帰ってきてくれた。だから、そっと頬に手を添えたまま身を屈める。
「よく子爵様が許してくれたね? また俺の元に来ることを――」
彼女の父にしてみれば、俺はリーゼからこのぬくもりを奪う原因になった男だ。きっと二度と娘には近づけさせたくなかっただろうに――。
けれど、リーゼは少しだけ顎に指を当てた。
「ああ。それは反対されたけれど……」
そして、くすっと笑った。その瞬間、長いクリーム色の髪に、僅かにストロベリーブロンドの輝きが混じる。
「ちょっとこういう駆け引きが得意な人に説得の方法を教えてもらったの。私のことを馬鹿娘と罵っていたけれど。イザークと一緒に生きるためだと話したら、渋々周りに認めさせる有効なやり方を教えてくれたわ」
それが一体誰のことなのか。華やかな薔薇にも似た髪を渦巻かせるリーゼの奥に眠る魂の存在には気がついたけれども。なにも知らないふりをする。
「そう。じゃあ、リーゼは、これからもずっと俺の側にいてくれるんだね?」
「もちろんよ」
リーゼが笑った途端、禍々しいまでの緋色の輝きは彼女の上から消えた。
きっと名前を呼ばない。リーゼの中にいるのを認めないことが、今からの俺ができる彼女への唯一の復讐。
――――俺はリーゼを愛している。
リーゼだけだ。
誰がどんな小細工で彼女の中に入りこもうと。彼女が内側にどんな存在を飼おうとも、俺はそれを見ない。名前を呼んで、その存在の前で残酷なまでに生涯愛し続けるのはリーゼただ一人だ。
だから、細い体をぎゅっと抱きしめた。
「イザーク!?」
服を通して伝わってくる体は、温かい。あの冬の日に見た、血を流していた彼女ではない。幾度も生気を与えるために握りしめ続けた、焼け焦げた体温のない手のひらでも。
今、ここにいるリーゼは生きている。
だから、更に強く抱きしめて、顔を耳元に近づけた。
「愛している。昔も今も、そして未来も君だけだ」
「イザーク……」
「だから、頼む。質素な暮らしだが、もし君がそれでもかまわないと言ってくれるのなら。もう一度……俺と結婚してくれ」
俺にしたら、懺悔以上に度胸のいる言葉だ。だが、その瞬間、抱きしめていたリーゼの顔が花開くように輝いた。
「もちろんよ」
そして逆に深く抱きしめられる。
「私こそ愛しているわ。ずっとずっと――イザークだけが好きだったのよ。だから、どうか私を昔の約束通りイザークのお嫁さんにして」
「ああ。喜んで」
こんな日を迎えることができるなんて。あの頃は思ってもみなかった。
だから、もうじき夫婦になる約束をした婚約者の手をひいて、二人で暮らすことになる館へとそっと招き入れる。
「そうだわ。私王太子様からのお言葉も預かってきたの」
「王太子様から? たくさんご迷惑をかけてしまったけれど、なんて……」
「ええ。ここも王太子様の所領の一つでしょう。だから、この地方を発展させれば、イザークを都に呼び戻す功績にできるから、少しの間頑張ってほしいって」
託されてきた言葉に、思わず笑みがこぼれてしまう。
これは、夫婦になって今の状況を乗り越えろという王太子様からの激励だ。
「だったら、君が側にいてくれたら心強いな。君は、昔から故郷を発展させていく名人だったから」
側に立つリーゼに向かって微笑みかける。
「もちろん! 私もイザークのためなら、今まで貯めた知識の全てを使って頑張るんだから」
だからと、リーゼが、そっと俺の上着の裾を握った。
「ずっと側にいさせて?」
「ああ、もちろん」
ずっと一緒に生きていきたい。
「今度は俺が死ぬまで側にいてくれ。二度と君の死に顔を見たくはないから――」
「大丈夫、私もイザークが無茶をしないように側で見張っているから」
だから、今度は二人でできる限り長生きしましょうと微笑むリーゼの手を取りながら、俺は母が送ってきてくれたドレスを見せるべく、リーゼを扉の内側へと案内した。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
この小説は、元々番外編で書いたイザーク視点の部分が元になってできた話です。
色々あり、連載はリーゼ視点にしましたが。最後に、この部分を書けてよかったです。
リーゼ復活までの一年間、イザークがカトリーレにしようとした復讐も書きたくはあったのですが、本編よりも長くなりそうでしたので……
最後は、幸せになる二人を書いてあげたかったので、ここまで書けてほっとしました。
最後までおつきあいくださり、ありがとうございます。
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