第1話 雨の港
辺境惑星〈ヴェイル〉の空は、今日も鈍い灰色だった。
降り続く雨が、錆びたドックを濡らしている。
発着船のエンジン音。
荷役クレーンの駆動音。
酒場から漏れる笑い声。
湿った修理油の匂いが、雨に濡れた金属の匂いと混ざりながら、港全体にゆっくり染みついていた。
ミレア・アークライトは、《ノクターン号》の船腹へ身体を潜り込ませながら、むき出しの配管へレンチを当てる。
「……だから飛びたくないって言ってるでしょ」
古びた船体が低く振動した。
船内スピーカーから、落ち着いた男の声が響く。
『第二推進器の状態は劣悪です』
ミレアはため息をつく。
「分かってるって、クロード」
『安全基準を満たしていません』
「でも飛べる」
数秒の沈黙。
『……飛行自体は可能です』
ミレアは少し笑った。
「ほらね」
《ノクターン号》は、かなりの年代物だった。
細身の船体。
外付けコンテナ。
むき出しの配管。
何度も重ねられた修理パッチ。
遠目には妙に綺麗だが、近づけば辺境航路を渡り続けた傷跡だらけだ。
だがミレアは、この船が嫌いじゃなかった。
長い航海も。
静かな宇宙も。
知らない星へ降りる瞬間も。
それでも、燃料代だけはどうにもならない。
ミレアは端末の残高表示を見て、静かに閉じた。
「うん。見なかったことにしよう」
その時だった。
貨物区画の奥から、ガタン、と鈍い音がした。
ミレアは顔を上げる。
数秒の静寂。
また音が鳴った。
「……いるね?」
ミレアは腰の工具を外し、代わりに古い小型拳銃へ手を伸ばした。
古い照明が届かず薄暗くなった貨物区画の奥へ進んでいく。
船体の低い振動音だけが響いていた。
その奥で、何かが小さく動く。
ミレアは足を止めた。
「出てきな」
少し間を置く。
「いつまで隠れてるつもり?」
しばらくして、コンテナの陰から少年が顔を出した。
まだ若い。
宇宙慣れしていない顔だった。
ミレアは無言で見つめる。
少年は気まずそうに笑った。
「……見つかっちゃった」
ミレアは呆れたように額を押さえる。
「なんで乗ったの?」
少年は少し黙った。
それから真っ直ぐ言う。
「宇宙を見たかった。本物の星を見てみたかったんだ」
ミレアは一瞬だけ言葉を失った。
遠い星を見上げる目。
この狭い世界の外を夢見る目。
昔、自分もしていた目だった。
ミレアは視線を逸らす。
「……で?」
「一回だけでいいんだ。ちゃんと働くから」
「働ける歳?」
「多分」
「多分で宇宙に来ないでほしいなぁ……」
ミレアは長く息を吐いた。
本来なら港へ突き出すべきだった。
でも結局、
「次の港までね」
少年の顔が明るくなる。
「ほんとに!」
「騒がない。触っちゃいけないものには触らない。勝手にどっか行かない」
「子供扱いしてない?」
「してる」
少年――エイル・アーヴァインは、安心したように息を吐いた。
その時、船外で誰かが立ち止まる気配がした。
「……依頼を受ける船を探している」
「できれば、口の堅い運び屋がいい」
ミレアはゆっくり振り返る。
タラップの下に、痩せた男が立っていた。
くたびれたコート。
落ち着きなく周囲を見る視線。
学者崩れみたいな顔。
男は雨を払うようにコートを押さえながら言った。
「ヴァレスだ。古代文明研究局にいた」
「今は辞めてる……いや、追い出されたと言った方が近いか」
ミレアは黙って男を見る。
ヴァレスは少し居心地悪そうに視線を逸らした。
「荷物を運んでほしい」
そう言って、男は横に置かれていた小さな黒い箱へ目を向ける。
ミレアは眉を寄せた。
「どこまで」
「海洋惑星」
遠い。
燃料代もかかる。
だがヴァレスが端末へ送ってきた金額を見て、ミレアは黙った。
破格だった。
逆に怪しい。
「中身は?」
「骨董品だ」
「骨董品でこの額?」
ヴァレスはすぐ答えなかった。
その代わり、小さく周囲を確認してから低い声で言う。
「……絶対に開けるな」
ミレアは黒い箱を見る。
古びた金属製。
傷ひとつない黒い表面。
そこへ刻まれた、読めない文字。
妙な存在感があった。
まるで箱そのものが、静かにこちらを見返しているみたいだった。
ミレアは嫌な予感を覚える。
だが端末の残高が頭をよぎる。
燃料。
修理。
食料。
飛ばなければ、生きていけない。
ミレアはため息をついた。
「……積み込んで」
ヴァレスは明らかに安堵した。
黒い箱が貨物区画へ運び込まれる。
エイルが箱へ触れかけた時、港の方が騒がしくなった。
白い外套の集団。
白衣の巡礼者だった。
彼らは港の人間たちを次々に確認している。
まるで、何かを探しているみたいだった。
ミレアは嫌そうに目を細める。
「こういうのね。高額報酬の荷物についてくるの……」
白衣の巡礼者たちは、ゆっくり港を見回している。
その空気だけで、周囲の船乗りたちが距離を取っていた。
ミレアは小さく息を吐く。
「かなり面倒なやつ」
エイルが不安そうに巡礼者たちを見る。
「知ってる人たち?」
「辺境じゃ有名よ。聖遺物だの古代遺産だの追いかけてる連中」
エイルは白い外套の集団を見つめる。
「敵なの?」
ミレアは肩をすくめた。
「敵のときもあるし、敵じゃないときもある」
少し間を置く。
「でも、関わると大体ろくなことにならないのは確かよ」
その時、巡礼者の一人がこちらを見た気がした。
ミレアは即座に踵を返す。
「クロード、出港準備」
『第二推進器に無理があります』
「今それを言ってる場合じゃないでしょ」
低い駆動音が船内へ響き始める。
《ノクターン号》の船体が、小さく震えた。
船はゆっくりと浮上し、鈍い灰色の空へ上がっていく。
エイルは窓へ張りついていた。
「うわ……」
雲を抜け、灰色の空がほどけると、その先には静かな星々の海が広がっていた。
エイルは息を呑む。
「すげぇ……本当に、外ってこんなに広いんだ」
ミレアは少しだけ笑った。
「最初はみんな、そう言うのよ」
ブリッジには、微かな通信ノイズだけが響いていた。
航行が安定し、エンジン出力が落ちる。
その時、警報音が鳴った。
『接近船舶を確認』
モニターへ、白い小型船が映る。
通信が入った。
『その積荷は聖遺物である。直ちに引き渡せ』
ミレアは舌打ちする。
「ほら来た」
「どうするの!」
「振り切る」
ミレアは操縦桿を倒した。
船体が大きく傾き、エイルが座席にしがみつく。
『デコイ展開』
背後へ小さな光点が散る。
『排熱攪乱、開始』
追跡船の表示が、一瞬だけ乱れた。
ミレアはその隙に、船首を小惑星帯へ向ける。
エイルが息を呑んだ。
いくつもの岩塊が、窓の外をゆっくり流れていき、その隙間へ《ノクターン号》は滑り込んだ。
古い船体が、軋むように震えた。
追跡を振り切った頃には、船内は静けさを取り戻していた。
貨物区画の奥で、黒い箱だけが静かに固定されている。
エイルが呟く。
「……あの箱、何なんだろう?」
しばらく沈黙して、ミレアは立ち上がった。
「降りるなら次の港ね」
「降りない」
ミレアは少し笑った。
「でしょうね。じゃあ、寝床くらいは作ってあげる」
《ノクターン号》は、静かな星間航路を進んでいく。
それは、長い旅の始まりだった。




