第50話
数年後の春。
ヴォルクハイムの城の、薬草園には、新しい小さな足跡が残るようになっていた。
黒い髪を肩で揺らす、三歳ほどの女の子。ぽってりとした手のひらに、種を一粒ずつ握りしめては、赤い瞳をきらきらさせて、母を見上げる。父譲りの瞳の色だった。けれど、髪の色も顔立ちも、母にそっくりだった。
「リサ、それは何の種?」
アネットは、薬草園の片隅で笑った。
娘のリサは、得意げに種を差し出した。
「沈痛草! 歯が痛いとき、噛むと、和らぐの!」
「よく覚えていましたね」
アネットは、屈んで娘の頭を撫でた。リサは満足げに、また別の畝へと駆けていく。種を播く真似事を、毎日、薬草園のあちこちで繰り返している。今日もまた、薬草園のどこかで、何かが芽吹くだろう。
城の二階の書斎では、母の手記の隣に、新しい革表紙の手記が並んでいた。
アネットは机に向かい、その新しい手記に、毎日少しずつ書き加えていた。母の処方の改良点、戦場で得た新しい知見、辺境特有の症例とその対応、火竜草と月光草の最適な栽培の方法――母の手記には記されていなかった、この十年余りの自分の経験を、一字ずつ整えて綴っていく。
いずれ、街の薬師たちに、エマに、そして未来の見知らぬ薬師たちに、これを渡す。
そう決めていた。
母の知識を、一族で抱え込んでいた時代は、もう終わった。今は、開いて、繋いでいく時代だった。
その朝、王都からの定期便で、いくつかの手紙が届いた。
一つは、王太子妃となったクラリッサからの近況。子が二人になった、社交界がようやく落ち着きを取り戻している、来年の春にぜひ辺境を訪ねたいという内容。一つは、父からの、相変わらず孫娘への愛情に満ちた長い手紙。今年もリサのために、王都の特別な菓子を送ったから、近く届くはず、と。
最後の一通は、中央の医療所からの相談だった。新しい疫病の流行の兆しがあり、ご助言をいただきたい、と。
アネットは、丁寧に返事を書いた。
症状の聞き取り方、隔離と消毒の手順、解毒薬の改良処方の図。返事は長くなったが、全て自分の言葉で、自分の責任で書いた。中央への憎しみはもう、ない。今ここから、自分の知識で、誰かが救われるなら、それが本来の役割だと、迷いなく思えた。
昼下がり、ガルシアが薬草園に下りてきた。
彼は薬草園の畝の間で遊んでいる娘を、軽々と抱き上げた。
「父さま!」
「リサ、今日は何を植えたんだ」
「ひみつ!」
ガルシアは大きく笑い、娘を片腕に抱いたまま、もう片方の腕で、傍らに立つアネットの肩を、優しく抱き寄せた。
春の日射しが、三人の肩に、柔らかく落ちていた。
「アネット」
「はい」
「お前を選んで、本当に、良かった」
ガルシアの声は、いつもの低い調子だった。けれどその一言は、十年前に母を失った夜のアネットには、想像もできなかった種類の温もりを、胸の奥へまっすぐに届けた。
涙は、もう出なかった。代わりに、笑みが、ゆっくりと顔の半分を満たした。
「私も、あなたを選んで、本当に、良かったです」
風が吹いた。
薬草園の苗が、いっせいに、青い波のように揺れた。母の遺した種から育った草が、十年余り経っても、毎年律儀に芽吹き、花を咲かせ、種を残す。その種を、リサが小さな手で握りしめ、また土に埋める。土がそれを受け入れ、また春が来れば、芽を出す。
受け継いでいくのだ、と、アネットは思った。
母から私へ。私から、リサへ。リサから、未来の誰かへ。薬草も、知識も、人を想う気持ちも、全てが、こうして繋がれていく。
ガルシアの腕の中で、娘が、笑い声を上げた。
辺境の街は、その日も、変わらず穏やかに営まれていた。アネットの店の煙突からは、エマの煎じ薬の匂いがほのかに立ち上り、井戸端では女たちが笑い、子供たちが石畳を駆けていた。
春は、まだ始まったばかりだった。




