表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/32

2

ゴールディロックス階層世界第1階層よりも地下にあるらしいそこは、無駄に広くてそのうえ薄暗く、酷く無機質で閑散とした場所だった。

 とにかくひたすらに広いその空間の中には、ずらーっと大小の透明樹脂製の円柱が林立している。

 円筒形のそれは生物とか植物とかその他の培養槽だとジルが説明してくれたけど、もうとっくの昔にゴールディロックス階層世界は創り終わってるし、動植物も完全に定着してて、新しく作られるモノが無くなってからずいぶん時間がたっているせいか、うら寂れ感がハンパない。


 放棄された工場とか研究施設って言葉が頭の中を過ったけど、まさしく言葉のまんまのソレだったんだよね、ここ。

 床にのたうつケーブルとか、培養槽に溶液を供給するのに使ってたらしいチューブとか、そーいう足元を重点的に狙ってくる(トラップ)に何度か引っかかりそうになりながら、私とジルは薄暗い施設の中を奥へ奥へと進んで行った。

 だだっぴろい空間の突き当りには自動ドアがあって、そこを抜けると小さな部屋。その入った時になんか、変な光とプシューって空気を吹きかけられた。

 エアシャワーとか消毒とかそういう設備らしい。

 その向こう側は短い廊下で突き当りにいかにもSFチックな認証パネルがあって、ジルがそれにピトッとくつくと、天空城の私の私物とか『虚ろ(?)の魔導書』部屋の時と同じように、壁面に幾何学模様の光の線が浮かび上がって壁の一部がスライドし、入り口が現れた。


「なんか……さ、けっこう厳重なんだね」


 『はじまりの地』からここに入る入り口はひとつだけ。

 この工場?が稼働してた頃にはゴールディロックス階層世界第1階層から第99階層を繋いでるヤツみたいに大きな昇降機もあったみたいだけど、動植物の搬出が終わって今それはとっくに撤去しちゃったみたいだし、私達が入って来たのはなんかこう……岩に偽装してる小さい扉。

 しかも、飛空出来るジルは使わなくても大丈夫だったけど、私が降りるのに乗った浮遊石っぽい手すり付きの金属板を操作するには、ジルにマスター認証されてないと無理とか言ってた。

 ここの施設の管理電脳が自分の統制下にあるからだ……とかって、微妙にドヤ顔してそうな口調で言われたんだけど、もしかして電脳同士でマウント取り合ってたりするの?

 今それどころじゃないし、面倒くさいからそれにツッコミ入れるのはとりあえずやめとこう。


 とにかく、ここで作業してたのってさ、ノア君とかジルみたいな機械的なにかだけなんだよね?

 消毒とか衛生関係は分かるとしても、侵入者とか来そうもない場所なのにこんな認証パネルとかって必要なのかなーと、なんか不思議。


『この廊下の先はマスター・ノアの私室兼作業室で、彼の方の大事な物もあった場所だからな』


 とのジルの説明に、ちょっと慌てる。


「え、ノア君の私室? ちょっ……それって勝手に入っていいの!?」


 だって地球にいた時だって私、いくら幼馴染みだからってノア君の部屋に勝手に入り込むようなこと、したことないよ?

 どーぞ、とか、入ってー……とか、声かけられてから、お邪魔しまーすって入ってたんだから。

 親しき仲にも礼儀ありって言うでしょ?

 って言うか人間ってさ、自分がされたくないことは皆もされたくないんだろーなって思うもんじゃない?

 なんて言うか、急に部屋に入られるとちょっと見られたく無いモノとかあったり?

 ……だって、TL系の漫画とか小説のイラストって、結構アレなのがあったりするんだもん。ああいうのはちょっとうら若き乙女として人様にお見せ出来ない。

 あ、私、そんなエグイ内容のには手を出していないんだけどね! あくまでソフトな感じのヤツだから! 全然、イラストの見た目ほどイヤンな内容じゃないんだから!!

 それに、脱いだ靴下が部屋に落ちてる時とかあるし、鼻かんだ紙とか飴ちゃんの包み紙がごみカゴに上手く入らないで落ちちゃったのとか、うっかり忘れてることもね。

 もしかしたらノア君だってそーいうことあるかなー……って考えれば、遠慮しちゃうでしょ?

 まあ、片付けててもなんかゴチャゴチャしてる私の部屋とちがって、ノア君の部屋っていつ行ってもキッチリ片ついてたけど。

 ベッドと机と本棚とローテーブルがあるくらいで、全然よけいな物とかないんだよ。

 壁にちょっと可愛いワンコのカレンダーとかポスターがあるくらい。

 本棚の中身だって、百科事典とか図鑑とか、可愛げあるのは柴犬写真集とか、あとは世界と日本の文学集とか固い内容のヤツばっかりだったし、表側から見た感じだけど文学集の後ろ側に怪しい謎の隙間とかはなさそうだった。


 アイドルポスター貼ってたり、美少女フィギュアと戦艦プラモとPCのジャンクパーツだらけの上、半裸のアニメキャラの抱き枕があった自分ちのお兄ちゃんの部屋と比べるのもなんナンだけど、あの素っ気なさって年頃の男の子の部屋としてどうなんだろうって不思議だったんだよね。

 でも、ノア君ってば既にあの時点で悟りを開いたり解脱しちゃったりな勢いでご長寿さんだったんだもんね……。

 思い返してみて、ちょっとナルホドって納得しちゃった。

 

 きっと今だって部屋のなか散らかしてたりはしないんだろうけど、でもやっぱり人の部屋に勝手に入っちゃダメなんじゃないかと躊躇する私に、ジルが


『ここを通らねばマスター・ノアのもとへは行けぬのだ』


 と言う。


「うー……」


 ここ以外通路が無いなら、そりゃ仕方ないんだろうけど……。


「分かった……通らせてもらう。ごめんノア君、お邪魔しまーす」


 絶対これ、後で本人に勝手に入ってごめんねって謝らなくちゃ。


 私は先導するジルを追いかけて、廊下の先の部屋へと踏み込んだ。

 薄暗くて殺風景だった工場地区とか廊下とは一転して、急激に明るくなる視界。


 空があった。

 ここって第1階層よりも深い場所のはずなのにどうして空が!?……って一瞬ビックリしたんだけど、そう言えばゴールディロックス階層世界は殆どの階層に空がある。

 だいたい第99階層の本物にしか見えない空が実は天井だったって衝撃を受けてから、まだ一時間経ってなかった。

 たぶん、これもあれと同じ仕組みなんだろう。


 全体的に白くて、四角い部屋。

 広さは学校の教室二つか二つ半程度で、ツルツルの真っ白な床に漆喰っぽい生成り色の謎素材の壁。

 壁際には、用途不明の機械とか小型の培養槽とかが整然と配置されている。

 天井も同じように生成り白の材質で出来てるんだけど、部屋の真ん中へんに大きな丸天井があって、そこから空が見えていた。


 なんかちょっと不思議な空間だ。

 丸く切り取られた空から日差しが燦々と降り注ぎ、明るい陽射しに照らされて工場地区にあったのと同じ円筒形の透明樹脂の培養槽が一基、据えられていた。

 培養槽の周りはなぜか丸天井と同じサイズに丸く芝草が植わってる。

 天井とか床はたぶん工場地区と同じで何の飾り気もない物なんだけど、丸天井と芝生の床のせいか、無機質な冷たさは感じない。


 培養槽の中身は、(カラ)

 すぐ傍に机が一台と椅子。机の上にはなんか地球のと形が違うけど、パソコンのキーボードっぽい何かとか、綺麗に整えられたクリアファイルとかが載ってた。

 培養槽の向こう側の可動式パーテーションで仕切られて、ベッドが一台。パーテーションに何着かのシャツとかパンツとかがハンガーで吊るされてるのを見れば、ノア君は本当にここで生活していたんだろう。


『2年前までは、その中にはお前がいた』


 と丸天井の下で日差しを浴びる培養槽を示してジルが言った。


「……そう、なんだ」


 その時の私には意識もないし、当然ながら当時の記憶も無い。

 ただ、この明るい場所に私を置いてくれたこととか、ずっとノア君は私のすぐ近くで過ごしてくれてたんだろうなってことに、言葉にしがたい感情を覚える。

 朝は"おはよう"の挨拶から始まって、夜眠る時は"おやすみ"と。

 "おはよう"から"おやすみ"までの間にも、ノア君は何くれとなく私に向けて話しかけてくれていたのだとジルは言う。

 胸の中にわきあがる感情が嬉しさよりも切なさに偏ってしまうのは、その無反応の私への語り掛けが1年とか10年なんてものじゃなく、ずっとずっと何百年もの長い間続いていたことを知ったから。


『マスター・ノアは、この場でお前の記憶が人格と言う形を結ぶよう、手を尽くしていた』

「……うん」

『音の記憶や景色の記憶、味覚の記憶や臭覚の記憶、とにかくバラバラの記憶が人格と言う像を結ぶ切っ掛けが無いかと、お前が以前に好んでいた物を再現したり、地球から収集したサンプルから探し出したりしていたのだ』


 例えば私の家の庭に生えていた花の香りとかを嗅がせてみたり、今は芝になってる地面に二人で自由研究用に育ててたヘチマとかヒマワリを植えてみたり。

 それから、子供の頃考えなしに私が手づかみで捕まえたカメムシのるくらい強烈な香りを嗅がせたり……。

 いや……うん、覚えてるよ、カメムシ。

 ノア君のランドセルにくっついてたのを取ってあげたら、本当に臭くて二人で噎せたこと、後々笑い話にしてたしね。

 でも、あれも試したんだ……ノア君。


『音楽なども聴かせたな。小中高の校歌に音楽の時間に唄った歌や習った音楽、クラシックにお前の祖父が生前よく鼻歌で歌っていた演歌やゲーム音楽、アニソンまでも幅広く、この部屋は数年前までよく音楽が流されていた』


 いまはただ、部屋を過ってノア君がいると言う突き当りの扉へ向かって歩く私の足音だけが響くこの部屋の、かつての状況を思い浮かべると胸が痛くなる。

 ゆったりと、時に賑やかに音楽の流れるこの明るい部屋の中、きっと地球の頃の私に話しかけるみたいにノア君は培養槽の中の私に話しかけてくれたんだろう。

 だけど私からの反応は無い。

 いくら話しかけても、ずっと、無い。

 ずっと、ずっと……いつまでも、無い。


 もしも自分が逆の立場だったら……なんて、人間の脳みそから記憶移し替えたりするのってちょっと想像つかなくて想像が難しいけど、もしもノア君が寝てて起きなくて、起そうとするのに全然起きなくて、声かけても揺さぶっても起きなくて、突ついてみても思い切って顔とかピシャっと叩いてみても起きなくて、大声で呼んでも叫んでも起きてくれなくて、一時間も二時間も、一生懸命呼んで叫んで揺さぶり続けて朝だったのが夜になっても起きなくて……とか、そんなこと考えたらなんか、それだけで怖くて泣きたくなる。

 ……きっと、気が狂いそうなくらい辛い。怖い。悲しい。


 一見明るくて穏やかなこの部屋の中にあっただろうノア君の絶望を思ったら、ボロッと涙が目から溢れた。

 ボロっとどころじゃない。ボロボロって言うかダラダラと、涙が止めどなく溢れて来る。

 泣いたって仕方ないって分かってるんだけど、涙腺が壊れちゃったみたいに目から水が出た。


「ぅぐっ……ノア、君゛……っ」


 逢いたい。

 逢いたい。

 一刻も早く逢いたい。


 そこにいる。すぐそこにいるんだって思ったら、落ち着いて冷静を保って彼と話しをしようとか、そういう理性的な上っ面なんて吹っ飛んじゃって、ただひたすらに今すぐ逢いたいって気持ちだけが暴走して……。

 って言うか、気持ちだけじゃなく、私本体もなんだかもうどうにもならないくらい暴走してて


『おいっちょっと落ち着け、お前……マスター・明花……っ!』


 気が付いたらなんか、走り出してた。


「ぅえぐっ……ノア゛ぐんっ……!」


 で、走ったらすぐにノア君がいるって言う部屋の扉までたどり着いたから、扉にくっついてるドアノブを千切れる勢いで捻って開けて、私は彼の名前を呼びながらその中へ飛び込むと


「ノア゛君゛───っ!!」


 思い切り治療用水槽(キュアポッド)の表面に顔面から激突していた。

 ゴンッ……と言う重い響きが脳を揺らす。

 額が痛い。一瞬意識が飛びかけたけど、踏みとどまった。鼻はなぜかあまり痛くない。たぶんぶつかった角度のせいだ。


 おでこと鼻の痛みはどうでもいいけど、この部屋は殆ど光源がないせいか暗い上に開け放った扉から明るい光が入り込むせいで、ノア君がいるっていう治療用水槽の表面に光が反射してしまって内部があまりよく見えない。


「───ノ゛ア゛君っ!!」


 もう一度、私は彼の名を呼んだ。

 きっとたぶん何らかのアクションが返されるまで、私は壊れた機械みたいにノア君の名前を呼び続けるだろうと思う。


『待てと言うのに……』


 私を追って室内に入って来たジルのボヤキを聞き流し、光って見ずらい水槽内で人影っぽい白い物が身じろぐのを目にした瞬間、部屋の照明が灯された。


「……明……花?」


 記憶の中にはいつでもあって、でも実際に耳にするのは久しぶりな"声"が、私の名を呼んだ。


「ノア君……」


 明かりに照らされた治療用水槽(キュアポッド)の中に、ノア君がいた。

 溶液の中にフワリと揺れて広がる青みがかった黒くて艶やかな髪の毛と、クリーム色の肌。綺麗な形のおでこにすっと柔らかく通った鼻筋、長い睫が密集するちょっと切れ長の目と厚すぎず薄すぎ過ぎずな唇を持つエキゾチックでどこかドーリッシュな顔は、最後の記憶と殆どかわらず、ちょっとだけあの時よりも大人っぽい輪郭になってるかもって程度の違い。

 首筋から鎖骨、骨ほねっとした感じがありながらも意外と筋肉のしっかりした肩とか胸筋周辺は、なんか芸術的で、不健康さとか病的なまでではなくとも薄ら骨のラインが浮いたあばらからお腹にかけてのラインなんてたぶん、中学の前半のころに水泳の時間に見たのが最後。で、それより下なんてさ……当然ながら初お目見え───


「わぁ!! ごめんっノア君……!!」


 ぎゃー!

 と、脳内で悲鳴を上げながら、私は顔を両手で覆いながら全力で後へと飛び退った。

 どうしよう。ノア君が裸だった!!!

 いや、治療用水槽の中だし、当たり前なんだけど!

 見ちゃった!

 3秒間も凝視しちゃった!!

 もしかしたら、3.5秒くらいは見てたかも!!!


 飛び退った勢いでそう広く無い部屋から私は飛び出してしまった。

 まだ両手で視界はしっかり塞いでたけど、なんとなく水槽の中でノア君が少し笑ったような気がする。


『全く何をやっているんだお前は』


 ジルの呆れた声が、なんかムカつく。

 でも、今のショックで顔面の水分を絞りつくす勢いで溢れてた涙は引っ込んだし、完全にじゃないけどちょっと落ち着いた気がする。

 正直さっきのまんまの興奮状態だと、私まで水槽の中に飛び込んでノア君に全力でスリスリ頬ずりでもしそうで、危なかった。

 うん……すごく、危なかった。


『粗忽者、鼻をかめ』


 次の動きを取る事が出来ずに部屋の外で固まっていた私の足元に、バグ……ッとかボゴ……ッとかそんな音を立てて何かが落下して来た。

 ピッタリ両目をガードしてた手をズラして床を見ると、ティッシュボックスが一個落っこちてた。

 ジルが親切だ。

 でもこれ、どっから出したの?

 ありがたく使うけど。


 ボックスからティシュを何枚か引き出して、私は扉の陰に隠れて鼻をかんだ。

 さらに数枚引き出して、目もととか手の平も拭う。


『なんだ全裸を見た程度で情けない』


 せっかくの再会なのにって言うのは、確かにそうなんだけど……。

 でもここで平気な顔してる女の子とかって、どうかと思うの。


 フワフワとノア君のいる部屋の方へと宙を滑りながらも、ジルはまだ、ブツブツ言ってた。


『マスター・ノアなどは、平気でおま───』

「───おい」


 あれ?

 なんか……ノア君、怒った?


「……ノア君?」


 また両手で目を覆い隠して、扉の陰からちょっと顔だけ出してみた。

 ……何も見えない。

 折角すぐそばにノア君がいるのに、ノア君が……見えない。


「ノ゛ア゛……君……」


 なんか、ノア君が怒ってるっぽいのに、どうしたのかと覗けない。

 あ、ちょっとオロオロしてるっぽい気配になった。

 でも、見れない。

 ノア君に逢ったら、顔を見て言いたいことがいっぱいあったのに、これじゃそれも出来そうにない。

 ……どうすればいいのか分からなくて、すごく悲しくなった。

 私は足元からティッシュボックスを箱ごと掴み上げて何枚か紙を引き出し、また目に滲んで来た涙を拭いた。


「明花……」


 どこか困惑含みのノア君の声が耳に届く。


『何をしているんだ、お前たちは……仕方のない』


 ジルが呆れ果てた感100%の声で呟いたと、ノア君のいる治療用水槽(キュアポッド)の方でべチャッと水っぽい音が聞こえた。


『ほら、目隠しをしてやったぞ。マスター・明花、こっちに来るが良い』


 そんなふうに声をかけられて恐る恐る扉の陰から目隠しを半分ズラし覗いてみたら、ノア君の入った治療用水槽の下半分の辺りに銀色の膜がはって中が見えないようになっていた。

 部屋の中にジルの姿が見えないところから考えて、水槽に張り付いてるのって、もしかして、ジル


 怯えた猫みたいにそろそろと、私はノア君の前へと歩いて行った。

 大丈夫、見えちゃいけないところは銀色ガードで見えてない。


『マスター・ノア、もう少し手前の際まで寄るがいいぞ。……マスター・明花、お前はあと一歩、その辺りで止まるのだ』


 水槽の表面に張り付いた銀色に指示出しされながら、私とノア君は所定の位置で立ち止まってお互いの顔を見合わせた。

 ああ……ノア君だ。

 ノア君だよ、どうしよう。

 

「ノア君……」


 ダメだ私ったら、もう……さっきから名前ばっかりしかまともに言えてないよ。


「……明花?」

「……うん、明花だよ、ノア君」


 私はそっと右手を伸ばして水槽の表面に触れた。

 カコッと変な音がしたと思ったら、ティッシュの箱を持ったままだったらしい。

 慌てて左手に箱を持ち換えてもう一度手を伸ばそうとすると、ノア君が透明樹脂の向こう側で微かに笑うのが見えた。

 恥ずかしくてさっきも真っ赤になった顔が、また熱くなって来た。


「明花、だね」


 ノア君の左手が水槽の内側から伸ばされて、透明樹脂越しに私の伸ばした右手の先と重なる。


「うん……明花だよ、ノア君」


 どうしよう……嬉しい。

 嬉しくて、また涙が出そうだけど、でももう、泣かない。

 泣いたりしたら、せっかくそこにいるノア君の顔が見えなくてもったいないもん。

 一瞬だけ考えた後、私は左手のティッシュボックスから手を離して左手も水槽に伸ばした。足元でティッシュ箱がパゴ……ッとかポゴ……ッとか音を立てる。

 ノア君も同じようにもう片方の手を私の手の方へと伸ばしてくれた。


 透明樹脂越しに二人の両手が重ねられた。

 手に伝わる感触はもちろん固くてツルツルした樹脂のそれなんだけど、重ねたそこからじんわりと幸せなノア君エキスが手にしみ込んでくる気がする。

 なんて言葉にしていいか全然分かんなくて、ただ目の前のノア君の顔を見上げてると、微笑んだ形に緩められてたノア君の唇とそれから長い睫に縁どられた深い色の目が微かに歪んで、また、笑みの形に戻るのが見えた。


「……逢いたかった」


 ポツンと零された言葉に、私の顔も一瞬クシャっと歪みかける。


 ダメ、泣きそう。

 ……でも、我慢する。

 私はなんとか根性で泣くのを堪え、ブルブル震える唇を笑ってるように見えるように無理やり吊りあげ、私も逢いたかったよと答えようとしたんだけど、言葉がなかなか喉の奥から出て来てくれなかった。

 だって、簡単になんて言えるわけないじゃない。

 さっきやっとノア君を思い出した私と、ずっとずっと長い時間私のことを待っててくれたノア君とじゃ、同じ"逢いたい"でもその言葉の重さが違い過ぎるもん。


 でも……うん。

 やっぱり私も逢いたかったって気持ちは本当の事だから、気合いと根性を総動員して震える唇とか歪もうとする眉毛とかをなんとか抑え、水槽の表面に押し当てた手をさらに強く押し当てながら


「私も……逢いたかった」


 と、そう言葉を紡いだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ