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クリスタルホワイト・アイス  作者: 綾沢 深乃
10/12

「第十章 早川彩子」

「じゃあこのMDディスクは全部……」

 彩子はテーブルのプラスチックケースに入ったMDディスクを見て、そう呟いた。透は首を縦に振って肯定する。

「彩子が高校一年生から亡くなるまでの日記だよ。収録時間は決まっていない。一分程度の日もあれば、五分にも及ぶ日もある。録音モードを最長に設定しているから、一枚のMDディスクに最大容量の三百二十分が収録されている」

「そんなに」

「そう。だから恥ずかしい話。俺はまだ全部を聴けた訳じゃないんだ」

「えっ? そうなんですか?」

 透の告白に彩子が驚くのはもっともだった。彼がこのMDディスク一式を手に入れてから、七年は経過している。ペース配分をかなり緩くしても、終わらない方がおかしい。

 透は苦笑しつつ頬を掻いた。

「やっぱり、全部聴くのは勇気がいるんだ。情けないよな、もうあれから何年も経つのに……」

「いえ、先輩の気持ちは分かりますから」

 彩子がそう慰める。この話が始まった時からは考えられない状況だった。

「ありがとう。現在、俺が聴いたのは全体の半分ちょっと。だから、彩子がどうして、詩織の事を知っているのかも先週までは分からなかった」

 透は言葉の最後に、今日の話の根幹に関わる事を言った。

 彩子はどうして詩織の事を知っているのか?

 それが透の知りたい情報。ただ、目安は彼にもついている。後は彩子の確認が欲しいだけであった。

「先輩は、分かっているんですか?」

「うーん、予想だけどな。だから知らない体でいこうと思ったんだけど、つい口が滑っちゃった」

「なら、答え合わせをしましょう。ですが、その前に問題をはっきりさせる必要がありますね」

「ああ、そうだな」

「先輩が私に聞きたい事はなんですか?」

 彩子は改めて透に質問した。

 予想している答えを透はすぐに話さず、まず問題の提示から始めた。

「一つは、彩子がどうして、湊先生の手記を所有しているのか。もう一つは、湊先生と彩子の関係性について。この二つ」

 右手の人差し指と中指を立てて、透は問題を投げかけた。

 投げかけられた彩子は目を瞑り、少々の間を作った後、小さくため息をした。

「まず、一つ目の湊慧一郎の手記を所有している理由についてですが、これを説明するには、二つ目の質問から答える必要があります。おそらく先輩は、こちらの方には大まかな予想を付けているから、二つ目にしたのでしょう。でも、話をするのなら先にさせていただきます」

「構わない。彩子が好きに順番を決めてくれ」

「ありがとうございます。とは言っても、一応答え合わせですからね。先輩の予想から先に聞かせてください」

 真っ直ぐ透を見据える彩子。

「彩子と湊先生は実の親子だった」 

 透が話す言葉はあくまで予想に過ぎない。詩織の日記にあった内容から考えたのである。

「流石、その通りです。まさかとは思いますが、あの人から聞いたんですか?」

 彩子の問いかけに軽く笑ってから、かぶりを振る。

「まさか。湊先生とは話した事は挨拶程度しかない。予想は付いていたと言ったのは、詩織の日記を聴いたからだ」

「詩織さんの日記に……」

 彩子の視線が自然とテーブルのMDプレーヤーに向けられる。

 透はそのまま視線をこちらに向けない彩子に言った。

「秘密のアーちゃん。あれはお前の事だろう? 日記で言っていたよ。名前をそう呼ぶのは、同じ名前の人物が一緒にいるから。それと彼女の名字は皆に秘密だからだそうだな」

 その名前を出すと、彩子の口元が緩んだ。視線をテーブルへと向けていても、はっきりと分かる。彼女は懐かしむように微笑んでから、顔を上げた。

「その呼ばれ方を聞くのは、随分久しぶりです。私が中学の頃だから、そろそろ十年は経ちますね……」

「じゃあ、やっぱりお前が」

 透の問いに彩子は「はい」っと言って首を縦に振る。

「先輩が今話した通りですよ。私が詩織ちゃんと教えてもらう時には、一対一じゃなくて、複数で教えてもらう場合が殆どでした。その中にいつも、佐野綾子さんがいました。その人と私の名前の読み方が一緒だったんです。だから区別する為、名字を隠す為に私は、今先輩が言った名前で呼ばれるようになりました」

「佐野綾子、聞いた事がある名前だ。確かよく詩織に勉強を教わっていた女子」

 懐かしい名前が、文字として記憶には残っているが元々の繋がりはないので、外見や声は一切出てこなかった。

 しかし、それはこの話を進める内には、そこまで重要視ではないので、特に気にする必要はない。それよりも彩子が当時の詩織と繋がりがあった事を証明出来た事で、新たに一つの疑問が浮かび上がった。

「追加で一つ教えてほしい。俺の事は詩織から聞いたのか?」

 当時の二人の関係は誰にも口外しない約束だった。透は事実、警察にすら(向こうから聞いて来ない限りは)一度も口にしていない。当然、詩織も同じだと、いやむしろ彼女は自分よりも秘密を強固に守る人物だと思っていた。

 ところが、彩子が自分達の関係を承知済みだった事について。最有力の情報ソースは詩織しかあり得ない。

 他校、年下だから秘密を打ち明けても露呈しないと考えたのだろうか。

 透がそこまで考えていると、彩子は手を左右に振った。

「違いますよ。詩織さんからは何にも教えてもらっていません。これは私だからではなく、勉強を教えてもらっていた誰もがそうでした」

「そうか。じゃあ、本当にどうやって?」

 詩織が外部に口外しなかった事。それが彩子の口から証明されて、安堵のため息を吐きつつも追求する。

「綾子さんからです。大体、先輩が警察にバレたのって彼女が発信源なんですよね? 本人が非常に悩んでましたよ」

「あー。そっちね、成程成程。いや、別に大丈夫。バレても大丈夫なように交換日記があったんだから。そっか、佐野さん悩んでたのか。結局、俺とは一度も会話らしい会話をした事がなかったから。彼女がそこまで悩んでるなんて知らなかったよ。今、何やってるんだろう? 彩子なら連絡取れないか」

「残念ですが、綾子さんとはもう何年も会っていません。彼女とは自然と疎遠になってしまって……」

 佐野綾子。当時の彼女の心境なんて、透は考えもしなかった。あの時は、交換日記で大人達を騙す行為にとにかく必死だったのだ。それに佐野本人に恨みなんて欠片も抱いていない。発信源になった事は驚いたが、大人が本気で調べたら遅かれ早かれ、自分達の関係は露呈したはずである。

 それに卒業する頃には、学年中に知れ渡っていたのだ。もっとも、それは自分が付属のS大に入学せず(正確には出来ず)夜間大学に進学したせいで、一気に名前が有名になったせいでもあるが。

 その時、透はある事を思い付き、手を音がしないように叩いた。

「もしかして、彩子が夜間大学に入学したのって……」

「ええ。先輩がいるからです」

 透の疑問を彩子はあっさりと認めた。

 逆に認められた透の方は驚き隠せない。目を見開いて、自然と開いた口からは息が漏れる。大学進学といえば、人生で重要な選択肢の一つ。一生を左右すると言っても、過言ではない。間違えると、そう簡単には修正は出来ないのだ。

 それを目の前に座る彩子は、偏差値とか将来性で選ばず、ただ透がいるからというだけで、決めたと言う。とても信じられないが、現に彼女は入学している。自分の知らない所で、他人の将来に深い影響を与えてしまった。

 そう思っていると、彩子がプっと口から短い空気を吐き出した。

「な~んて、嘘です。安心してください」

「嘘? 本当に?」

 透側としては、嘘だと有難いのだが会話の流れから、ココで嘘と言われても信憑性は限りなく低い。

「本当です。だから先輩が責任を負う必要なんてありません。そりゃあ、先輩が夜間大学に入学する事は、綾子さんから聞きましたが合わせる事までは流石にしませんよ。あそこに行ったのは単に家庭の経済状況です」

「経済状況……」

 透は彩子が最後に言った言葉を呟く。確かに夜間大学は授業料がかなり安い。

 所謂、苦学生という生徒も存在する。だが、彼女もその一人とは思わなかった。

「はい。その辺りもこれから話します。そうですね、まずは私が詩織さんに会った時からでしょうか?」

「頼む」

「初めて彼女に出会った時、私は中学生でした。勉強が得意ではない。ある単元で躓いたまま、学校の授業が先に進んでしまい、取り残された状態を過ごしていました。かといって、塾に通うのは嫌だったんです。どうしてなのか? 今になって考えみれば単純に大人が嫌いだったから、ですかね」

 彩子は当時の感情を思い出し出したのか、微笑んでそう言った。

「そういう感情は理解出来る。大人を嫌いになるのは、子供なら皆かかる一種の成長痛だ」

 彩子は「おっ」っと声を上げて意外そうな顔をする。

「先輩もそうなんですか? ノートを失ってからはともかく、それまでは大人を嫌っていない印象でした」

「そんな事ないさ。しかも正確に言うと嫌っているより、見下している感じだった。あの時は机の上に置かれたテストは全部満点だったからな。大人って所詮この程度かみたいな事を考えてたよ。生意気だろう?」

「ええ。生意気です」

 彩子は透の自虐的な問いに、はっきりと答える。

「まあ、それは途中で目立つから。適当に調整し始めたんだけど」

「うわっ。より生意気」

 そう言われると反論出来ない。透自身でも分かるくらい、当時は生意気だった。

「話が少し逸れたな。修正しよう。それで? 大人嫌いの彩子ちゃんが取り残された状態から、どうやって皆に追い付いたんだ?」

「成績低下を芳しくないと思ったあの人は、私に一人の女子生徒を紹介しました。その女子生徒こそ森野詩織さんです。彼女と出会えた事だけは、あの人に感謝しています」

 だけはっと言う事は、他は感謝がないという事。透は彩子の言葉を聞いて反射的にそう思ったが、口には出さずにおいた。

「大人に勉強を教わる事が嫌悪でしかなかった当時の私にとって、高校生に勉強を教わるのは、とても不思議な気分でした。自分とたった三つしか、年齢は違わないのに。勉強を教えるという大人の行為を行う。緊張と不安と不思議が入り混じった私の心境は、もうこの先二度と味わえないでしょう」

 テーブルに置いていたコーヒーに口を付ける彩子。ゆっくりと喉を鳴らして丁寧に味わっている。透も合わせて自分のキャラメルマキアートに口を付けた。そこそこの時間が経過しているというのに、若干の温かさを残しており、口内に程良く甘いキャラメルの香りが広がる。

 両者の間に沈黙が流れた。

 先程から喋りっぱなしだったので、口休めが必要だったのだ。

 そしてコーヒーから口を離した彩子がゆっくりと店内を見回した。

「ココのスターバックスには、もう中々来れませんね。下手に来ると今日の事を思い出して、楽しめなさそう」

 店内は、今も満席状態で時折、空いている席を探して徘徊する客が視界に映る。この店の客で一番深刻な話をしているのは、まず間違いなく自分達だろう。

「それには深く同感。当分この店には来ないと思う」

「しょうがないですね。まあ、スターバックスはココだけではありません。さて、それでは続きです。私が最初に詩織さんに勉強を教わった時は、それはもう衝撃でした。学校の教師なんかよりも圧倒的に教えるのが上手なんですもの」

「確かに、あれはもはや才能の領域を超えてるよ」

 実際に勉強を教えてもらった透は彩子の意見に深く同意する。

「どこを躓いているのか。恥ずかしくて口に出せなかった私に、彼女はノートを見るだけで該当単元を当てて、そこを的確に。それこそ猿でも分かる程、的確に教えてくれた。その日に教えてもらってからは、そこが得意になったくらいです」

 目を瞑って懐かしむようにそう言って、彩子は深いため息を吐く。

 その息には、中学時代の思い出が内包されていた。

「私はすぐに詩織さんと仲良くなり、メールアドレスも交換しました。一人っ子で部活にも入っていない私にとって、年上のお姉さんが出来たのはとても嬉しかったです。詩織さんが私の人生の目標となるのに、時間はかかりませんでした」

「彼女の人を惹き付ける独特の引力は、体験しない者には分からない。俺は勿論体験者だから、彩子の言っている意味は良く分かるよ。だから、人生の目標が詩織だと言う人間を不思議とは思わないな」

「詩織さんは、メールを送ったら多少、時間はかかるけど、絶対に返事を書いてくれました。こちらが送るメールは、友達同士で送るような一行程度の物ではなく、何度も推敲を重ねて、きちんとした物を送りました。内容は、やはり勉強が中心ですが、それ以外の相談にも乗ってくれました」

「へえ。例えばどんな事を相談したんだ?」

 彩子と詩織のメール。透はその内容に興味を持った。彼も彼女とはメールをしていたが、自分以外とはどんな会話をしていたのか。当然ながら全く知らない。なのでつい気になって、反射的に聞いてしまった。だが、言葉を出した直後に踏み込み過ぎたと後悔する。

 聞かれた彩子は人差し指を立てて、自身の唇に当て答える。

「それはいくら先輩でも教えられません」

「そうだよな。俺が無神経だったよ。すまない」

 自分でも悪い事をしたと思った透は、彩子に拒否された事に、腹を立てる事なく素直に頭を下げる。

「いーえ。そこは女子同士の秘密って事で勘弁してください。ただ、一つだけお話しします。当時、私が男子に告白された事があり、詩織さんに相談した事がありました」

「えっ? 告白?」

「はい。相手は同じクラス、まあまあ話す人でした。ある日、電話がかかってきて、告白されました。私は彼に返事を要求されて、考える時間がほしいと言って、電話を切りました。でも、実際には考える気なんてありません。電話が終わる頃にはもう、詩織さんに相談しようとしか考えていませんでした。先輩ならこの考え、理解出来るんじゃありません?」

「分かるよ。詩織に中毒になってしまうんだろう?」

 詩織に何かを相談すると、ほぼ百%の確率で自身が期待する以上の回答をくれる。ところが、その万能さは余りにも優秀過ぎた。気付けば彼女に頼らずにはいられない状態となってしまう。まさに詩織中毒と言ったところか。

 これは勉強を教えてもらっていた連中にも当てはまる。彼女達は、詩織に勉強を教えてもらわないと成績を維持出来ない。よって、一回教えてもらって終わりという訳にはいかないのだ。

「その時の私はもう、頭のてっぺんから足のつま先まで、どっぷりと詩織さんに浸かっていました。思い返せばよくあれだけ毎日毎日、相談していたモノです。よく彼女は一度も怒る事なく聞いてくれたと感謝しています」

「その感謝は俺にもある。だけど、それに気付けたのは今になってだ。当時はそんな事欠片も考えていなかった」

「私もです。感謝に気付いていない私は彼との電話が終わるや否や、早速詩織さんに相談メールを書きました。きっと彼女は正しく導いてくれる。そう信じていました。だから、彼女が付き合えと言えば付き合うし、振れと言われれば、振る気でした。最早、そこに私の感情はありません……」

 そう言って、顔を下にする彩子。同年齢の透ですら、詩織の影響は凄かった。彼女と一緒に話す事が毎日の楽しみとなって、そこに少しの抵抗や恐怖を感じない。あの中毒性は強烈だった。それをまだ、中学生の彩子が抗える訳もない。

「もし俺が彩子の立場だったら、きっと同じ事をする。だから、全く気にするなとまでは言わないけど、必要以上に考え過ぎるな」

 透がそう言うと、彩子はゆっくりと顔を上げて微笑む。

「ありがとうございます。先輩にそう言ってもらえると嬉しいです。やっぱり、詩織さんの彼氏なだけありますね」

「そこさ、訂正しておきたいんだけど。俺は詩織の彼氏じゃないよ」

「またまた、そんな気を遣わなくても大丈夫ですよ。皆知ってるんですから」

 彩子は自分に気を遣っていると思ったらしく、明るい声でそう言った。

 それに対して透は冷静な声で答える。

「いや、本当に付き合っていない。確かに、交換日記を持っているという事はそうなんだろ? って思われがちだけど、あれは本当に周りの大人達を騙す道具でしかない。だから交換日記の内容だって、全部デタラメだ」

 透が冷静に淡々と真実を話すので、彩子の表情は段々と固まっていく。

 その表情は次第に不安気なモノへと変わっていった。

「……本当に?」

「ああ。どうせ周りが噂にしていただけで詩織本人は否定しただろう?」

「でも以前、皆で勉強していた時に綾子さんが聞いたんです。そしたら、詩織さんは、普段私達に見せないような可愛い笑顔で否定したから。皆、てっきり照れてるんだって……」

 自分の知らない所でそういう風に名前が広まったのか。詩織も曖昧な態度を取らずにきちんとと否定すればいいのに。透は戸惑いつつも、そう感想を抱く。

「それ詩織に騙されている。態度はともかく、彼女は否定したんだろう? 多分、俺の事がある程度噂になるようにしたんだよ」

 透がそう答えると彩子は口をへの字にして「えー。ウソぉ……」っと声を出す。

 先程までこの席に漂っていた緊張感が一気に緩んだ。

「なんだ。そうだったんだ」

「付き合う暇なんてない。俺はあの時はとにかく勉強しないと。って躍起になってたから。彼女に恩こそ感じても、恋愛感情はない。それは、今も一緒」

 詩織と恋愛関係になってなどいない。透は彩子にそう説明しながら、当時の自分の心情を回想していた。 他人に恋愛感情を抱く程の心の余裕はない。

 大人達に対して、演じるだけの余裕が出来たのも、全ては彼女が亡くなってしまった後だからだ。もし生きていたら、そんな必要はなく、そもそもあんな交換日記すら存在しなかったのだから。

 そこまで透が考えていると、彩子は腕を組み、何やら考え事をしていた。時折、自問自答している小声が聞こえるが、詳しくは分からない。

 透は話の続きを聞こうと彼女の名前を呼ぶ。

「彩子」

「えっ、はい?」

 ふいに名前を呼ばれて彼女は弾かれたように顔を上げる。それから数秒間の沈黙の後のため息。どうやら思考世界から現実世界へと帰って来たようだった。

「また話が逸れちゃったけど、彩子が詩織に相談してからどうなったんだ?」

「ああ、はい。そうですね、何度も話が脱線してすみません。でも、最後に詩織さんが、先輩に恋愛感情を持っていたかどうかだけ言わせください」

「……構わないけど」

 透が今まで詩織についてそんな事、考えた事もない。それを彩子は話そうとしていた。

「確認は不可能なので、確証はありませんが、詩織さんは先輩に対して、少なからず好意を持っていたのだと思います。それも恋愛感情寄りの」

 幼稚な彩子の意見に透は呆れて、今日初めて出す種類のため息を出した。

「適当に言ってるんなら怒るぞ?」

「いえいえ。ちゃんと根拠はあります。だけど、具体的な解説は控えさせてください。本人のプライバシーに関わるので」

「なんだそりゃ」

 肩すかしを食らって、透はもう一度大きなため息をついた。

「分かったよ。もう聞かない。それより話を進めてくれ」

「はい。私は男子から告白された事。それにどう返事をしたらいいのか悩んでいる事。詩織さんが決めてくれた決断に従う事。そう言った旨を書いたメールを送りました。いつも彼女はメールの返事には最低でも十五分程度、時間がかかります。無論、その事に微塵も怒っていません。だって、それだけ真剣に考えてくれているんですから。私は、返事がすぐに来ない事は分かっていたので、お風呂に入ろうとしたんです。そしたら、携帯電話が鳴りました」

「それで?」

「いつもなら考えられない速度の返事。私は携帯電話に飛び付きました。一体、どんな事を書いてくれたのだろうか。そう思ってワクワクしていたのです。ところが、携帯電話はメールではなく、電話を着信していました」

「電話? 普段からよく詩織とはしていたのか?」

 これまで一度も出てこなかった電話という単語に驚いて、透は尋ねる。すると彩子は首を振り否定した。

「いいえ。詩織さんとは番号こそ交換していましたが、ずっとメールのみで電話なんてした事がありません。初めの頃は何度かしてみようかなと思った時期もありましたが、緊張が勝ってしまい出来ませんでした。先輩はどうですか?」

「電話か。俺もメールだけだったな。勿論番号は知ってるが」

 透にも詩織と通話した経験はない。よって、彼はこの後の展開がとても興味深かった。

「意外ですね。きっと毎晩しているのだと思ってました。私の緊張の中には彼氏と電話中だったら悪いなって気持ちも入っていたんですよ?」

「だから彼氏じゃないって。これでより証明になっただろう」

「そうですね。電話がかかってきた時、私はとっても緊張しました。心臓がカーっと熱くなり、気持ち悪かったです。本当ならすぐ電話に出るよりも、一杯だけ水を飲みたかったですが、それでは詩織さんを待たせてしまう。その思いで私は電話に出ました」

「彼女は何て?」

 透が話の先を尋ねると、それまでテンポ良く話していた彩子が(多少の脱線はあったとはいっても)急に言葉に詰まってしまった。表情から本気で話辛そうにしているのだと伝わってくる。

「無理強いはしないが……」

「いいえ、話します。そんなに難しい話じゃないんです。ただ私が彼女に怒られたというだけで」

「怒られた? 詩織に?」

 詩織が怒る姿は、透にはとても想像が付かない。

 怒るという感情は持ってはいるだろうが、その対象はもっとずっと上な気がする。それこそ、同年代相手には使わない。

 そんな事をいつかの昔、酒に酔った夜に意味もなく考えた事がある。

 そんな詩織に怒られたという彩子。どんな怒り方だったのだろうか。

 不謹慎ながら透は先が気になっていた。しかし、先程の彼女の態度から下手に話の先を促しても、無意味なのは明らかである。

 透は逸る気持ちを抑えて、彩子から話すのを静かに待った。

「ごめんなさい。口が止まってしまって。私は携帯電話の通話ボタンを押しました。受話器の向こうから『もしもし?』っと優しい、いつもの彼女の声が聞こえて、ほっと安堵して「はい」っと答えました。それだけで電話を受けるまでの緊張は消えていました。そのせいでつい、言ってしまったんです」

「言ってしまった?」

 暫しの沈黙を置いて彩子は言った。

「『わざわざ電話をしてくれなくてもいいですよ』って。おかしいですよね。相手は私に告白してきている。それはとても重要な事なのに、私からしたら、ちょっと厄介な応用問題の一つにしか考えていなかったです。それがきっと、私の声の雰囲気から彼女にも伝わってしまった。受話器の向こうからため息が聞こえたんです」

「詩織がため息?」

 そんな事は透にとって未体験である。彼の問いに彩子はゆっくりと頷いた。

「あのため息は今でも忘れらません。電話越しなのに。ううん、電話越しだからこそ、あれ程の無機質なため息に聞こえたのかも知れません。今、思い出すだけで、背筋から冷や汗が出ます」

 彩子はコーヒーに手を伸ばして、口を付ける。

「もう、すっかり温くなっちゃいました」

「新しいの頼むか? 奢るけど」

「大丈夫です。温くなった方が今の私には飲みやすいですから」

 彩子の言葉に「分かった」と返事をすると、彼女は微笑み再び話の続きを語り始める。

「その無機質なため息一つで、私の心は一気に奈落の底へと突き落とされました。言葉を失い何かを言わなければと思うのに、一向に出てこない。詩織さんのため息は大人とも子供とも違う。全く違う生き物から発せられたと錯覚を起こす程の代物でした。何も言えずに固まっていると、彼女の声が受話器から聞こえてきました。あの時程、彼女に恐怖を感じた事はありません」

「詩織は何て言ったんだ?」

「『彩子ちゃんは、自分で考える力を取り戻すべきだわ。今の貴方は私なしで物事が決められなくなってしまった。その責任は私にある。だからもう、貴方と接触は止める。一方的になってしまってごめんなさい。けれど、そうする事がきっと将来的に貴方の為になるから』私が喋り返す間もなく、彼女はそう言いました。その時の声は優しかった。いつも通りの詩織さんでした。なのに、まるで段々と下がっていく舞台の幕を見ている観客のように、彼女が私に興味を失っていくのが手に取るように分かりました」

 人が何かに興味を失っていく瞬間というのは、どうしようもなく怖い。

 ほんの少し前まではそれが大好きだったのに、あれが嘘だったのかと言いたくなる程、いとも容易く冷たい目をする。

 透自身は人生で何度かそういった事態に遭遇した経験があるが、どのケースも恐怖という受け取り方は同じだった。それをよりにもよって、あの詩織から彩子は受けてしまった。彼女の話を聞いていると、一つの物語を読んでいるかのように風景が頭に浮かぶが、それは楽しいという感情からは、程遠い。

「私が何とか声を絞り出す事が出来たのは、詩織さんが『じゃあ、さようなら』っと言った時でした。本当に繋がりが切れてしまう。その形容し難い恐怖が私の喉を強制的に震わしたのです。実際は、「あっ」とか「ちょっと」とか言っていたでしょうが、無意識下で行っているので、私の意思はありません。それでも、最後にどうにか言えたのは「切らないでください」という訴えでした。思考が働いていなかった分、本音のみが絞り出たんです。だけど、彼女は私の訴えに応じてくれる事はありませんでした。黙って電話を切ったのです。それが、私が詩織さんと最後に連絡を取った出来事です……」

 彩子はそう言って、残り少ないコーヒーにまた口を付ける。もう中身は残っていないのか。彼女はカップを傾けなかった。あれでは喉元に何も流れて来ない。

 透はその行為が心の深呼吸だとすぐに分かった。彼は目線を下にして腕時計を見る。特別時間を気にしていた訳ではなかったが、彼女と目線を合わせ辛かったのだ。この彼の行為もまた、心の深呼吸だと言えるだろう。

「さようならと言われてから、私はとても詩織さんに連絡する勇気はありませんでした。彼女は決して自分の発言を曲げるような人ではない事は、重々分かっていたので、向こうからの連絡はまずあり得ない。それなのに私は、彼女からの連絡を待っていました。ちなみに告白してきた男子は断っています。それどころじゃない気持ちが勝ったのです。それに彼のせいで、詩織さんとの繋がりが切れてしまったと、彼を恨んでいたくらいでした。一週間、二週間と日付が経過するにつれて、私は詩織さんのいない日常に体が順応していきました。何だかんだで、私が彼女と接触していた時間は、他の人と比べて一番短かった訳ですから、離れるのも困難ではなかったのでしょう。そんな時です。ある、一通のメールが佐野綾子さんから届きました」

 その内容は透にも予想が付いていた。

 透の表情を見て、彩子は黙って頷く。

「先輩も察しの通り。綾子さんからのメールには、詩織さんが自殺したと書かれていました」

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