第19話 一ヶ月の断絶、薬指の固有時
境界の彼方――スカラー領域の狭間に広がる異世界、翠松町へと降り立った、零、亜依、サチ、デジット、レイイチ。
歪む光の裂け目から零れ落ちるようにして、硬いアスファルトに足を進めた瞬間、彼らを迎えたのは、現世の日本と何一つ変わらない、どこまでも穏やかで、残酷なほどに美しい日常の風景だった。
見上げる空は、吸い込まれそうなほどに深く、青い。
そこから降り注ぐ陽光は初夏のそれのように瑞々しく、周囲の景色をきらきらと眩しく照らし出している。
すぐ近くにあるはずの海から吹き付ける風が、潮の香りを乗せて心地よく彼らの肌を撫で、遠くからは、名前も知らぬ鳥たちのさえずりがのどかに響いていた。
あまりの平穏さに、ここが本当に命を賭して跳躍した未知の領域なのかと、誰もが時間の感覚を失いそうになる。
「みんな、無事?」
零が周囲の景色へ鋭い視線を走らせながらも、真っ先にサチの細い腕を引き寄せ、包み込むような声音で問いかけた。
レイイチは、衣服に付いた目に見えない次元の塵を軽く払い、いつもの穏やかな微笑みをたたえる。
「僕は無事だよ」
そのひだまりのような声に、一同の張り詰めていた肩の力がわずかに抜けた。
しかし、その安堵は、手首のバイナリ時計が無機質な文字盤を閃かせた瞬間に霧散することとなる。
亜依が自らの手首に視線を落とす。
文字盤のドットは、現世の壱誠との同調を細い糸のように保ちながら、この異界の固有時を瞬時に逆算し、光を明滅させていた。
だが、そこに表示されたコードを読み解いた瞬間、亜依の端正な横顔が凍りついた。
「……違う。計算が狂ってる」
「どういうこと、亜依」
零がその横顔を覗き込む。
亜依は厳しい表情を崩さぬまま、冷たい光を放つ文字盤を一同へと向けた。
「私たちがジャンプしたのは、3年前(36ヶ月前)じゃない。正確には『2年11ヶ月前』。――目的の時代より、ちょうど一カ月遅れて到着してる」
「一カ月の遅延だと……!?」
デジットの瞳が、驚愕と同時に独自の論理演算を開始し、鋭く、怜悧な灰色へと変色していく。
快晴の空の下、あまりにも不条理な数字がただ静かに明滅していた。
高次元の跳躍において、一ヶ月という座標のズレは致命的な意味を持つ。
その空白のひと月の間に、秋月乃亜の身に何が起きたかによって、彼らが携えてきた作戦の前提はすべて覆りかねないからだ。
「一カ月も経っていれば、もう病院にいない可能性があるわね」
零が淡々と呟いた。
レイイチの話によれば、ノアに怪我は無く、無傷に近かった。
ならば、とっくに退院して姿を消していてもおかしくはない。
「そんな……お父さん……」
その言葉に、サチは胸を締め付けられるような不安を隠せなかった。
「すぐにノア先生の居場所を特定する」
亜依が精神を集中させ、特異点としての超越的な視界を翠松町全体へと広げようとした。
いつもなら、彼女の意思一つで標的の存在確率は収束し、ピンポイントの座標が脳裏に浮かび上がるはずだった。
しかし、数秒後、亜依は苦しげに美しい眉を寄せ、片手を額に当てた。
「だめ……ピンポイントで探せない。何かしらの強力な隠蔽が街全体を覆ってる。ノイズが多すぎて、視界に霧が立ち込めるみたいに……」
本来、このスカラー領域では、他宇宙の存在――つまりカーネル領域の出身である零やデジット、レイイチたちは、世界システムからの強烈なデバフによって、その能力を急激に減衰させられるはずだった。
ただ、この宇宙のルールに縛られない『特異点』である亜依だけは、どんな領域の檻であっても影響を受けないだろうというのが、出発前の壱誠たちの見込みだった。
しかし、現実の境界は違った。
特異点であるはずの亜依の『観測』すらも、薄い陽炎のような不気味なノイズが遮っている。
陽光が降り注ぐ美しい街並みのなかで、何かが決定的に狂っている。
だが、この時の彼らはまだ知る由もなかった。
それが単にスカラー領域の環境によるデバフのせいだけではないということを。
◇
――少し、時間を遡る。
それは、跳躍空間の白い狂気のなかで弾き飛ばされ、サチが何者かの手によって元の航路へ引き戻された直後。
まだ次元通路の出口、翠松町の入口にたどり着く寸前の、狭間での出来事だった。
「貴様…何と契約した?」
異能の解析を発動させ、瞳を底冷えする灰色に染めたデジットが、怒りとも恐怖ともつかない、複雑な色をその魂に浮かべながら言った。
その鋭い眼差しは、眼鏡の奥にあるサチの瞳、そして彼女の魂の表面にこびりついた「異質なルール(契約の痕跡)」を冷徹に見透かしている。
サチはすぐには答えない。
ただ、胸元に下げた愛用のデジカメを、まるで壊れやすい宝物を守るように、小さな両手でそっと握りしめるだけだった。
「おい」
デジットが逃げ道を塞ぐようにさらに一歩、冷たい圧迫感をもって詰め寄る。
サチは眼鏡のブリッジを小さく指で押し上げ、その威圧感に気圧されるようにして、ぽつりと、掠れた声を漏らした。
「少年…何者かはわからない」
「少年だと…?」
デジットの眉間が、より一層深く、険しく刻まれる。
サチはデジカメを握る手にいっそ祈るような力を込めながら、言葉を紡いだ。
「あの、白い場所で出会って……そこから出してくれたの」
デジットは腕を組み、自らのなかに眠る論理回路と、あらゆる宇宙の知識を高速で走らせた。
サチに宿る淡い気配と、その言葉の整合性を精査していく。
「なんだ、そういうことか」
不意に、フッと静かに鼻から息を吐き、デジットの顔から刺々しい険しさが消えていく。
それと同時に、彼の瞳もまた、灰色の輝きから元の深い青色へと、凪ぐように戻っていった。
「そいつはおそらく、次元の狭間に棲む精神体だ。お前の心の隙間を覗いて、お前に最も認識されやすい姿で現れたのだろう」
「じゃあ……彼も、あなたと同じ神獣なの?」
サチが恐る恐る訊ねると、デジットは心底心外だというように、フンと鼻で笑い飛ばした。
その仕草にはどこか人間じみた諦念が混じっている。
「我が方と一緒にするな。お前らの言葉で言えば、妖精か精霊の類だ。神ほど強くはないが、人間の理屈だけで測れる存在でもない」
「彼、妖精なんだ…」
サチは、あの真っ白な空間で悪戯っぽく微笑んでいた、白銀の髪の少年の姿を思い浮かべる。
記憶のなかの彼は、まるでガラス細工のように儚く、美しかった。
「お前と同調しているようだな。ということは借力が可能か」
「しゃくりき?……って何?」
聞き慣れない言葉に、サチは小さく小首を傾げた。
「お前らの世界で分かりやすいのは…加護だな。守護や特別な恩恵を与えられている状態だ」
「え?本当?どんな力?どうやって使うの?」
サチの瞳に、ほんの少しだけ期待の灯火が宿る。
もし自分にもみんなを助ける力が使えるのなら、という、それはあまりにも純粋な願いだった。
しかし、デジットは冷淡に視線を逸らした。
「知らん。そもそも、そいつが何処の宇宙から来たかにもよる。我たちのように別宇宙から来たのであれば、エレメンタル程度ではその力も大して発揮できぬだろう」
「ふーん、そうなんだ……」
小さな期待はあっけなく外れ、サチは少しだけ肩を落とした。
デジットはその細く鋭い指先をサチの鼻先に向け、釘を刺すように低い声で警告する。
「とにかく、今後は異界で勝手に契約はするな。やばい相手なら面倒なことになるからな」
「……」
サチはそれには答えず、ただ静かに視線を落とした。
けれど、胸の奥の深いところで、あの少年がまた楽しそうにクスクスと笑ったような気がして、デジカメの冷たいボディをそっと指先で撫でた。
◇
――場面は再び、翠松町。
陽光の降り注ぐ全員の合流地点へと戻る。
なぜ予定の座標から一カ月もずれてしまったのか。
ここでどれだけ言葉を重ねても、埒は明かない。
原因の本格的な解析は、現世のビットに委ねるしかなかった。
ジジジッと低い駆動音と共に、手首のバイナリ時計のランプが青く点灯する。
不安定な時空の壁を越え、現世の『パラレル・ライン』にいる壱誠との音声通信がようやく開通し、文字盤にノイズ混じりのパルスが刻まれた。
「壱、聞こえる?こちら零。到着座標に一カ月のラグが生じているの。亜依の『観測』も妨害されていて、ピンポイントでの特定ができないの」
零が時計に向かって鋭く状況を伝えると、スピーカーから、現世の混乱の只中にいる壱誠の、けれど絶対に揺るがない、深く力強い声が返ってきた。
『――一カ月のズレは、実数側でこちらが解析する。作戦は続行しよう。ノイズで観測しにくいとはいえ、そのタイムラインにノア先生がいることは間違いない。情報を集めよう。捜索を開始してくれ』
「了解」
『零…』
「ん?何、壱…」
『くれぐれも気をつけて』
「うん」
通信機越しに響いた壱の声に、零はまるで自宅のリビングで会話を交わしているかのような、いつもの柔らかい声で応じた。
そして、手袋越しに左手の薬指をそっと愛おしそうに撫でる。
彼の声を聞くだけで、凍りつきそうな胸の奥がじんわりと温かくなる。
――必ず無事に、壱の待つ場所へ帰る。
言葉にはせずとも固く心に誓い、零は通信を切った。
こうして、彼らはこの未知のタイムラインでのノア捜索へと、即座に舵を切った。
ピンポイントの特定は不可能。
亜依が限界までノイズを削ぎ落として弾き出した『翠松町の中心半径10キロ四方』という大まかな観測データを元に、限られた猶予のなかで手分けしてローラー作戦にあたるしか道はなかった。
「時間が惜しいわね。手分けしてエリアを潰していきましょう」
零が全員を見渡し、静かにチームを分ける。
「レイイチ、亜依。二人は西側をお願い。先ずは病院へ向かって。ノア先生がいればいいのだけど……いなかったら所在を確かめる手掛かりを探って」
レイイチは、あらかじめ地形が頭に入っている『海凪病院』と西エリアへ、亜依を伴って歩き出す。
「サチ。この世界の協力者に会いにいこう。私と一緒に来て」
そう言って歩き出そうとする零の背中に、サチは小さく手を挙げて呼びかけた。
「私も病院に行ったほうが……家族だし」
父親の無事をこの目で確かめたいという思いから、サチの声音には焦りと不安が混じっていた。
「気持ちはわかるけど、異世界であるここで、家族だと証明するのは難しいと思う。警察からの事情聴取に応じたり、かえって事態を複雑にしてしまうかも知れない」
正論で切って捨てるのではなく、諭すような零の言葉に、サチはぐっと言葉を詰まらせた。
「う、うん、そうだね」
サチは名残惜しそうにレイイチたちの背中を見送りながらも、不安を呑み込むように深く息を吐いた。
「気を取り直して、いまやれることに力を尽くそう。大丈夫、ノア先生は必ず見つかるから。一緒に情報を集めよう!」
「わかった!」
サチが力強く呼応する。
その瞳には、先ほどの不安はもうなかった。
二人は南から東へと回るルートへと向かった。
デジットは、最も異常な気配が濃い北側を、自ら引き受けるように、単独で静かに北エリアへとその身を翻した。
それぞれのバイナリ時計が、澄み切った青空の下で静かに、けれど確実に。
この世界に許された僅かな猶予を、一秒ずつ零すように刻み始めていた。




