第29話 神代の面、冥府に舞う
1、 閉ざされた檻と、遠い血縁
抜刀された鋼の切っ先が、冷酷な切断の意志を孕んで青白く煌めいていた。
死都の底に沈む凍てつく空気のなか、暗視ゴーグルの奥で赤く光る双眸が、じりじりと包囲の輪を縮めていく。
「岡崎さん、下がっていてください!」
秋山が背後の岡崎を庇うように腕を広げ、鋭く叫ぶ。
だが、彼らを追い詰めるものは、眼前に迫る切っ先だけではなかった。
足元の敷石を割り、頭上の闇を縫い留めるようにして、赤紫色の光脈が這い回る。
まるで脈動する血管のように幾重にも折り重なり、逃げ道を削り落としていくモノリス派の結界術。
「囲まれただけじゃない……空間の連続性そのものが断ち切られている」
「くそっ、鼠一匹通さない気かよ!」
マスターと律が忌々しげに息を詰める横で、陽菜はマイクスタンド型の呪具を握り直し、天を塞ぐ不気味な光膜を見上げて小さく唇を尖らせた。
「うーん……こういう意地悪な結界、七海ちゃんなら一息に解いちゃうんだけどなあ……」
「七海ちゃん?」
刃の届く間合いで、秋山が訝しげに視線だけを横へ走らせる。
「私の親戚です。ちょっと妄想癖があって、愛が底なしに重い人なんですけど」
「愛が重いって……おい、いまこの土壇場で持ち出す話題かそれ!」
律の喉から漏れた呆れ声を合図にするかのように、先頭の武者が地を蹴り、その一刀が鋭く大気を切り裂いた。
2、 一時間前:二つの電子、一人の学者
――時間を、一時間ほど巻き戻す。
居酒屋『パラレル・ライン』の地下、冷えたコンクリートの匂いと微弱な電子音が満ちる司令室。
マスターたちとの定時通信を終えた壱誠は、コンソールに並ぶエラーコードを見つめ、静かに息を吐き出した。
地下三千キロ――現世の物理規範を完全に置き去りにした、異次元の深淵に囚われた仲間たち。
その退路を閉ざす空間障壁は、ビットの演算をもってしても「干渉不能」の無機質なログを返し続けていた。
「どちらも分身したビットだけど、役割を明確にするために呼び分けよう」
壱誠は傍らに佇む女性、そして北の研究施設へ接続された通信ラインの先へ向けて声を落とした。
「北にいるビットは『2ビット』。僕と共に司令室に残る方を『1ビット』とする」
『1ビットです。皆さん、よろしくお願いします』
『こちら2ビット。承知しました』
手元の端末からは、地下三千キロのマスターたちの「了解した!」という返答が、ノイズ混じりに返ってきた。
「1ビット、あの障壁の構造は掴めたかい?」
「はい。空間を縛り上げているのは、近代の暗号プロトコルではなく……人類の正史から削ぎ落とされた『原初言語の文法体系』です。非整数次元で緻密に組まれており、現代数学におけるゼロ除算の矛盾を意図的に固定化させています」
1ビットの瞳の奥で、無機質な走査の光が静かに明滅を繰り返す。
「純粋な論理演算では、この記述者が仕掛けた言葉の綾――『諧謔』を解くことができません。――現在、全人類の思考特性アーカイブから、この特異な文字構造を感覚的に解き明かし得る対象を逆引き中……照合完了しました」
虚空に浮かび上がったのは、都心の片隅にひっそりと佇む民間研究機関の記録。
そして、どこか長閑な目元をした男性の肖像だった。
「……古代文献の研究者? 民間の学者なのか」
「はい。即座に跳躍し、直接解読を仰ぎます」
1ビットの輪郭が淡い光の粒へとほどけ、空間の隙間へと静かに溶け込んでいく。
「どうか……」
神への祈りにも似た壱誠の呟きだけが、静寂を取り戻した室内に落ちた。
3、 廊下の守護者と、嘘のない休暇申請
――都内、古代文献研究所。
窓の外では、都心の地表に突如として現れた漆黒のモノリスが、街の信号を全色点灯させたまま、不気味な沈黙を守っている。
研究所は臨時休館となり、職員の多くは自宅待機を命じられていた。
それでも所長だけは「こういう時こそ、資料は逃げないからね」と言って、所長室に居残っている。
そして所長が居残る限り、彼女もまた、帰るはずがなかった。
静けさに包まれた廊下の空気が、不意に細かな帯電を帯びて微かにざわめいた。
「――おや?」
給湯室の前を通りかかった女性の足が、ピタリと止まる。
常人の五感では決して捉えることのできない、空間の位相のきしみ。
物質界の裏側に広がる深層から、莫大な情報量を引き連れた何者かがこの座標へと踏み込んでくる――その特異な電子の脈動と、どこか神聖な気配の兆候を、彼女の鋭敏な知覚が逃さず拾い上げていた。
◇
埃と古書の匂いが染み付いた薄暗い廊下に、青白い光の粒が静かに舞い散った。
空間の位相の戻りとともに、光の中から1ビットが実体化する。
彼女の目的はひとつ。
この研究所の主である「所長」と接触し、解読不能な古代呪術のスクリプトを読み解いてもらうこと。
だが。
実体化を完了し、所長室の扉へと歩みを進めようとしたその瞬間――1ビットの足が止まった。
廊下の角。
薄暗い影の落ちる給湯室の前に、ひとりの女性が立っていた。
白のブラウスにタイトスカート。
手には淹れたばかりのお茶が載った小さな茶托。
どこからどう見ても、ごく平凡な事務員か研究補助の佇まいだ。
だが、その空間の「静けさ」が異常だった。
足音も、衣擦れの音も、呼吸音すらも響いていない。
まるで最初からその場所に描かれていた絵画のように、女性は静かに佇み、透き通った瞳でまっすぐに1ビットを見据えていた。
1ビットの内部スキャンが、無音で走る。
(……生命反応、正常。霊的な圧力――ほぼゼロ。一般人……?)
だが、走査を深層へと潜らせた瞬間、1ビットの仮想思考ルーチンが微かに硬直した。
ゼロ。
確かにゼロなのだ。
しかし、その「何もない空っぽの器」の背後に、深淵の闇のように折り重なる、膨大にして不可視の神格反応が沈殿している。
常人の皮を被った、底知れぬ存在。
「……何者ですか」
1ビットが低く問いかける。
警戒の壁が、無機質な空気となってふたりの間に張られた。
対する女性は、驚く風もなく、ただ茶托を持った指先を静かに整える。
「それを訊くのは、こちらの台詞よ。いま、私をスキャンしたわね」
涼やかな、澄んだ声だった。
「突然、空間を割って人の職場に現れて……ずいぶんと行儀の悪いお客様だこと」
「私は、その奥にいらっしゃる所長に用事があります」
「お断りよ。所長は今、大事な資料の整理中なの。怪しげな闖入者に邪魔をさせるわけにはいかないわ」
女性の眼差しに、冷ややかな、けれどどこか過剰なまでの「排他性」が宿る。
所長という人間を、外の世界のあらゆる脅威から遮断しようとする、異様なまでの執着と庇護の意志。
1ビットは静かに距離を測り直した。
敵対すれば、面倒なことになる。
それだけの質量が、女性の内側に眠っている。
だが、女性はふと、自身の肌をチクチクと刺すような、目に見えない電子の微弱なきしみに意識を向けた。
空間の底で静かに響く、高周波の奇妙な脈動。
それはかつて、自身の姪が自慢げに語っていた「ある特徴」と完全に一致していた。
「……待って」
女性の眉が、わずかに動く。
「その電子の波長……。あなた、デジットさん?」
「……私はデジットではありません。デジットと対をなす者ですが……なぜ、デジットの個体識別名を?」
1ビットがわずかに身構えた。
デジットの名前が知られているということは、こちらの情報が事前に漏れていた可能性がある。
しかし、女性の張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けた。
警戒の色が潮が引くように消え去り、代わりに現れたのは、親戚の子供の噂話を耳にしたときのような、柔らかく呆れた笑みだった。
「やっぱり。陽菜ちゃんから聞いてたのよ。居酒屋の二階で一緒に暮らしてる、とても優秀な神獣さんがいるって。デジットさんじゃないとすると……ビットさん、かしら?」
「……陽菜さんの?」
「ええ。ほぼ同い年だけど、一応あの子の叔母にあたるの。神代七海っていうのよ」
七海と名乗った女性は、茶托を近くの小棚に置くと、所在なさげに人差し指で頬をかいた。
「まさか、陽菜ちゃんの言ってたビットさんがここに来るなんて思わなかったわ」
そこで七海は、ふと窓の外へ視線を投げた。
漆黒の直方体が、灰色の空を背に、街の真ん中で静かにそびえている。
「……ひょっとして、テレビで大騒ぎになってるあのモノリスと、何か関係があるの?」
「はい。零さんたちが境界を越えたことで生じた歪みを、世界のシステムが補正しようとしている――あれは、その現れです」
「零さん……壱誠さんの奥さんね。陽菜ちゃん、あの人たちのこと、いつも嬉しそうに話してたもの」
一瞬の沈黙。
1ビットは彼女の言葉の真偽を測るように見つめていたが、その瞳に宿る陽菜への純粋な案じの色を感じ取り、静かに張り詰めた空気を解いた。
「改めて名乗ります。私はビット。ですが、口頭で説明する猶予はありません。……直接、これを受け取ってください」
1ビットが右手を差し伸べる。
掌の先から、圧縮されたバイナリデータが念話の経路を通じて七海の額へと放たれた。
「あなたなら、この深度のログを読めるはずです」
刹那、七海の瞳が深い神代の藍色へと染まった。
流れ込んでくるのは、数千行にも及ぶ状況ログ。
地下三千キロの歪み、ゼロ除算の檻、そして――取り囲む武者たちの中心にいる陽菜の姿。
ほんの数秒の間にすべてを読み解き終えた七海は、すっと息を呑み、静かに瞳を戻した。
「……結界術に、世界のコードの融解」
七海は所長室の扉を振り返り、困ったように眉尻を下げた。
「だから、うちの所長なのね。あの人は、世界中の誰よりも古代の文脈を『感覚』で掴んじゃう人だから」
「はい。所長様の解読が必要です。ですが……」
「分かってる。あの人はただの一般人よ。オカルトや神話の本当の恐ろしさなんて、知らなくていいの」
七海は真剣な顔つきになり、それから悪戯っぽく唇の前に人差し指を立てた。
「所長には、外部の学術機関からの『変わった古代文字の調査依頼』として話を通してちょうだい。それと……私の力のこと、絶対に内緒ね。ただの研究助手として接して」
「承知しました」
ふたりは静かに頷き合い、七海の案内で所長室の扉を開いた。
「失礼します、所長! 外部の学術機関から、特異な出土資料の至急解読依頼が届きましたよ」
招き入れられた1ビットが、机の上に古代呪術コードのホログラムを静かに展開する。
青白く明滅する複雑な文字配列を見るなり、好奇心に瞳を輝かせた所長は、「ほう……! これは珍しい、アラム語の変形方言と幾何ルーンの混成体だね」と眼鏡の位置を直し、瞬く間に学究の徒としてのめり込んでいった。
わずか三十分後。
「うん、解けたよ。これは数字のゼロを『無』として処理するから破綻するんだ。最初から『一人の人間』として数え直せば、ほら、全体の文脈が綺麗に一本の円環として繋がるだろう?」
所長が朗らかに告げた解法は、ビットの演算を立ち往生させていた「論理の死角」を、鮮やかなトンチのように射抜いていた。
だが――。
「……解法は完全に理解しました。ですが、この術式は、三次元の『肉体』で物理的に線をなぞらなければ起動しません。私には、直接触れることができない」
1ビットの静かな呟きを拾い上げ、七海がすかさず所長の前へ進み出た。
「所長、今日の午後からお休みをいただけますか? 親戚の子が、山で迷子になってしまいまして」
陽菜は親戚の子であり、北の山の向こう。彼女の言葉には、何一つ嘘は混ざっていない。
「えっ、それは大変だ! 仕事なんて気にしなくていいから、すぐに行ってあげなさい」
「ありがとうございます、所長♡」
1ビットは、所長のデスクに通信用のバイナリ時計を置いた。
「所長様、文字は深層部にも複数存在します。引き続き、リアルタイムでの遠隔解析をお願いできますでしょうか」
「もちろん協力するよ! 洞窟遺跡の遠隔調査なんて、まるで探検家になった気分だなあ」
無邪気に微笑む所長に深々と一礼し、七海と1ビットは所長室を後にした。
4、 冥府への降臨と、親族の舌戦
所長室の扉をそっと閉め、研究所の廊下へ戻ったふたり。
七海はほっと胸を撫で下ろし、1ビットを見つめた。
「所長、すっかり探検家気取りだったわね。……ビットさん、陽菜ちゃんたちの現場にはどうやって行くの? 私は飛行魔法が使えるけれど」
「ここから空間転移で、北の研究施設の前線へと跳びます」
「空間転移!? ぜひ、私も乗せてちょうだい」
1ビットが頷き、掌を掲げる。
青白い光の粒子がふたりを包み込み、視界が光の奔流へと呑まれていった。
◇
――肌を刺す冷気とともに、ふたりは北の大地に佇む巨大な研究施設の外部へと降り立っていた。
不穏な気配のなか、建物の影からすっと姿を現した人影に、七海は思わず目を丸くした。
「えっ……ビットさんが、ふたり!?」
そこに立っていたのは、確かに1ビットと同じ容貌の女性。
だが、その纏う空気はまるで異なっていた。
鮮烈なコバルトブルーに染まった髪には鋭利な電子光が走り、身体は金属装甲の戦闘用スーツに包まれている。腰には、幾何学的なラインが淡く発光する一対の双剣が、交差するように佩かれている。そして何より、その双眸――片方の瞳が金色に冴え渡っていた。
「驚かせて申し訳ありません。私は2ビット。ひとつの存在から分かれたもうひとつの端末です」
「あ、なるほど……式神みたいなものなのね。それにしても、ずいぶんと物々しい姿……」
「現在、戦闘機動モードに移行しています。……それと、七海さん。事前にひとつだけお伝えしておきます」
2ビットの金色の瞳が、背後の重厚な研究施設へと向けられた。
「この研究施設の内部で、極めて不可解な兆候を感知しました」
「不可解な兆候……?」
「はい。現時点ではまだ不確定要素が多く、詳細な言及は避けますが……敵の企図は、陽菜さんたちそのものに向けられている可能性があります」
2ビットの硬質な声に、七海は神妙に頷いた。
「陽菜たちを捕らえるのが狙いかもしれないってことね? 分かった、頭に入れておくわ。……それで、陽菜ちゃんたちは今どこに閉じ込められているの?」
「陽菜さんからの直前の報告によれば、彼女たちが誘い込まれた空間は、どうやら『冥界』の階層にあるとのことです」
「冥界……!」
七海の眉がピクリと跳ね上がった。
地球の霊山を守る長沢家と、冥界との境界そのものに神代の昔から深く関わり続けてきた神代の血。
そのふたつが、彼女の脳裏で即座に結びつく。
「冥界であれば、容易く辿り着けるわ」
「はい、そうだと感じておりました」
「だからこそ、お連れしたのです」
1ビットと2ビットが、相次いで言葉を重ねる。
ふたりはまだ、七海が実際に力を振るう現場を一度も目撃していない。
それでも、空っぽに見えて無限の神格を内包するその「器」の底知れなさを、電子の直感で正確に理解していた。
「さっき私のこと、スキャンしていたものね。ふふ。陽菜ちゃんたちが冥界のどこにいるか、詳しい位置は分かりますか?」
「座標を共有します」
2ビットの瞳から青い光芒が放たれ、念話の経路を通じて精緻な時空座標のログが七海の意識へと流れ込んだ。
続けて2ビットは、通信用のバイナリ時計を七海の手首に巻いた。所長の手元の時計と繋がる回線だ。
七海は座標を記憶に焼き付け、手提げ袋から、肌身離さず持ち歩いている桐の箱を取り出すと、静かに息を吸い込んだ。
「冥界には私一人で向かいます」
「え?」
「ビットさんたちにも、それぞれ果たすべき役目があるんでしょ。役割分担よ。所長が解読した導線を使って、私の力で解呪すれば結界は無効化できるわ。冥界へは何度も足を運んでいるから、心配しないで」
「……お言葉に甘えます。どうか、お気をつけて」
「ふふ、ありがとう。任せておいて!」
七海が不敵に笑み、胸の前で静かに印を結んで詠唱を紡いだ。
その刹那、七海の頭上から幾筋もの神聖な光条が降り注ぎ、彼女の全身を柔らかなヴェールとなって包み込む。
冷静沈着なビットたちすら、観測限界を易々と超えていくその光景に小さく目を見張った。
「ふふふ、念のため、二十柱ほど降ろしておいたわ」
恐るべき器の深さだった。
七海は桐の箱の蓋を静かに外した。
彼女はビットのように光の粒子へとほどけることはない。
神代の血筋だけに許された、現世と隠り世を繋ぐ目に見えない「神代の経路」を踏み抜き――その場から、影が溶けるように忽然と姿を消した。
◇
――そして、地下三千キロ。死都の隘路。
「岡崎さん、下がっていてください!」
秋山の叫びが響く中、先頭の闇の武者が地を蹴り、その一刀が唸りを上げて空を切り裂いた。
鋼の刃が、秋山と背後の岡崎の命を刈り取らんと振り下ろされた――まさにその刃先の虚空。
予兆となる光の粒子すらなく、空間がスパリと裂けたかのように、ひとりの女性が唐突に降り立った。
武者の振り下ろした渾身の刃が、女性の脳天へと真っ向から直撃する。
――ガァァンッッ!!!
凄まじい金属の激突音が轟き、火花が闇を散らした。
だが、刃は彼女の髪の一筋にすら届いていなかった。
女性の身体を覆う不可視の絶対力場に阻まれ、鋼の切っ先が宙で完全に押し止められていたのだ。
武者が驚愕に面頬の奥の赤いゴーグルを見開く。
火花の残光のなか、立ち現れたのは――奇怪な神楽面を顔につけ、神々しい霊気を全身から立ち上らせる姿だった。
「境界の理を乱す無礼者。――此処より先は、神代の名にかけて通しません」
面の奥から響いたのは、凛とした、けれどどこか聞き覚えのある涼やかな声。
彼女が、所長の解いた円環をなぞるように指先で宙に弧を描くと、空間を満たしていた紫色の結界が、まるで薄氷が解けるように跡形もなく霧散していった。
その背後で、岡崎だけが、わずかに一歩身を引いた。
神楽面から逃れるように、彼はそっと視線を足元へ落とす。
その小さな仕草に気づいた者は、誰もいなかった。
「今度はなに!? 魔法!? 神様!?」
律が目を丸くして叫ぶ中、女性はすっと面を頭の上へとずらした。
満面の笑みを浮かべたその顔。
「七海ちゃん!? なんで? えっ? しかも神代の面まで持ってきて!?」
陽菜が飛び上がらんばかりに驚愕の声を上げる。
「陽菜ちゃんのためなら、蔵ごと持ってくるに決まってるじゃない」
「ひえーっ、びっくり! ……ありがとう、叔母さん!」
「叔母さんって言わないで!」
「お、叔母さん!?」
「同い年くらいに見えるぞ!?」
秋山とマスターが呆然と声を揃える中、七海は手首でカチリと音を立てるバイナリ時計――所長と繋がっている回線へ、こっそりと愛おしげな視線を落とした。
『……ん? いま、七海って聞こえたような……。神代さんと同じ名前だね。声までよく似てるなあ。最近は似た名前と声の人が多いねえ』
長閑な所長の声が小さくスピーカーから漏れる。
七海は慌てて時計のミュートボタンを押すと、咳払いを一つした。
瓦礫の向こうでは、第二陣の武者たちが、早くも抜刀の構えを取り直している。
最初に我に返ったのは、マスターだった。
「――整理しよう。話は後だ。七海さん、と言ったな。力を貸してもらえるか」
「もちろんです」
「よし、陣形を立て直す。秋山は岡崎を守れ。律は後方の警戒を。陽菜と七海さんは前を頼む!」
迷いのない指示が、浮き足立っていた一行の背筋を一本に通した。
七海は小さく目を見張り、それから面を顔へと戻す。
「了解です! あの方の安息と、陽菜ちゃんの安全のために……この場は一掃させていただきます!」
5、 神威と弾道、そして論理のペン
面の奥で、七海の瞳が神代の藍色に灯る。
刹那、彼女の周囲の大気がゴオッと爆発的な神威によって揺らぎ、不可視の魔力刃が嵐となって吹き荒れる。
「――ファイヤーボール!」
七海の手刀が一閃するや否や、空間そのものが圧縮され、正面から殺到していた数体の武者が、まるで巨大な突風に薙ぎ払われたかのように宙を舞って吹き飛んだ。
「ファイヤーボール? 炎、出てませんけど……」
律の突っ込みに、陽菜が声を張り上げる。
「七海ちゃんって自称魔法使いだから、魔法のつもりでやってるの! 魔力じゃなくて完全に神力なんだけど!」
陽菜もマイクスタンド型の呪具を構え、自らの霊力を一気に高めた。
「――急急如律令!」
青白い霊力の奔流が砲弾のように放たれ、石畳を砕きながら武者たちの陣形を派手に粉砕していく。
だが、武者たちは怯むことなく、瓦礫の影から次なる集団が無言のまま抜刀し、容赦ない突撃を敢行してくる。
「私、まだ力の調整がうまく出来なくて……! 人間相手だと怪我させちゃいそう……!」
威力が規格外すぎるがゆえの手加減に苦慮する陽菜。
その前へ、秋山が鋭い踏み込みで滑り込んだ。
「陽菜ちゃん、下がれ! ここは俺が引き受ける」
秋山はスーツの内側に格納していた一本の無機質な銀色のペン――ディスラプター・ペンを引き抜いた。
敵の面頬の奥で赤く光るゴーグルが、一斉に秋山へと照準を合わせる。
十数人の武者たちが音もなく地を蹴り、抜き放たれた鋼の切っ先が、秋山と背後の岡崎を肉泥に変えんと殺到した。
「ハッ、そんな玩具で――」
武者の一人が、面頬の奥で嘲った。
言葉を紡ぐ猶予すら、秋山は与えない。
迫り来る最前線の刃が、秋山の鼻先数センチメートルにまで肉薄したその瞬間。
――カチリ。
静寂のなかに、ペンのノックボタンを押す硬質な電子音が小さく響いた。
その刹那、ペンの先端に埋め込まれた極小の共振コアから、生物の神経を走る電気信号――活動電位だけを局所的に狂わせる「超指向性高周波(神経ジャミングパルス)」が、扇状に一気に爆ぜた。
「が、あ…………っ!?」
刃が秋山の皮膚を裂く直前、先頭の武者の身体が、まるで落雷を受けたかのように不自然に硬直した。
パルスは波紋のように広がり、後続の武者たちの甲冑を次々と透過していく。
血の一滴すら流れない。
骨の砕ける音もしない。
だが、襲撃者たちの脳から四肢へと送られていた「動け」という単純な行動論理が、ペンの放った高周波によって完全にハッキングされ、書き換えられていく。
「な、にが……身体が……動か、な……」
武者たちは、自分がなぜ前のめりに倒れようとしているのかすら理解できていなかった。
糸の切れた人形のように、あるいは電源を唐突に落とされた機械のように。
十数人の集団が、一人、また一人と自らの勢いのまま石床へとドサドサと無様に崩れ落ち、重い甲冑の音だけを周囲に響かせた。
「あんた……なんちゅう、地味だけど恐ろしい武器を……」
顎が外れそうなほど口を開けて硬直する律の横で、秋山はふぅ、と短く息を吐いた。
転がったまま指先一つ動かせずに呻いている武者たちを、静かな眼差しで見下ろす。
「カルトの連中がどんな兵器を使ってこようと、人間である以上、その肉体を動かしているのは電気信号という名の『論理回路』に過ぎない」
秋山は手元の銀色のペンを指先で軽く回した。
「命までは取らんさ。お前たちの神経リンクを一時的にフリーズさせただけだ。……もっとも、電池が切れてしまったがね」
「切れたんかい!」
律のツッコミが死都の闇に快活に響き渡る。
転がる敵を見渡し、七海はふうと息をついて面を外した。
そして、闇の奥にそびえる黒い巨城へと目を向ける。
城門には、先ほどの赤紫の結界とは違う、墨のように沈んだ呪印が幾重にも刻まれていた。
「……あれは」
七海は試しに、神威を一筋だけ城門へ伸ばしてみた。
だが、二十柱の神々の力は、呪印の表面で音もなく滑り落ちた。
「弾かれた……。力ずくでは、触れることすらできないのね」
モノリス派の小手先の術とは、格が違う。
冥界の王そのものが編んだ、本物の檻だ。
そのとき、手首のバイナリ時計から、早くも次の暗号を解読し終えた所長の、楽しげな声が届いた。
『もしもし、探検隊の皆さん聞こえますか? 次の結界の構造ですけどね、これ、古代エジプトの死者の書と同じパズルなんですよ。壁の第三ブロックをなぞれば、綺麗に開くはずです』
(了解です、所長♡ ここから先は、あなたの読みが頼りです)
七海は時計へ向けて、心の中でとびきり甘い声を投げかけると、黒い巨城の奥を見据えた。
最深部へ向けて、最強の布陣が今、確実に歩みを進め始めていた。




