第18話 多色の狂騒
現実世界。
それは、零たちが境界の彼方へと身を投じ、神崎壱誠の腕でバイナリ時計のbitがひとつ、静かに繰り上がる頃のことだった。
現実世界の硬い地表に、再びあの漆黒の直方体――『モノリス』が、音もなくその不気味な質量を現した。
世界のコードに生じた物理エラーは、単なる物質の破壊などではなく、この世界を世界たらしめている「情報」そのものの完全な融解となって、冷たく現世の肌を浸食していく。
出現したその瞬間から、周囲の実数データが次々とその固有の意味を失っていった。
街頭の信号機は赤・青・黄のすべてを同時に点灯させたまま凍りつき、電光掲示板には意味を剥ぎ取られた「0」と「1」のバイナリコードが、まるで血を流すように激しく奔り出す。
世界中の時計という時計が、まるでそれぞれ異なる宇宙を観測しているかのように不揃いな時刻を示し始め、人々の携帯端末に表示された銀行口座の数字は、一斉に「NaN(非数・未定義)」という冷酷なエラー文字へと書き換わっていった。
空間の物理法則もまた、その確かな「定義」を失っていく。
浮き上がったゴミや、路上に放置された車両が、上下の感覚を失ったように宙で静止する。
しかし、それは何か見えない大きな法則に拘束されているかのように、人や建物へ衝突することはなく、不自然なほど静かな軌道を描いてただ漂い続けていた。
端末のGPSは全世界で現在地を「未定義」と表示し、空間の座標そのものが泥のように融け始めていることを示している。
実数宇宙の磁場が引き裂かれた証拠である、歪な紫色の光の亀裂が、極夜の空に幾筋も走り、東京の夜を不気味に照らし出していた。
それは社会全体を極度の混乱へ陥れるには十分だったが不思議なほど、物理的な死傷者はただの一人も出ていなかった。
居酒屋『パラレル・ライン』の、煤けた1階フロア。
突然、カウンターの奥に置かれた電子レンジや冷蔵庫のインジケーターが、見たこともない速度で「0」と「1」を明滅させ、店内のあらゆる既存家電が、命を落とすように次々と機能停止していく。
「何事だ……!?」
一斉に電子の悲鳴を上げる店内の計器に、マスターが低く鋭い声を上げた。
その直後、窓の外の異様な夜空の光に気づいた陽菜が、ガラスに顔を寄せて叫んだ。
「ちょっと、あれってモノリスじゃないですか!?」
「動かないで! 全員そのまま!」
神崎壱誠の声が、鋭く、けれど冷静に店内に響き渡った。
壱は乱高下する店内の異変を一瞥し、秋山、律、そしてマスターと陽菜を、射抜くような強い視線で見据える。
「世界システムが過剰反応している。ビット、状況を報告してくれないか」
『了解、壱様。零様たちが跳躍し、スカラー領域の干渉を受けたことで、入口であるカーネル領域に境界の歪みが発生。モノリスは、世界システムがその急激なバグを補正するために出現したと推測されます。――もっとも、それを知らないこの世界の住民はそうは思わないでしょう』
ビットの言う通り、案の定、世界はまたしても急速に混沌の底へと叩き落とされていた。
同じ一つのモノリス、同じ一つの怪奇現象を見ているはずなのに、人間というあまりにも不確かな観測者たちは、世界中で都合の良い解釈を始め、全員が違う物語を勝手に語り始める。
世界中の通信網には救助要請や悲鳴が溢れ、SNSは数分で機能を失い、これは地球の自浄作用であり破滅のカウントダウンだと怯える「災害派」。
ついに偉大なる意思が我らの前に姿を現したと狂喜乱舞する「モノリス崇拝派」。
大国による情報空間兵器やサイバー実験だとネット上で騒ぎ立てる「陰謀論派」。
政府は傷口を広げるパニックを力ずくで隠蔽し、戒厳令を敷いてでも事態を統制しようと躍起になっている。
意味のない物語が交錯し、世界中が勝手な解釈を始める喧騒のなか、特にモノリス崇拝派の反応は狂気的な熱を帯びていた。
彼らはこの物理エラーの発生を「神の意思」と呼び、北の研究所に眠る秋月乃亜の肉体へ、さらなる狂信的なエネルギーを注ぎ込もうと、不穏な動きを加速させていく。
「観測」の歪みが現世の人間を狂わせるなか、その混乱を孕む世界のさらに奥底――あの闇の世界、不帰の城、黒の最奥に潜む異形のそれもまた、現世の不揃いなノイズを敏感に感じ取っていた。
愛しい残響を、現世のバグのなかに探すように、狂おしく蠢きながら……
「これ以上の猶予はない。カルトの動きが本格化する前に、現世の混乱を突いて一気にノア先生の肉体を奪還する」
壱が毅然と言い放ち、視線を交わした秋山たちに鋭く指示を出す。
「秋山、律くん、マスター、陽菜。これ以上の混乱に巻き込まれ、交通網や通信網が完全に窒息する前にカタをつけよう。準備はいいか」
秋山が静かに顎を引いて頷き、律はビットが開発した小型特殊端末の画面を握り直す。
既存の通信網が全滅するなか、モノリスの影響を全く受けずに駆動するのは、ビットのテクノロジーを搭載したバイナリ時計と青く光るその端末だけだった。
マスターは必要な装備を無造作に引っ掴み、陽菜は自らの細い指先に、いつでも引き出せる白い霊力を陽炎のように纏わせ、静かに息を整えた。
誰もが覚悟を決めて、自らの武器を固く構えていた。
「よし。――ビット、全員を北の研究所へ送ってくれ」
壱の迷いのない命令を受け、端末の画面から、ビットの凛とした電子の声が響いた。
『了解いたしました。――では、送ります』
ビットが固有の転移能力を発動した瞬間、パラレル・ラインの端末に投影されていた彼女のホログラムが、サラサラと音を立てるようにして、淡い青白い粒子になり分散した。
その粒子の半分は、壱誠の管制とバックアップを維持するためにこの場に残り、もう半分が、現実世界の物理的な距離を完全に無視して、強烈な光となって4人の身体を優しく包み込んでいく。
「みんなは余計なことを考えず、着地した瞬間に目の前の標的に集中してくれ。よろしくたのむ!」
壱の力強い声が彼らの背中を押し、情報のエラーが網膜を白く染め上げる。
光の奔流が収まったとき、使い古された木製のカウンターの前には、もう4人の姿はなかった。
彼らはビットの能力によって、歪む実数空間を鮮やかに飛び越え、北の研究所付近の座標へと、転移していった。




