第27話 トポグラビティの拒絶
第27話 トポグラビティの拒絶
1、虚無の境界線
静止したエレベーターの扉が左右へ引き絞られたその先。そこに広がっていたのは、灼熱のマグマでも、沸騰する鉄とニッケルが渦巻く地殻の海でもなかった。
頭上を覆い尽くすのは、星屑のひとつすら許さぬ完全なる漆黒の天空。
足元には、光という概念そのものを拒絶する濡れたような黒い大地が果てしなく続き、その肌を這うように、微かな紫色のモヤが低くたゆたっている。
息絶えた肉体の気配を薄く孕みながら、澱のように蠢く霧。
風のそよぎも、虫の羽音すらも削ぎ落とされた、逃れようのない静寂。
鼓膜の奥をじっとりと圧迫する重苦しい「無」の底で、ときおり遠くの地脈がきしむ音だけが、硬い骨が軋み砕けるような余韻となって不気味に響き渡っていた。
「……エレベーターが、完全に沈黙しています」
岡崎が青ざめた面持ちのまま、無駄と知りつつ操作盤を叩き続ける。
しかし灯るべき計器類は一切の光を失い、ただの冷徹な鉄の箱へと成り果てていた。
秋山が即座に携帯型デバイスのプローブを壁面へと突き刺し、鋭い電子パルスを流し込む。
「くそっ、回線そのものが死んでいるんじゃない。『論理回路』という概念そのものが、この空間の規則に弾かれている。物理的な断線なら修復の手立てはあるが……そもそも接続先という座標自体が定義されていないんだ」
「私の干渉コードも浸透しません」
戦闘形態をとるビットが金色の瞳をわずかに明滅させ、静かに告げた。
「この昇降機は、電力や配線で動くものではなく――昇降機自体が『一次元的な変位装置』でした。その位相アンカーが、いま完全に切断されています」
『……秋山、マスター。聞こえますか?』
マスターの手首に巻かれたバイナリ時計から、砂嵐のようなノイズを割り裂いて、壱の硬い声が落ちてくる。
この世界に降り立った瞬間に繋がった細い回線は、高次元の虚数ノイズに苛まれながらも、途切れることなく彼らの命脈のように維持されていた。
『地上側の管制室から、そちらのバイナリ座標を常時トラッキングしています。エレベーター側の制御ロジックは消失しましたが、バイナリ通信と携帯デバイスのリンクはまだ保てています』
「ああ、壱。こちら側の装備や武器も、問題なく稼働している」
マスターが手首に向けて短く応じる。
「私の霊力も、ちゃんと動いてます」
陽菜が胸の前で指を組み、微かに青白い光を灯してみせた。しかしその面差しは、いつになく強張っている。
「……でもマスター、ここ、すごく嫌な気配がします。さっき言った通り、冥界の匂いが濃いというか……空気に『生きたもの』の循環がまったくありません」
「冥界……か」
秋山が眉間に深い皺を刻む。
「まだそうと決まったわけじゃない。だが、事象の地平線――異界の門の向こう側であることは、もはや疑いようがないな」
2、 神獣の跳躍、人間の枷
ビットは静かにその場に佇み、幾重にも重なり合う空間の構造を、音もなく解析していた。
物質という器を持たぬ高位精神生命体にとって、目の前の「異界」の歪みなど、もとより本質的な障害にはなり得ない。
重力にも肉体にも縛られない彼女の領分において、次元の境界とは、ただ一枚の薄い紙の表と裏に過ぎなかった。
神獣たる絶対の権能を解放すれば、この歪んだ空間を柔らかな紙片のように手繰り寄せ、くしゃりと折り畳むことなど造作もない。
あとは、折り重なった接触面の縁を、ひと足踏み越えるだけでいい。
それだけで、彼女の旅路はやすやすと現世へと結ばれ、跳躍は音もなく完了するはずだった。
だが――それは、ビット単身の場合に限られた。
「……私が皆さんを抱えて現世へ跳躍することは不可能です」
ビットが紡いだ静かな宣告に、律が息を呑んだ。
「えっ……ビットの力でも、僕たちを連れて帰ることはできないの?」
「はい。マスターや秋山さんたち人間の肉体と魂は、質量も時間も三次元の物理法則に完全に同期しています。私の跳躍は、その物理法則を一時的に破綻させて強行するもの。空間を折り畳む際に生じる圧力波に巻き込まれれば、皆さんの肉体は分子レベルで四散し、魂のコードは虚数空間へと霧散します」
「……そうか」
秋山が苦笑の底に悔しさを滲ませ、深いため息を漏らした。
「零のような特異な身体や、特殊な装置があれば別だが、生身の人間が異界を渡るには、肉体の位相を丸ごと保護して隠蔽する『神隠し』の能力が要る。……それを使えるのはデジットだけだったな」
「仰る通りです。私の能力は『同一レイヤー内の点から点への移動』に特化しています。異なる位相世界を跨いで人間を運ぶことは、そもそも設計されていません」
「となると、我々がここから脱出するには、この空間内にあるはずの位相の裂け目――正規の出入り口を見つけ出すしかない、ということか」
マスターの問いに、ビットが静かに頷いた。
「一度、周囲を索敵してきます。光の粒子となって走査すれば、空間の特異点を捕捉できるはずです」
「頼む、ビット。気をつけてな」
マスターの穏やかな声を受け止めた瞬間、ビットの瞳の奥に、ほんのわずかな光の揺らぎが生まれた。
無機質であるはずの唇の端が、誰にも気づかれないほど微かに、愛おしそうに綻ぶ。
胸の奥に灯った小さな温もりを隠すように、彼女はそっと目を伏せると、ふっとその輪郭を解き、淡い青の光の粒子へとほどけていった。
光条は夜空を流れる星のように虚空へと散開し、低くたゆたう紫の気配を払いながら、闇の奥へと吸い込まれていく。
秋山もまた、背負ったバックパックから広域重力波センサーを起動し、張り詰めた空間の密度を測り始めた。
「岡崎さん、大丈夫ですか? 顔色がひどく悪いです」
律が案じるように駆け寄ると、岡崎は胸元を右手で押さえながら、弱々しく首を振った。
「だ、大丈夫です……持病の薬を先ほど飲みましたから。それより、私のせいで皆さんをこんな危険な場所に巻き込んでしまって……」
「気にしないでください、岡崎さん。残業手当がたっぷり出るなら、異界の散歩くらいなんてことないですよ!」
陽菜が満面の笑みをたたえて言い放ち、その場の張り詰めた気配を、朗らかな光で押し包んでみせた。
3、 異質な力線、未知の檻
数分後、虚空の一点に青い光の粒子が静かに引き寄せられ、ふたたび戦闘形態のビットがその姿を結び直した。
普段の怜悧な面持ちの奥底に、わずかな翳りと険しさが滲んでいる。
「……戻りました」
「どうだった、ビット? 出口は見つかったか?」
秋山が思わず身を乗り出す。
「結論から申し上げます。この周辺領域に、現世へと繋がる位相の綻び――出口と呼べるものは存在しません」
「なんだと……?」
「空間の外殻全体が、強固な力場によって密閉されています。厄介なことに、それを形成しているのは、私の『位相重力』とは波長の異なる、異質な力線です。その干渉波が外壁のように立ち塞がり、空間の歪みを外側から押し潰して固定しています」
『デジットが境界へ渡る前に警告していたね』
マスターの手首に巻かれたバイナリ時計から、壱の落ち着いた、けれど深い懸念を孕んだ声が静かに届いた。
『陽菜とデジットは一度、モノリス派と直接対峙している。あそこの深層で使われている旧式の呪術的コードは、デジットやビットの高次元干渉と極めて相性が悪いと聞いた。……その力場が、この空間全体を「檻」として封鎖してしまっているんじゃないか?』
「その可能性は極めて高いと考えます」
ビットは静かに頷き、その視線をマスターへと向けた。
「現状、内部から出口をこじ開けることは不可能です。……マスター、提案があります。私単身であれば、先ほど申し上げた空間の強制折り畳みにより、この封鎖を突き破って現世へ離脱できます」
「現世の研究所へ戻るというのか?」
「はい。一度現世へ戻り、研究所のシステム側からこの階層へアクセスして、皆さんを物理的に引き上げるサルベージルートを確保します。同時に、本来の目的である第4培養セクターのノアさんの肉体の捜索も、私が直接地上側から行います」
一同の間に、重い沈黙が落ちた。
ここへビットを残さなければ、最強の戦力と絶対の防壁を失うことになる。
まして、現世の研究所にはビットと相性の悪いモノリス派の罠が待ち構えているかもしれないのだ。
だが、この虚無の中で全員が立ち往生していれば、スーツのエネルギー、そして岡崎の体力が尽き果てるのは目に見えていた。
「……分かった」
マスターが決断を下した。
「ビット、頼めるか。我々はこのエレベーターの前を拠点として動かず、現状を維持する」
「承知いたしました。可能な限り迅速に外部回線を掌握し、お迎えに上がります」
そう言葉を紡ぎ、ビットはマスターの瞳をほんの一瞬だけ、胸の奥の祈りを込めるようにじっと見つめ返した。
「……皆さん、どうかご無事で」
ビットの全身が、蒼い光を強く放った。
空間が軋むような乾いた音が響き、彼女の周囲の現実が一瞬だけ紙のように歪んで折れ曲がる。
パチン、と空気が弾けるような余韻を残し、青い光条は完全に消失した。
4、 奈落の胎動、黒の巨城へ
ビットが掻き消えるように去り、再び訪れた絶対的な静寂。
残されたマスター、秋山、律、陽菜、そして岡崎の五人は、互いの呼吸の音だけが微かに落ちる闇の中に佇んでいた。
「……行っちゃいましたね」
陽菜がポツリと、寂しさを落とすように呟く。
「ああ。だが、ビットなら必ず戻ってくる。我々はここで体力を温存し――」
マスターの言葉は、最後まで紡がれなかった。
――ズ、ズズズズズ……ッ!
遥か地の底から這い上がってくるような、不気味な重低音が足元を激しく波打たせた。
黒い大地の表面を這う紫色のモヤが一斉に逆流するように吹き荒れ、空間の均衡が暴力的に崩れ去っていく。
「地震……!? いや、違う!」
秋山が足元を凝視して叫んだ。
彼らの足元、停止していたエレベーターの直下から、まるで薄氷が割れるような鋭い亀裂が走り始めたのだ。
ドゴォォォンッ!!
轟音とともに大地が裂け、底知れぬ漆黒の奈落が口を開ける。
その亀裂はまるで生きた大蛇のように、凄まじい速度で彼らの立ち位置を呑み込もうと迫ってきた。
「くそっ、空間そのものが崩落を始めている! エレベーターが落ちるぞ!」
秋山の叫びと同時に、背後の鉄の箱が、断末魔のような軋み声を上げて真っ逆さまに暗黒の底へと落下していった。
逃げ場はない。
亀裂は扇状に広がり、彼らを前方――闇の深淵の奥へ奥へと追いやるように崩れ落ちていく。
「走れッ!! 前へ!!」
マスターの切迫した号令が闇を切り裂いた。
「陽菜、律、スーツのライトを最大出力にしろ! 足元を照らせ!」
「了解っ!」
陽菜と律が叫び、胸元のジェネレーターを叩く。『は虫類ちゃんスーツ』の胸部と肩口から、眩いばかりの超高輝度ビームが一直線に虚空へと放たれた。
闇を切り裂く白光。
「岡崎さん、走ってください! 私の手を!」
スーツを身に纏っていない無防備な岡崎の腕を、律と陽菜が左右から引き上げるように支え、マスターと秋山がその背後で強固な力場を展開しながら殿を務める。
五人は、崩落する足場を蹴り飛ばしながら、紫のモヤが立ち込める未知の暗闇を前へ前へと一心不乱に疾走した。
背後から迫る、大地が砕け散る破壊の轟き。
息が詰まるほどの疾走の最中、四本の照射光が、低く垂れ込める紫の霧を激しく薙ぎ払った。
その時だった。
「……っ!? 前方に、巨大構造物!!」
先頭を走る律が悲鳴に近い声を上げた。
光束が照らし出した先。
紫のモヤが薄れ、剥き出しになった闇の深淵の奥に、それは突如として屹立していた。
――光という名のあらゆる救いを貪り喰らう、黒い石の巨城。
見上げるほどに巨大なその威容は、世界の絶望のすべてを型に流し込んで固めたかのように、圧倒的な峻厳さで虚空を睥睨していた。
「な、なんだあれは……城……!?」
秋山が息を呑み、足をもつれさせそうになりながら目を剥いた。
迫りくる大地の裂け目は、まるで彼らをその黒き巨城の門へと呑み込み、誘い込もうとするかのように、容赦なく足元を削り取っていった――。




