表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女の奇跡? それは毒ですが?  作者: 小林翼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/50

第50話

 数年後の春。


 ヴォルクハイムの城の、薬草園には、新しい小さな足跡が残るようになっていた。


 黒い髪を肩で揺らす、三歳ほどの女の子。ぽってりとした手のひらに、種を一粒ずつ握りしめては、赤い瞳をきらきらさせて、母を見上げる。父譲りの瞳の色だった。けれど、髪の色も顔立ちも、母にそっくりだった。


「リサ、それは何の種?」


 アネットは、薬草園の片隅で笑った。


 娘のリサは、得意げに種を差し出した。


「沈痛草! 歯が痛いとき、噛むと、和らぐの!」


「よく覚えていましたね」


 アネットは、屈んで娘の頭を撫でた。リサは満足げに、また別の畝へと駆けていく。種を播く真似事を、毎日、薬草園のあちこちで繰り返している。今日もまた、薬草園のどこかで、何かが芽吹くだろう。



 城の二階の書斎では、母の手記の隣に、新しい革表紙の手記が並んでいた。


 アネットは机に向かい、その新しい手記に、毎日少しずつ書き加えていた。母の処方の改良点、戦場で得た新しい知見、辺境特有の症例とその対応、火竜草と月光草の最適な栽培の方法――母の手記には記されていなかった、この十年余りの自分の経験を、一字ずつ整えて綴っていく。


 いずれ、街の薬師たちに、エマに、そして未来の見知らぬ薬師たちに、これを渡す。


 そう決めていた。


 母の知識を、一族で抱え込んでいた時代は、もう終わった。今は、開いて、繋いでいく時代だった。



 その朝、王都からの定期便で、いくつかの手紙が届いた。


 一つは、王太子妃となったクラリッサからの近況。子が二人になった、社交界がようやく落ち着きを取り戻している、来年の春にぜひ辺境を訪ねたいという内容。一つは、父からの、相変わらず孫娘への愛情に満ちた長い手紙。今年もリサのために、王都の特別な菓子を送ったから、近く届くはず、と。


 最後の一通は、中央の医療所からの相談だった。新しい疫病の流行の兆しがあり、ご助言をいただきたい、と。


 アネットは、丁寧に返事を書いた。


 症状の聞き取り方、隔離と消毒の手順、解毒薬の改良処方の図。返事は長くなったが、全て自分の言葉で、自分の責任で書いた。中央への憎しみはもう、ない。今ここから、自分の知識で、誰かが救われるなら、それが本来の役割だと、迷いなく思えた。



 昼下がり、ガルシアが薬草園に下りてきた。


 彼は薬草園の畝の間で遊んでいる娘を、軽々と抱き上げた。


「父さま!」


「リサ、今日は何を植えたんだ」


「ひみつ!」


 ガルシアは大きく笑い、娘を片腕に抱いたまま、もう片方の腕で、傍らに立つアネットの肩を、優しく抱き寄せた。


 春の日射しが、三人の肩に、柔らかく落ちていた。


「アネット」


「はい」


「お前を選んで、本当に、良かった」


 ガルシアの声は、いつもの低い調子だった。けれどその一言は、十年前に母を失った夜のアネットには、想像もできなかった種類の温もりを、胸の奥へまっすぐに届けた。


 涙は、もう出なかった。代わりに、笑みが、ゆっくりと顔の半分を満たした。


「私も、あなたを選んで、本当に、良かったです」



 風が吹いた。


 薬草園の苗が、いっせいに、青い波のように揺れた。母の遺した種から育った草が、十年余り経っても、毎年律儀に芽吹き、花を咲かせ、種を残す。その種を、リサが小さな手で握りしめ、また土に埋める。土がそれを受け入れ、また春が来れば、芽を出す。


 受け継いでいくのだ、と、アネットは思った。


 母から私へ。私から、リサへ。リサから、未来の誰かへ。薬草も、知識も、人を想う気持ちも、全てが、こうして繋がれていく。


 ガルシアの腕の中で、娘が、笑い声を上げた。


 辺境の街は、その日も、変わらず穏やかに営まれていた。アネットの店の煙突からは、エマの煎じ薬の匂いがほのかに立ち上り、井戸端では女たちが笑い、子供たちが石畳を駆けていた。


 春は、まだ始まったばかりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ