「第九章 大人達はすぐに騙された」
透は彩子と約束した日までの一週間、仕事に没頭していた。普段ならばそこまでの出来を求められない箇所も完璧にする。また、いつもより早く出社して、その日一日の仕事のチェック。定時には帰らず、残業をして仕事を処理していた。
別に多忙な時期でもないのに彼の猛烈な働きぶりに、周囲は驚く。何度も何かあったのかと聞かれたが、その都度何でもないと言って通した。
全ては日曜日を考えないようにする為である。家ではともかく、外でも考えていたら、まともに生活は送れない。学生時代ならばそれでも、どうにかなるだろうが、今はそうはいかない。
一歩外に出たら、常に脳を他で埋め尽くす事によって、日曜日を忘れる。
そうやって、透は日々を過ごしていた。その結果、帰ってきたら体は疲れ果てて、最低限の事のみを終わらせて、残りは寝るだけとなる。酒もやむを得ない付き合いを除き、自らは口にしなかった。
その甲斐あってか、この一週間はまるで、ビデオテープの早送りのように進んだ。透が時間の流れをはっきりと認識しだしたのは、土曜日の午後からである。
土曜日の夜。
透はイスに座り目を瞑っていた。
一見すれば眠っているのか、それとも瞑想でもしているのか。
およそ二十分弱そうしているが、今の透は視界を閉じているので、大よそでしか時間の経過を計れない。それでも、流れを感じる事が出来るのは、彼自身の体内時計が正常値に戻ったから。
言ってみればこの作業は、時間感覚を正常へと戻す為のメンテナンスである。
「ふぅ~」
細く冷たい息を吐いて透は目を開いた。
二十分ぶりに見る光源はとても眩しく、反射的に閉じそうになる。それをどうにか抑えた彼は、デスクに置いていたアクエリアスを飲んだ。酒代わりと言っては、些か役不足だが、精神安定の効果は酒並である。
息継ぎをして喉が望むままにアクエリアスを流し込む。
口をペットボトルから離して大分軽くなったのをデスクに置くと、透は引き出しに手を掛けてあれを取り出そうとする。
「……」
だが、透は引き出しに手を掛けたままで止まり、開けようとはしなかった。
何かを諦めたようなため息をつくと、寝支度を済ませてベッドへと入る。
先程まで目を閉じていたので、すぐにまた閉じようとは思わなかった。加えて部屋の電気を消しているので、瞼が閉じている状態と視界の明暗に差がない。
頭を空にして、先週やって来た波が訪れるのを待ち、明日に備えた。
彩子と待ち合わせの当日。
約束の時間は午後四時。夕食を食べるには中々に早いが、それは互いに承知済である。今日までのメールの撃ち合いの結果、この時間に決まったのだ。
現在の時間は、午後三時四十五分。
透は阪急梅田駅を出て三番街にある紀伊国屋書店前にいた。反対側のビッグマンの前だと、人が溢れているので必然的にこちら側となった。
適当な柱に背中を預ける。正面には紀伊國屋書店入口、左側には阪急タクシーが長い渋滞を形成している。
透は肩掛けカバンから文庫本を取り出す。読み途中の小説がクライマックスなので、ページを捲る意欲には事欠かない。それと一緒にある代物を取り出した。
それは銀色のMDプレーヤー。再生専用機ではなく、録音機能まで付いた高性能機である。既に付属の充 電機能は破損しているので、単三電池ケースを使って電源を確保していた。
今日はこのMDプレーヤーを使う。
電車に乗る前に売店で新品の単三電池を買ったまでは良かったが、車内でテストをする前に、気付けばガタンゴトンというリズムに瞼がやられてしまった。
自宅では酒に酔った時に引っ張り出して懐かしさと共に電源を入れる事が多々ある。と言っても、電池は新品を用意して、動作テストを行うに越した事はない。今この場でMDプレーヤーに電源を入れた人間は、これ程人で溢れている梅田といえども、透一人であろう。
透は電源を入れて細長いコントローラーで選曲した。一曲目のトラックに収録されている曲が、イヤホンを通じて耳に入り始める。
高校時代に幻聴が聞こえる程、聴いた『Queen』の『Killer Queen』が流れると途端に透の心は、あの頃へと強制的に戻されそうになる。いつも持ち歩いているiPhoneにだってこの曲は入っているのに、MDプレーヤーで聴くと少し違う。
そうなっている気に過ぎない事は、充分理解していたが、そう思わずにはいられなかった。
彩子に会う前に一応の動作テストを済ませる事が出来た。音飛びはなくクリアな状態。透は彼女が来るまでの僅かな時間。『Killer Queen』を背景にして、文庫本を読む。
そのまま物語に意識を没頭させていた頃、ふいに透の肩がトントンっと二回叩かれた。栞を挟んで顔を上げる。そこには、一週間ぶりの彩子の姿があった。
「先輩、こんばんは。お待たせしちゃいましたか?」
「いや、大して待ってないよ」
イヤホンを耳から外してそう返す。彩子の視線が透の胸元にクリップで留められたコントローラーへと向けられた。それを説明しようと口を開いたが、それよりも早く彼女の視線は上がる。
「さて、どこに行きましょうか?」
説明する前に口火を切った彩子に、透は少々戸惑いを感じた。
しかし、こんな序盤で彼女に飲まれている場合ではない。すぐに気持ちを切り換える。
「そうだな、夕食にはまだ早い。軽くお茶しようか」
「あっ、それ賛成です」
「決まり」
二人揃って確信犯でやっている事を異論なく進める。
まるで、予め用意された台本を話す劇のようだと透は思った。二人はその場から移動し始める。場所は台本にないので、ココからはアドリブだ。
「やっぱり三連休の真ん中だから人が多いですねぇ~」
すれ違う人と肩をぶつからないようにして歩く彩子がそう言う。
「多分、これでもマシな方。昨日とか一昨日の夜はもっと凄かったはずだ」
「確かに。連休初日と連休前ですからね」
適当な話をしつつ、二人は歩き続ける。行先は自然と茶屋町方面へ向かっていた。ホテル阪急インターナショナル前の信号待ちの時に透が口を開く。
「この前と同じスターバックスでいいよな?」
むしろココまで来て違う店に入るのは、あり得ないが、一応確認する。すると彩子は笑顔で頷いた。
「勿論です」
信号の顔色が赤から青になると、待っていた人々が向こう側に渡り始める。
ホテル阪急インターナショナルに入り、ちゃやまちアプローズを歩く。
左右に財布を吸われそうな高級店が並ぶ中、二人は一番右奥にある、スターバックスへと入った。時間帯と日付から混雑を覚悟していたが、奇跡的にソファ席を確保する事に成功した。
獲得したソファ席に先に彩子と荷物を座らせて、透は注文に行く。(彼女のリクエストは勿論確認済み)普段なら、多少イライラするであろう注文が長いカップルに今日は不思議と何も感じる事ない。透は、二人分のコーヒーを買って、ソファ席へと戻って来た。
「お待たせ」
「ありがとうございます。いくらでした?」
「いいよ。俺が持つ」
「えっ、そんな悪いですよ」
財布を出して払おうとしていた彩子は、奢ると言われて素直に驚いていた。それは透からしたら、大した意図はない。言ってみれば、先程彼女にMDプレーヤーの説明をさせてもらえなかった事に対する仕返しである。結果、彼女は素で驚いた顔を見せてくれたので、成果は上々だ。
透はソファ席に腰を下ろす。彼の意図を察したのか、それともそこまで興味はないのか。
彩子は「それでは、ゴチになります」と言って財布を引っ込めた。
透は一週間ぶりにキャラメルマキアートを口にした。
たった一週間口にしていないだけで、何だかとても懐かしく感じる。
店内もあれから目に見えて分かる変化はない。透が座って、左側にあるドーナツのような丸みもそこに張られた大きなガラスも何一つ変わっていない。
言ってみれば、あの日の五分後に訪れたようなモノだ。
それなのに心境は一週間ぶりとは思えない。あれだけ仕事に熱中して、時間感覚を麻痺させたはずなのに。家でメンテナンスした以上の効果がある。生きるとは本当に難しい。
透がそんな事を考えながら、キャラメルマキアートを堪能していると、同じく黙って飲んでいた彩子が口を開く。
「何か一週間前とは思えない程、懐かしいですね」
「奇遇だな、俺も同じ事を考えていた」
彩子が自分の考えに同調してくれていた事が嬉しくて、自然と笑みが出た。
「人間の体内時計なんてアテにならないですね。先輩はこの一週間、どうでした? 早かったですか?」
「早かった方かな? 仕事に没頭していて、気付いたらって感じだ」
「いいなあ。私は逆ですよ。この一週間何をしていても、今日の事を色々考えちゃって。考えないようにしようとすればする程、辛かったです」
彩子がそう心境を語り出す。
自分だけではなく、彩子もこの一週間を話せた事が嬉しくて、つい心のガードが緩んでいるのかも知れない。透は彼女がどうして、そんなに今日の事を考えていたのかを尋ねるなんて、無意味な行為はしなかった。代わりに微笑んでキャラメルマキアートに口を付ける。
口を離してから、微かに香るキャメルの甘さを鼻で追ってしまいながらも、透は「さて」っと静かに言った。それだけで、彩子を纏う空気が変わっていく。
今の今まで緩んだ心のガードは再び強固になり、顔つきも真剣になっていく。叶うなら、こんな表情ではなくて、緩んだ状態の彩子と会話をしたかった。
しかし、それは過ぎた願いだとすぐに戒める。
「今日の話し合いの方針について、私から先輩に三つの提案があります」
「提案?」
「はい。私達は互いに相手が欲しい情報を所持している。なので、今日はそれらを交換する場にしたいのです。それが一つ目です」
「異論はない」
むしろ透もそれを望んでいる。彼が承諾すると、「ありがとうございます」っと頭を下げてから、彩子は話を続けた。
「二つ目に、今日この場においては、嘘をつくのは止めましょう。そんな事をしても何の意味もない」
「いいよ」
「最後に、こんな話し合いは今日で最後にしたいです。明日からはまた、仲良くしたい。この後のご飯だって、美味しい所に行きたいですから」
「それに関してだけは百%の保障は出来ない。やっぱり、今日の話はそれだけ大きいはずだ。これで俺達の付き合いがなくなってしまう事も有り得る。まだ何も話していないこの段階で、安易な約束は出来ない」
最後の提案だけは、透が承認出来ない理由はもう一つある。それは今回の場を円滑に進める事において、直接影響がない点だ。彩子が言っているのは、ただの未来の希望。それは約束出来ない。
そうなったらいいなとは思うが、自分自身の慎重さ、悪く言えば臆病さがそれを決して許可しない。この思考傾向は、高校時代から自分の心に根付いている。
きっとこの先、永劫治らない。そう透は自己分析する。
「……そうですか。残念ですけど、仕方ないです」
そう言って彩子はハンドバックから一冊の手帳を取り出した。
表紙は革製で濃い茶色。かなり傷んでおり無数に傷やシワがある。味があるとは言い辛い傷み方だった。他にも所々に黒ずんだシミが付いている。表紙には特に何も書かれていない。
彩子は、取り出した手帳をテーブルに置く。
「これは湊慧一郎の手記です」
「手記?」
そんな物があるとは思わなかった。現物を見て驚いている透に、彩子は淡々と説明をする。
「彼がS大付属高校で司書教諭として働いていた頃から、死ぬ間際までの出来事が記載されています」
「そんな物どうやって手に入れた?」
彩子に手記と説明されてから、それに目をやると印象が一気に変わり、とても気味が悪い代物にしか見えなくなった。迂闊に触れたら、体調を崩しそうな禍々しさすら感じる。
眉をしかめる透を余所に彩子の話は続く。
「私がこれを手にしてから外に持ち出したのは、今日が初めてです。だから、あの人の周りにいた人物で、存在を知る者はいないでしょう。私を除いて」
「だから、そんな存在を誰も知らない代物をどうやって彩子が持っているのか。俺としてはそこが気になるんだが?」
そもそもどうして、彩子が湊と知り合いなのか。それに関する、とある可能性をこの前一つ偶然にも発見したが、やはり本人の口から確認したい。
「順を追ってお話します。ですがその前に、先輩にもある物を出していただきたい。持って来ているのでしょう?」
「分かった」
透は肩掛けカバンから、先程動作テストを終えたばかりのMDプレーヤーと透明なプラスチックケースに入った十二枚のMDディスクを取り出して、テーブルに置く。テーブルに置いたそれらの物は、彩子にはとても意外だったらしく、あからさまに不機嫌な顔を見せた。
「何ですか、それ?」
彩子の問いには多少の怒気がブレンドされていた。透は彼女の怒気をさらりとかわして、首を傾げる。
「何ってMDプレーヤーだけど? 待ち合わせの時も出していただろう?」
「私を馬鹿にしているんですか?」
更に怒気がブレンドされる、彩子の目つきがより攻撃的になっていく。
「まさか、そんなつもりは毛頭ない。一体、彩子は俺が何を持って来たと思ったんだ?」
「それは……」
言葉に詰まる彩子。彼女の沈黙と共に怒気も引っ込んで、何かを考えているらしく上唇に指を当てている。
やがて小さなため息の後、口を開いた。
「私が見たいのはこんなMDではなく、二人の交換日記です。あるのは知っているんです。ふざけてないで、早く出してください。それとも本当に持って来ていないんですか? それだったら、今から先輩の家まで行きますよ」
交換日記。彩子がその単語を口にして、透は久しぶりに存在を思い出した。言われないと、一生出て来なかったかも知れない。
依然として氷の針の如く冷たい視線を向ける彩子に、何て事ない顔で答える。
「交換日記? ああ、そんな物もあった。でも、あれはもうない。大分前に燃やしちゃったからな」
「……燃やした?」
彩子からしたら、とても信じられない言葉だった。彼女は疑心に満ちた表情をこちらに向ける。小さな舌打ちも聞こえた。どうやらとても信じてはもらえていないようだった。
「私になんかに見せる価値はない。そういう事ですか?」
一度引っ込んだ怒気が再び顔を出して、小さな震えがプラスされている。このままではマズいと、努めて冷静に諭すようにして透は話す。
「いいか。どこで交換日記の存在を知ったのか知らないけど、あんな物は最初から意味がないんだよ」
「意味がない?」
その言葉に彩子の怒気が薄まり、疑問へと変化していった。やっと話が通じる段階に入ったと安心した透は肩で一回息をして、「そうだ」っと頷く。
「あれは元々、騙す為に作ったんだ。最初から嘘八百の代物なんだよ」
「騙すって誰をですか?」
「大人達」
交換日記本来の役割を透は簡潔に明かした。あの交換日記は最初からその為だけに存在していた。用済みになればもう意味はない。
もうこの世にはないのだから、透自身も忘れていた程だったのに、まさか燃やしてからも出てくるとは思わなかった。そのしぶとさにある意味感心する。
「交換日記という詩織直筆の代物があれば、彼女が自殺してしまった動機を探す手掛かりとして、これ以上の物はない」
「その為にわざわざ生前に彼女は直筆で偽の交換日記を用意したと? 悪いですけれど、とても信じられません」
先程より怒気はないが、信じられないといった態度は変わらなかった。無理もないと思った透は、軽く鼻息を吐いてテーブルに置いていたMDプレーヤーを手に取る。
「大人達を騙す。それだけ抜粋すると胡散臭く感じるけど、もう一つのきちんとした理由がある。それがこのMDプレーヤー。これを大人達の目から隠す事こそが本当の目的だったんだ」
手に取った銀のMDプレーヤーを彩子に渡す。あちこちの塗装が剥げて、外装が残念な状態になっているが、使用には問題ない。彼女は注意深くそれを観察していたが、やがて「あっ」っと小さく声を上げて、ある事に気付いた。
その反応に透は頷く。
「これは詩織が愛用していたMDプレーヤーだ。当時の物にしてはかなり豪華で単独でのアナログ録音機能が付いている。小さなマイクケーブルがあれば、このMDプレーヤー単独の録音が可能な機種なんだ」
透は発売当時の値段を調べた事がある。なんと、四万円を超える代物であった。
それ程の高価な物を高校生が買うのは大変だ。ましてや詩織は、当時アルバイトを行っていない。ならば尚の事、大事にしていた事だろう。
それ程の品をどうして今、透が持っているのか。
本来ならば、形見として詩織の親族が持っているはずではないのか。目の前の彩子はそう言いたげだった。透は彼女が今にも口にしそうなその疑問を解決すべく、ある事を質問する。。
「彩子、イヤホン持っている?」
「ええ。持ってますけど……」
「じゃあ聴いてみるといい。それで全部分かるから」
彩子は、ハンドバックから白いカナル型のイヤホンを取り出した。そして、未だ状況が読み込めぬまま、コントローラーにイヤホンを挿す。
「一曲目は、洋楽が入っているから。二曲目から聴いてくれ」
言われるがままに、彩子は一曲目のトラックを飛ばして、二曲目から再生する。
周囲に座っている客の話声が大きいので、彩子は自然とイヤホンに手を当てて、集中して聴く姿勢になった。もう透の声は聞こえないだろう。そんな事を考えながら、彼女の反応を見守る。
……やがて。
彩子の瞳が弾かれたように大きく見開いた。
その表情は酷く驚いている。ああ、ようやく始まったかと透は思った。
「嘘……」
そう小さく呟くと彩子の瞳はみるみる内に潤み始めて、今にも泣きそうな顔になる。いや、既に泣き始めているのかも知れない。
途端に両目を手で隠してしまったので正確には透には分からないのである。
それからどれくらい時間が経過したのか。
震える息遣いの彩子がイヤホンを外すまでの時間は、とても長く、また僅かな時間にも感じられた。
ハンドバックから水色のハンカチを取り出して、彩子は目に押し当てた。
それから深いため息を吐く。そして、コントローラーからイヤホンを外して、透にMDプレーヤーを返した。
透はそれを大事に受け取った。
「どうだった?」
「……ズルいですよ。こんなの……」
透の問いに声を震わせながら答える彩子。
その声にはもう怒気なんて一切込められていない。それどころか正反対の穏やかさえ感じる。
透は手の中のMDプレーヤーに視線を落として一度優しく撫でた。
「これが詩織の本当の日記なんだ」
MDディスクには録音された森野詩織の声が日記という形で収録されていた。




