「第八章 波の向こう側に見える彼女の背中」
本来、今日の目的は梅田で映画を観る事。このスターバックスに入ったのも映画の感想戦をする為だ。
それが今じゃ跡形もなく消え去って、別の話をしている。油断すれば、映画の内容を忘れてしまいそうな程こちらの方が、密度が濃い。
話し終わった透は、ふとそんな風に思った。
かなり沢山の話をした。内容量に比例して時間も相当経過しており、映画一本分はこの店にいる。コースター代わりのレシートに印字された時刻は遥か遠い。
今まで誰かにこんなに濃く自分の話をした事がない。
実の両親にすら話していない。このまま未来永劫誰にも話す事なく、思い出にしてしまうつもりだった。少なくとも今朝まではそう思っていた。本当に世の中は分からないものである。
透が話したのは、詩織の自殺から倉澤との東遊園地での会話。年月と共に細かい箇所に間違いが見受けられるかも知れないが、概ね許容範囲だろう。
話を全部聞いた、正面に座っている彩子は、背中をソファに深く預けて俯いていた。最初こそ瞳を輝かせて、要所要所で質問してきた彼女だったが、終盤(倉澤と二回目に会ったあたり)から完全に聴き入っていた。
その時点で、話の中止を提案したが、彼女は最後まで聞きたいと強く訴えた。
話し終えるまでは、スターバックスから出さないと言わんばかりの迫力を備えた強い瞳に、透は根負けをして最後まで話したのだった。
そして、全てを話し終えた今、深く沈黙してしまった彩子を前にしている。
終わってからもう十分は経過している。そろそろこちらから話しかけようと決めた透は、口を開く。だが、彼が声を出すよりも先に彩子は顔を上げた。
「じゃあ、先輩がS大付属高校から夜間大学に入学したのは……」
「単に学力不足だよ。流石にあの時点の学力じゃ、どれだけ勉強しても入試テストは通らなかったからな」
無論、在学中に視野が広がって外の大学を受ける生徒は、毎年少なからずいるので、S大に入らない事自体は、決して珍しくない。だが、当時の成績の自分が他大学受験する。その理由がS大の入試テストに落ちたからというのは、周囲で問題になった。
森野詩織との関係を知っていた者達(教職員連中と一部の生徒達)は事情を察するような憐れんだ目を透に向けていた。
また、彼の両親は平静を装いつつもショックはかなり大きかったようで、成績低下の原因から将来の事まで、何度も家族会議を交わした。
「でも、先輩ってウチの大学じゃ特待生でしたよね? じゃあやっぱり、さっきは知らないって言ってたけど、ノートは復活したんですか? それとも多少なりとも回復したとか?」
「まさか。さっきも言っただろう? ノートの回復方法は知らない」
内田は笑って首を左右に振る。
「じゃあ、どうやって」
「一から勉強したんだ」
「えっ!?」
さらりとした口調で話す透。それを聞いた彩子は今日一番驚いた顔を見せた。
「そんなに驚く事か?」
「だって一からって。一体、どこからです?」
「中学一年生から、独学で勉強した。昔の教科書を引っ張り出したり、安い問題集買ってきたりして、大変だったよ」
ノートの事を完璧に諦めてから透は、一人でずっと勉強をしてきた。
それはとても孤独な作業であり、始めるまでは嫌で嫌でしょうがなかった。しかし、諦めにも似た気持ちで中学一年生の教科書を捲った時、それまで僅かにしか見せていなかった感情が一気に現れたのである。
「よく精神的に持ちましたね」
「それがさ。自分でも不思議だったんだけど、勉強が楽しかったんだ。正確には問題と解いた時に得られる満足感と解放感が快感だった。教科書を読んで問題をクリアすればする程、次にいきたい。更に深い内容を知りたいって思うようになって。多分、知識欲ってヤツなんだと思う」
「はぁー。すごぉ~」
呆けた表情でそう言う彩子に透は持論の展開を続ける。
「多分、誰でも小さい頃はあった感情だと思う。それこそ、一+一=二みたいな事が分かった時や平仮名やカタカナを覚えた時、そんな時って皆嬉しかったはずだ。でも、学年が上がるにつれて勉強が高度になって、途中でつまずいてしまう。そして、自分だけがつまづいたまま、周りはどんどん先へと進む。そうなると、あっという間に勉強自体が嫌いになる。一般的にはそうじゃないかな? ただ、俺の場合はずっとノートに頼りっ切りだったから。その辺りの感情が乏しかったんだよ。頭の中からノートが消えて、空っぽになる。そこに新しい知識を入れる。その事がたまらなく快感だった。ところが、いくら快感でも時間が圧倒的に足りない。だから、S大の入試テストは突破出来なかった」
「それはしょうがないですよ。中高合わせて六年分ですから。一年で修めようとするのが無茶なんです」
「結構頑張ったんだけどなぁ~。落ちた時はやっぱり悔しかった。そんな事思うのすら、久しぶりだったよ。一応、最後には定期テストの成績は中の下までは回復したんだぜ?」
「その状態でウチの夜間大学受けて、特待生になっちゃうところが凄いです。でも、どうして夜間だったんです? 先輩なら昼間にも入れたでしょ?」
彩子の問いに透は「ああ」っと言って首を縦に振る。
「理由は二つ。一つは、昼間に起きるのが苦手だから。勉強を主に夜にしてたから。すっかり夜型になってしまったんだ。後は、学費が免除になると両親の負担が減らせたから。まあこれは副産物で、単純に夜間だと学費が安いくらいにしか考えていなかった。S大付属は私立だから、学費もそれなりにかかっていたのに、自分のせいで入れない。その事に何一つ負い目を感じない程、俺は神経が図太くない」
「そう言えば、先輩って大学時代。よく図書館で資格や授業の勉強してましたよね。先輩が作った授業ノート。当時は流行ってました。私も含めて、皆よくお世話になりましたから」
「それはどうも。卒業に必要だった単位は三回の前期には目処が付いたから、残りは資格を取りまくってた。あの頃、時間ならいくらでもあったから、資格は取って良かったって思ってるよ。今じゃ流石にそんな時間はないし」
「先輩って案外、元から出来が良かったんじゃないですか?」
彩子がテーブルに頬杖を突いて、ため息混じりで聞いてきた。
「それはない。新しい知識を得られた事が快感だとは言ったけど、苦手分野は勿論あったし、単に毎日勉強してたから必死だったってだけ。もう一回、同じ事をやれって言われても無理だ」
あの頃の自分はそれをしてしまう得体の知れないエネルギーを内包していた。
どこから湧き出てくるか不明なそれは、勉強を一日足りとて欠かさせる事はなく、今の自分の作り上げてくれた。
現在でも依然としてエネルギーの正体については謎のままである。
確実なのは詩織の言っていたノートの解決法を聞いてしまったら、エネルギーには会えなかったという事。ノートの力はまさに万能という言葉が相応しい。しかし万能であるが故に依存率が高い。あっという間にノートなしでは何も出来ない、中身が空の人間が出来上がる。もし仮に今も消えなかったとしたら、自分の人格は大きく歪んでしまっただろう。
生涯をノートに捧げる覚悟がないと、あれは使い切れない。
今では、高校時代にノートが消えてくれた事に感謝するようになった。
「そろそろこの店を出ないと迷惑ですね。お代わりしているとはいっても……」
話に一段落着いた時、彩子がそう言った。透は腕時計を見る。今日は一体何度時間を確認しているのか。確認する度にその進み具合に驚かされる。
「そうだな。もう出よう」
「はい」
二人は立ち上がり、それぞれの飲み物を所定の場所へ捨てて、スターバックスを出た。久しぶりに外の風に当たる。
「んん~。なんか映画より凄い話聞いちゃった」
隣で彩子が両手を上に伸ばして体を解していた。
「こっちは映画に勝っても全然嬉しくないけど」
短く皮肉を言って、二人は阪急梅田駅に向かって歩き出す。
時刻は夕食にピッタリの時間だった。
あちこちの料理店では、ショーウインドー越しに食事をしている客が見える。
透には食欲はそこまでなかった。より正しく言うならば、食欲よりも疲労の方が大きい。早く自室のベッドに飛び込みたい欲が食欲を遥かに上回っている。
彩子からも特に夕食の話題はない。
だからと言って、このまま甘えるのは如何なものか。透は隣で歩いている彩子に尋ねる。
「今日は夕食どうする? 彩子に任せるよ」
「う~ん。そうですねぇ」
彩子は立ち止まり腕を組んで考える。彼女が止まったので透の足も止まる。彼女が二十秒程唸ったのち、顔をこちらに向けた。
「今日は止めましょう。何だか疲れちゃった」
「了解。じゃあ、今日は帰ると言う事で」
「はい」
二人は、阪急梅田駅への歩行を再開させる。正直、行かないと彩子が決断してくれた時、透は礼を言いそうになったが、既の所で飲み込んだ。彼女の性格は分かっている。本音は夕食を食べたかったに違いない。
大学時代の彩子なら行こうと誘ったはずである。だが、今の彼女は違う。
おそらく自分の様子を見て、今日は止めようと配慮してくれている。
その心遣いに感謝しつつ、透は歩調を合わせて駅に向かった。
二人は阪急梅田駅に到着する。日付、時間帯と共に混雑は集中しており、茶屋町方面の改札ですら、人の波があった。
互いに職場が阪急梅田駅を経由するので、切符を購入する必要はなく、IC定期券を通すだけでいい。先に改札を抜けようとする彩子に透は一つ思い付き、手を伸ばしてストップをかける。
首を傾げて動作を一時停止している彩子にアズナスを指差した。
「何か買うんですか?」
「ああ、スニッカーズが食べたい」
「スニッカーズ好きですねぇ。先輩が大学時代によく小さいのを齧っていたのを思い出しますよ」
「集中したい時や脳を休ませたい時に丁度良いんだ。小さいサイズなら一口で終わるしな。彩子は何欲しいものあるか? 奢るぞ」
「わーい。じゃあガム買ってください。ブルーベリーのヤツ」
「はいはい」
透は狭い店内に入り、スニッカーズと板ガムを手に取って、レジへと向かう。店内に二人以外の客はそれなりにいたが、レジには充分余裕がある。お蔭で並ぶ事なくスムーズに支払いを済ませられた。
アズナスを出てすぐに透は彩子に板ガムを手渡す。
「はい」
「やった。ありがとうございます」
受け取るや否や、早速包み紙を開ける彩子。一枚目を口に含む。途端、彼女の口からブルーベリーの甘い香りが漂ってきた。
「一枚要ります?」
「結構。俺はスニッカーズが食べたいの」
そう言って、透はスニッカーズの包みを開けて口に放り込む。久しく食べていないチョコとキャラメルの味が口内に広がっていく。
二人は口に食べ物を含んだまま、今度こそ改札を通る。
そのまま神戸線へと続く階段を上がった。ホームへと到着してしばらく経つと、スニッカーズはある程度溶けて、口に含んだまま話す事が出来た。
ホームには新開地行きの特急が到着している。まだ到着してすぐのようで、両側のドアが開いている。
「丁度、特急が来ているな。座れそうだ」
「ええ。今なら端の方も座れちゃいますね」
前から三列目の隅(無論、優先座席ではない)という特等シートに二人は腰を下ろす。座ってからすぐに片側のドアが音を立ててゆっくりと閉まった。
ドアが閉まると風の通り道がなくなって、車内に暖気が充満されやすくなり、同時に次々と乗客がシートの取り合いを始めた。二人が座っていたシートはあっと言う間に人間で埋め尽くされてしまう。
奥に彩子を座らせていたので、彼女の隣には窓しかないが、透の隣には疲れ顔のサラリーマンが座り、すぐに下を向いて寝る態勢に入っていた。それが伝染したのか。段々と透の瞼は重くなってくる。
始めは些細な違和感程度の重みだった。しかし、数分も経たぬ内に支えるのがやっとの重量へと急成長する。瞼を落とさないよう、どうにか必死に戦っていると隣から彩子の声が聞こえた。周囲に配慮して小さな声だった。
「先輩って西宮北口でしたよね。駅に着いたら起こしますから眠っても大丈夫ですよ? なんなら肩貸しましょうか?」
彩子の口から香る甘いブルーベリーの匂いは、透を更に眠気へと誘うのに充分で、思考をいとも簡単に奪ってしまう。残り少ない思考を何とか振り絞って、首をコクンと縦に落とした。一度落ちてしまったら、もう持ち上げる力はない。
せめてもの抵抗として彩子の肩を借りる事だけは避けた。
下を向いて腕を組み周囲の視線から逃れるようにして、瞼は着陸する。
耳に最後に入ってきたのは車掌による発車アナウンス。それからガタンゴトンと揺れが始まり、すぐに透の意識は夢の中へと落ちていった。
「――先輩、内田先輩。もうすぐ着きますよ」
遠くの方で透を呼ぶ声が聞こえる。
同時に彼の体が左右に揺さぶられた。
「んっ……。ああ」
声と揺すりの二つの刺激によって、透の意識は覚醒した。
「今、どの辺り……」
ぼんやりとした頭を上げて、半開きなった目を彩子に向けて質問する。
「さっき武庫之荘を通り過ぎました。西宮北口にはあと三分もすれば着くかと」
「ふぁ~。そうか」
生欠伸を手で押さえながら、窓の外の景色を見ると自分の知っている風景が流れていた。武庫川をそろそろ超えるといったところである。
「先輩、よく眠ってましたよ」
「そうだろうな。結構ぐっすり寝た。内容は覚えてないけど夢も見た気がする」
「梅田からココまで三十分もないのに? 先輩は器用ですね」
「はいはい」
彩子の軽口を受け流しながら、寝ぼけた頭を再起動させる。すると彼女が目の前に板ガムを差し出した。
「眠気覚ましにどうぞ」
「ありがとう」
乗る前は断ったが、今度は眠気覚ましという確固たる名目があるので、透は迷う事なく板ガムを受け取る。銀の包み紙を開けて、口の中に放り込む。噛んだ瞬間、ブルーベリーの甘い香りが口内に生まれた。
「今、先輩と私の口の匂いって同じですよ」
「変な事を言うな」
そろそろ電車は西宮北口に到着する頃であった。踏切を超えて、車内アナウンスが始まる。何人かの気の早い連中は、もうシートから立ち上がり、ドア付近に並んでいた。
透が立ち上がったのは、電車がホームに到着する少し前だった。
「今日はお疲れ様。こんな感じになるとは、予想だにしなかったけど楽しかった」
「はい、色々話してくれてありがとうございました」
頭を下げて礼を言う彩子。それを見て透は、今更ながらに彼女と夕食を一緒にしなかった事が申し訳なかったと後悔し始めた。短時間ではあるものの、睡眠を取れたからだろう。今なら食べられる程度には回復している。
身勝手なのは重々承知している。よって透はせめてものという気持ちを胸に彩子にこんな提案する。
「今日はご飯行けなくて悪かった。代わりにまた、近い内に一緒に行こう」
「ホントですか? じゃあ先輩からの連絡待ってますね」
透の誘いに彩子は顔を輝かせて喜ぶ。その笑顔に言って良かったと思った。
電車はホームへと到着する。
特急なので既にホームには乗客が列を成して待機していた。早く降りないと巻き込まれて面倒だ。そう判断した透は「じゃあ、また」っと言って彼女から離れようとする。
その時だった。
「先輩、さっきの話に出てきた司書の湊先生って今どうしているんですか?」
「えっ? いや知らない。辞めてからは卒業式にも来てなかった。元々、俺はあまり話してた方じゃなかったから」
どうして、そんな事を彩子が聞いてくるのか、一切理解出来なかった。
透にとって湊慧一郎は既に登場を終えた人物。現在の状況など、これまで一度だって考えた事もしなかった。
「どうしてそんな事を?」
疑問を彩子にぶつける。
電車のドアが開く音がした。人の足音で車内が揺れる。
彩子はすぐに答えようとしない。しかし、その瞳は真っ直ぐに透を捉えており、決して声が聞こえていないのを証明している。
それなのに、一向に話そうとしない。
余程悩むような内容なのか。透は彩子が話すまで辛抱強く待つつもりでいたが、ホームいた乗客が車内の席に座り始めると、天秤は諦めの方に傾いた。
何を悩んでいるか知らないが、また後にメールで聞けば済む。既に元々ホームに並んでいた客との交換は行われているので、若干迷惑だがしょうがない。
透が片手を彩子に向かって上げて、降りようとしたその時。
彼女がようやく口を開いた。
「湊慧一郎は自殺しました。森野詩織さんと同じように首を吊って」
「……はっ?」
透の思考は停止する。
それまでに考えていた電車を降りようとか、家に帰ったら早く寝ようとか。そういった類の考えは、一瞬で消え去った。
当然、透の両足も動きを止める。中途半端な場所で止まってしまった為にまだ乗ろうとしている乗客達とすれ違う。誰もが皆彼に向かって不快感をあらわにした表情で一瞥するが、本人にしてみたら、どうでもよかった。
「……どういう事だ?」
思考停止中の頭で、その言葉が透の口から出たのは、奇跡と言える。
どうして彩子がそんな事を知っているのか?
知っていたのに今まで隠していたのか? 疑問は次々に湧く。
透は彩子の座っているシートへ戻ろうと体の向きを変える。彼女の隣、つまり自分が座っていた位置には、既に他の客が座っていたが関係ない。
一歩、右足を前に出した。
すると、まるで夢の終わりを告げるように、車内から発車を知らせる合図が鳴り響く。透の体がビクっと反応した。それまで気付かぬ内にミュートになっていた周囲の雑音が一気に聞こえるようになる。
彩子は恐怖に感じる程、機械的な笑顔で透に向かって手を振った。
話す気はない、拒絶されたのだ。そう理解した透は、振り返りギリギリのタイミングでホームへと降りる。降りてすぐ、後ろのドアが閉まる音がして、電車が発進した。
透はその場に立って、下を向いていた。電車を振り返る気にはなれない。
改札行きの階段は、先程まで乗っていた乗客で渋滞中。とても渋滞の流れに乗ろうとは思わなかった。
透がようやく動き始めたのは、次の普通電車が到着してからの事。
そこから自宅までどうやって帰宅したのか。正確な記憶は思い出せない。気付いたらマンション前に立っていた。
手にはコンビニの袋が引っ掛かっており、アクエリアスのペットボトルやカップうどんが入っていた。食欲に従って自動的に体が用意したようだ。
マンションの一階の郵便受けを確認してから、自分の部屋がある三階まで行く。エレベーターを使う気にならなかったので、階段で上がった。
ガチャリっと鍵を回してからドアを開ける。
玄関の電気を付けて靴の脱ぎ、リビングを通り過ぎて自室へと向かう。片手にコンビニの袋を持ったまま、ベッドに倒れ込んだ。
「すぅーっ、はぁ~」
深い深呼吸をして、目を瞑る。体はこれ以上ないくらいに疲れているのに、脳だけが元気で休息を許さない。目を瞑っているだけで、決して眠気は来なかった。電車で眠った時の感覚を取り戻そうと意識を沈める 努力しても、無意味だった。
十分程、眠る努力をしたが成果は一向に現れなかったので、透は諦めてその場から起き上がる。手から外れていたが、ベッドに乗ったコンビニの袋からアクエリアスを取り出して口に含んだ。まだ充分に冷えていたアクエリアスが喉を伝わって体中を巡回していく。
お蔭で熱暴走気味の脳を少しは冷却する事が出来た。叶うなら頭を開けて直接流し込みたいと思うくらいである。
アクエリアスを三分の一程飲み、ベッド付近のサイドテーブルへ置いた。そして、ベッドから立ち上がる。その時点で部屋着に着替えていないどころか、まだ手を洗っていない事にも気付く。
部屋着に着替えて手を洗い、リビングでニュースを見ながらカップうどんを食べる。それらを済ませたら、残り少なくなったアクエリアスをお供に再び自室へと戻った。
イスに座りデスクのノートパソコンに電源を入れて、立ち上がるのを待つ。
メールチェックを終えると、透はキーボードから手を離して、ぼんやりと天井を見上げた。
着替えてから今までの約一時間半の間、考えないようにしていた事を再び考え始める。視線を天井から下ろしてノートパソコンの時計を見た。彩子と別れてから、そろそろ二時間を超えようとしている。
意識的には一週間前と言われても納得してしまいそうな程、遠くに感じた。
空になったアクエリアスを持ち、透はキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けてビールを一缶。それとカマンベールチーズを手に自室へと帰る。イスに腰を下ろしてビールのプルタブを開けた。カシュっと炭酸の良い音を聞いてから、ビールに口を付ける。今日は酒を飲む気はなかったのに飲んでしまった。ビールの苦みが喉を通り過ぎる。
それから、しばらく透はネットサーフィンをしながらビールを飲んでいた。
次第に缶を冷蔵庫に取りに行く回数は増えていく。カマンベールチーズは食べ切ったので、今は何も肴を用意せず、ビールだけを飲んでいた。そのせいか、アルコールの回りは早い。
時間は十時を超えていた。明日は日曜日なので、特別早く寝る必要はない。
ただ、学生時代のような夜更かしをすると結局、月曜日にまで引きずる可能性があるので、そこそこの時間で眠る必要がある。
アルコールが回っていると、自分でも分かるくらいに酔っていた。
体温の上昇がしていて、頬が熱い。独特の高揚感もある。
だからこそ、彼はふいにデスクの引き出しの一番奥にある物を取り出した。それは決して金で買う事の出来ない、透の宝物である。
普段はまず出さない。酒に酔った状態だからこそ、出せるのだ。上気した思考でそれを確認する。
「んっ?」
とある地点で違和感があり、手が止まった。
まさか、この箇所で違和感が生まれるとは、ここ数ヶ月の仕事の忙しさに脳が疲労しているのか。それともビールのせいで、馬鹿になっているのか。
目を瞑り、違和感の整理を始める。
それがやがて小さな発見へと存在変換して、透の頭に住み始める。
そこからの流れは早かった。一つ一つのピースがかっちりとハマっていく感覚が頭の中で次々と起こり、止められない。
濁流のように溢れ出る情報を必死に零さないようにするので、精一杯だった。
アルコールで麻痺していたのか。アクエリアスによって冷却されていた熱暴走がまた顔を出し始める、加えて今度は、嘔吐感までプラスされた。透はキッチンへと向かい、水を飲んだ。胃に溜まったアルコールを水で薄めるが、それだけでは到底敵わない。その場にしゃがみ込む。
喉元から込み上げてくるカマンベールチーズと胃液が混ざった最悪の風味を気力で押し戻そうとする。口を手で塞ぎ、必死に出ないようにするが、塞いだせいで余計に口内に充満する嘔吐感は、透を立ち上がらせて、流し台に向かって口を開かせた。
胃に入っていたアルコールを吐き出して蛇口を捻り、水を出し続ける。
ジャーっと水が出る音を聞きつつ、透は再びその場にしゃがみ込んだ。彼は決して、酒が弱くない。ビールを二、三缶飲んだところで吐くようには出来ていない。本来、アルコールの分解処理に回す能力を他に使ったから、その代償が来ているに過ぎないのだ。
しゃがみ込んだ透が立ち上がったのは、十五分は過ぎてからである。彼は立ち上がり、蛇口から滝のように流れている水にコップを入れてうがいをした。口に残った僅かな嘔吐感を追い出すと、コップを流し台に捨てて、水を止める。
そしてフラフラと自室まで戻った。
電気が点けっぱなしになっていた事に軽く驚いた後、透は帰って来た時と同
じようにベッドに倒れ込んだ。仰向けになり目を瞑る。気分は最悪だった。
当分の間、酒は飲みたくない。視線をズラすとデスクの上には自分が飲み干したビールの空き缶が無造作に置かれていた。よく一缶も床に落ちなかったものだと感心する。そして、その横にある物に手を伸ばした。
酒が抜けきった頭で再度確認するが、やはり真実は変わらなかった。
そもそもにおいて、これを透は隅から隅まで確認していない。それは単に量が多いのが一つ。そして、もう一つは怖かったのである。
何が怖いのか。
それは中毒になってしまう事だ。
酒の勢いでたまに引き出しから出すくらいなら構わない。だが、いつしかそれをする事が習慣になってしまったら? 透はそれが怖くてたまらない。
詩織はもういない。それなのに彼女の幻影は傍にある。
実家に置いてくれば簡単に解決するのに、それが出来ないのはひとえに彼の弱さに故に他ならない。現状の距離感が最適な対処法であった。
唯一の救いとしては、たまに新しい発見がある事。今回の件はその中でも最大級だった。おそらくこれ以上は、今後あり得ないだろう。
そんな事を考えつつ、ゆっくりと意識が落ちていくのを感じていた。徐々に体の自由が利かなくなる。やっと脳が睡眠を許可したのだった。
良かった、少なくとも体力は回復出来る。
パソコンをシャットダウンせず目を瞑っていると、透のiPhoneがメールを受信した。落ちかけていた意識は着信音と振動によって呼び戻される。
体を起こしてサイドテーブルに手を伸ばす。そこに置いてあるiPhoneを手に取った。
仕事関係のメールではないだろう。それならば、まずパソコンに届く。
となると、タイミング的に相手は一人。
透は重たい気分でメールを開いた。相手は予想通り、彩子からだった。
仕事関係で目にするのとは違う。完全な友人間での文章形態だった。絵文字や顔文字を使いつつ、改行をして上手に文面を纏めている。
今日の映画を観た話から透が話した高校話へと、上から下に流れるように感想が書かれて、最後に今度会う時の食事が楽しみだと書かれて終わっていた。
「……はっ」
乾いた皮肉めいた笑いが透の口から漏れる。
彩子からのメールには、見事に電車から降りる際に話した事が抜けていた。
まるで、その話は今日一日の歴史に始めから存在していなかったようである。
そっちがそのつもりならば、応えぬ訳にはいかない。
透は早速返信を書き始める。
内容はスターバックスで話した昔話を中心に今日のお礼。話せて心がスッキリしたと最後に書いてから、二行ほど改行して、違う内容の文面を書いた。
それは、今度の食事の具体的な提案だった。誘うと言った自分からの方がメールはスムーズに進む。メールを送信すると、五分も経たない内に彼女からの返信が届いた。それにすぐ返事を書く。
まるで互いを牽制し合っている野生動物のようで、透はふと可笑しくなりメールを書きながら笑ってしまう。
短いメールを互いにマシンガンのように打ち合って、日取りを決めた。
一週間後の日曜日。次の月曜日は祝日であり、三連休な為、土曜日よりも間の日曜日の方が、二人共都合が付いたのである。
最後におやすみと挨拶を交わしてから、透はiPhoneを手放して横になった。
ベッドの上で不規則なバウンドをして飛んでいったiPhoneを取る気にはなれない。まだ、少量の酒の嘔吐感が残留していたようで、胃から気持ち悪い刺激臭が込み上げてくる。
透は仰向けになり、クリーム色の天井を見ながら大きく深呼吸をした。
肺の空気を新鮮なモノに取り換えて、気分を入れ直すとベッドから降りて立ち上がる。転がっていたiPhoneを拾って、枕元の充電ケーブルに挿した。
今から寝れば、昼前には目が覚める。そう思いつつ、部屋の電気を消す。部屋が瞬時に夜になる。そこから手探りでサイドテーブルに置いてあるスタンドライドに手を伸ばした。
白のLEDから暖色へと部屋の光源が交換される。枕に顎を乗せて、サイドテーブルに置いてある文庫本を手に取り、栞を抜いて読み始めた。
それは高校生の頃から追いかけている好きな作家の文庫である。主人公の中学生男子が桜を見に一人で夜行バスに乗って旅をする話。油断するとほっとけない主人公の心理描写がページを捲る意欲を高める。
この作家の本の話を昔、詩織にした事があった。本棚にはまだその本が並んでいる。閉じ込めたページを開けば、あの時の空気がする事だろう。
透はキリの良い箇所まで読み進めると、また栞を挟み文庫を閉じた。スタンドライトに手を伸ばしてスイッチを切る。部屋の中をまた夜にして、瞼を閉じた。
穏やかな波に乗って沖へ流れるように透の意識が、徐々に夢に落ちていく。
夢の中へと落ちる僅かな待ち時間。最高に気分が和らぐ状態で、透は来週の事を考えた。来週の今頃はきっと、明日の事を考えて緊張している。
こんな穏やかな波は来てはくれないだろう。もしかしたら、当日の夜だって来ないかも知れない。だから、今を精一杯堪能しよう。
そう決めて、透は波に向かって彼女の名前を口にした。
誰にも見られていない、誰もいない自分だけの空間でその名前を口にする。空気が振動して間違いなく声になった。名前を呼ぶとまるで、彼女が現実に存在するかのような錯覚に陥る。透は最初、驚いて目を見開くがすぐに懐かしむように目尻が下がり、微笑んだ。
ココならばしょうがない。波の向こう側に彼女の背中が見えた気がしても。
そう納得して、彼は波に飲み込まれていった。