↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/29

第21話 世界システムの剥離、受肉の重力

 異世界。


清泉県 潮凪区 翠松町(せいせんけん しおなぎく すいしょうまち)。


 それは、宇宙の皮膚を内側から静かに一枚めくるような、圧倒的な質量を伴う「浸入」だった。


 翠松町の夜は、和ノ國特有の重く湿り気を帯びた闇に包まれている。


空間の「あわい」――三次元の物理法則が夜陰の底に融け、曖昧になった時空の隙間に、本来なら実体を持たないはずの絶対的な環境が、音もなく降り立った。



『スカラー』



 それは本来、この現世に形を持たない精神体そのもの。


方向も、境界も、個としての輪郭すら持たぬ総量としての神格が、現世の重力圏へと静かに沈降していく。



 目的は、この宇宙に紛れ込んだ観測史上最大の異常値、すなわち『アウトライヤー』である秋月乃亜(あきづき のあ)という存在に直接接触すること。


だが、指向性を持たないスカラーがこの硬質な物理世界で個人の前に現れるには、その果てしない全能を一点に絞り込み、座標を固定するための「器」が必要だった。



(……サンプリング。この街における、適切な個体の選定を開始)



 深夜の街を、客観的な演算の網が冷徹に網羅していく。


だが、その作業は遅滞を極めた。


 スカラーとはただ「そこに留まる量」としての性質を持つ、純粋な概念だ。並の人間では、その存在が内包する膨大な情報量と高次波長を受け止めるだけの精神的質量が、根本的に足りない。


流れ込むデータは器に留まることなくただ素通りし、現世の夜風へと虚しく霧散していくばかりだった。



 その時、虚空のデータ回路が、ひとつの明確な「歪み」を検知する。それは、通りを歩く一人の女性の精神だった。



 五月七日(つゆり) 結(ゆい)。



 異能の類いは一切持たない。


現代科学の枠内に収まる、ごく普通の、しかし比類なき一人の人間に過ぎない。


だが、彼女の内面に秘められた精神の軸は、まるで激流に穿たれた岩盤のように一歩も退かない、人並外れた「強さ」を宿していた。


その極限まで研ぎ澄まされた自我の波形が、実数宇宙の底で、精神体そのものであるスカラーと奇跡的な共鳴を起こす。



(――共鳴。対象の精神的質量、スカラーの許容量と同調を確認)



 刹那、見えない火花が散るように、スカラーが結の存在と深くリンクした。



「――っ!?」



 結の足が、アスファルトの上でピタリと止まる。


 彼女には何が起きたのか分からなかった。


ただ、一瞬だけ、全身の血液が完全に凍りつき、宇宙の底から見下ろされたような底知れない圧迫感が、魂の芯を真っ直ぐに貫いた。



 結の肉体から、その「造形」のデータが、配置が、美しき遺伝子の設計図が、目に見えない光の粒子となってスカラーへと引き剥がされていく。



「な、に……これ……」



 胸を押さえ、その場に崩れるように膝をつく結。


命に関わるわけではない。


しかし、実体を持たない神の如き概念にみだりに「形」を分け与えた代償は、彼女の生身の肉体にとってあまりにも重すぎた。


ずしり、と細胞の隅々にまで鉛を流し込まれたような、強烈な倦怠感が全身を支配する。


この深刻な影響は、これから数日間にわたって彼女の肉体を容赦なく縛り、その自由を奪うことになる。



 結がその不可解な重さに耐えかねて地面に視線を落とした、そのわずか数メートル先。


 街灯の光すら忌避するように届かない、路地の暗がりに「それ」は顕現した。



 空間の密度が、爆発的に跳ね上がる。


大気が強引にレンダリングされていく。



 結の精神からスキャンした「最も完成された造形」が、三次元の肉体として再構成されていく。



 漆黒の闇から立ち上がったのは、ひとりの女性の姿だった。



確かに結の造形を下敷きとしている。


しかし、それは決して完全な複製ではなかった。


結という人間の持つあの凛とした佇まいは再現できても、その奥にある人間らしい「情熱」という曖昧な変数が、数式を基盤とするスカラーにはどうしても読み解けない。



 結果として誕生した肉体は、透き通るような異様な白さを持ち、世界から完全に隔絶されたような、不自然な静謐さを纏っていた。


 女性の形をした『スカラー』は、ゆっくりと自分の掌を見つめた。


 指先を動かす。


肉体という制約。


重力という指向性。


四肢を動かすために必要な電気信号のタイムラグ。


すべてが、全能なる彼女にとっては未知の不自由さだった。



「……これが、形」




 その声には、高低も、揺らぎも、感情による一切の方向性が存在しない。


ただ、絶対的な量として、そこに声が「存在した」だけだった。


その一言が発せられた瞬間、周囲の空間が一瞬だけ処理落ちを起こしたように歪む。



「上下がある。前後がある。私は今、この狭小な三次元の檻の中で、ひとつの方向を向いている。不条理な世界。なればこそ、アウトライヤーはここに留まるのか」



 スカラーは、その不自由さをただ客観的に受け入れた。


 衣服の擦れるかすかな音を立てて、彼女は歩き出す。


この宇宙の重力を、その足の裏で一つずつ確かめるように、圧倒的な質量となって翠松町の地面を踏みしめていく。


 一歩進むたびに、アスファルトの底にある大地の硬さが、質量という揺るぎない事実となって彼女の意識に流れ込んでくる。




 その時、通りの角から、夜の静寂を侵さない極めて静かな靴音が近づいてきた。




 その人物は、白ブラウスに黒のロングエプロンという、夜の街にはいささか不釣り合いな職人の佇まいをしていた。



眼鏡店『微光堂(びこうどう)』の店主であり、500年以上の時を生きる魔人――葛城・ヴァイオラ・千鏡。



 彼女は、この翠松町に生じた「余剰次元の歪み」を、自らの魂の波長で敏感に探知してこの場所にやってきた。


普段は存在の解像度を意図的に下げ、誰の記憶にも残らないように歩く彼女だったが、今夜ばかりはその余裕がなかった。


 ヴァイオラは、スカラーから数十メートル離れた位置で、完全に足を止めた。


 愛用している「蒼氷色(アイスブルー)」のフレーム眼鏡の奥で、彼女の瞳が細められる。



(……何んだ、これは……?)



 500年という果てしない歳月を生きてきたヴァイオラにとって、現世のあらゆる怪異も、魔術の歪みも、すべては既知の領域だった。


だが、いま目の前に立っている「何か」を視た瞬間、彼女の背筋に未曾有の戦慄が走った。


 それは「強い異物」といった生易しいものではなかった。


 ヴァイオラの持つ“魂の奥を視る権能”が、目の前の存在の解像度を捉えようとした瞬間、逆に自らの視覚情報が無限の数式によって呑み込まれそうになる。


 手も足も出ない。


戦うとか、対話するとか、そういった物理次元の選択肢がすべて消滅するほどの圧倒的な隔絶。


そこにいるのは個としての生命ではなく、宇宙の物理システムそのものが服を着て歩いているような、絶対的な環境そのものだった。


 ヴァイオラは息を詰め、一歩も動けぬまま、ただその圧倒的な存在を観測することしかできなかった。


リミッターである青い眼鏡が、流れ込む高次波長への負荷に耐えかねて、チリチリと微細な音を立てて震えている。


 歩を進めていたスカラーが、ふと、その足を止めた。


 ゆっくりと、結の造形をした首が回る。


その高低のない無機質な視線が、正確にヴァイオラの「蒼氷色」のレンズへと向けられた。




「……おや?」




 スカラーの口から、感情の揺らぎを持たない、しかし明確な興味のサンプリングとしての言葉が漏れた。


 世界システムそのものであるスカラーにとって、この三次元の檻にいる人間はすべて等しく平坦なデータに過ぎない。


しかし、目の前に立つ眼鏡の女性は違った。


500年分のクロニクルを内包するその魂の質量が、受肉したばかりのスカラーの演算回路に、わずかな「引っかかり」を覚えさせたのだ。



「観測者がいる。この閉ざされた座から、多次元の波長を識別する瞳を持つ個体。この世界のバグではないが……興味深いノイズだ」



 スカラーの言葉が空間を振動させるたび、ヴァイオラの胸元にあるアンティークな懐中時計の針が、狂ったように逆回転を始めた。


 ヴァイオラは額に冷や汗をにじませながら、ただ直立し、その圧倒的な存在が放つ圧迫感に耐え続けた。


声を発することすら許されない、極限の緊迫感が一つの魔人と一つの概念の間に満ちていく。




 だが、スカラーがそれ以上の干渉をヴァイオラにすることはなかった。


再び何事もなかったかのように前を向き、歩き出した。


 結が息を整えながら蹲る路地を、そして硬直したままのヴァイオラを、一瞥もくれることなく通り過ぎ、彼女は夜の闇の奥へと消えていく。


 絶対的な質量を伴う世界のバグとして、その無機質な足跡は、まだ見ぬ未知の座標へと向けられていた。



◇


 スカラーの姿が完全に闇に融けて消えた瞬間、ヴァイオラは「はぁっ……!」と大きく息を吐き出し、胸を押さえた。


激しく脈打つ心臓の音が、耳の奥でうるさいほどに響いている。


 青い眼鏡の奥の瞳には、かつてないほどの驚愕と、世界の裏側で何かが決定的に動き出したことへの深い予感が宿っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。