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第14話 別宇宙の理



 居酒屋『パラレル・ライン』では、ビットがマスターに向けて静かに語りかけていた。



「マスター。……『スカラー』とは、この宇宙の管理システムであるカーネルとは、全く異なる次元の理なのです」



 ビットは、美しく磨き上げられたグラスを棚に戻しながら、その深い褐色の瞳をマスターへと向けた。



「カーネルが、零という『不純なデータ』を排除するために世界ごと初期化(リブート)しようとする宇宙のOSだとすれば……スカラーは、その宇宙に存在するすべての『量』そのものを規定する、絶対的な環境(フィールド)なのです」



「量……環境だと?」



 マスターの怪訝そうな呟きに、ビットは小さく、しかし重々しく頷く。



「はい。そこには『どちらへ進むか』という向き――すなわちベクトルもなければ、目的(動機)すらありません。ただそこに、圧倒的な密度と温度を持って『留まり続けている』。そんな、絶対的に動かない静的な概念です。

 向けられた殺意も、空間を穿つ攻撃も、すべては『指向性』を持ったベクトル。それがスカラーの領域に触れた瞬間、すべての方向性を失い、ただの無害な熱量へと分解・還元されてしまう。本来なら、完璧に無機質な世界の支点なのです」



「……本来なら、ということは、今は違うのか?」



「いいえ。現時点ではまだ、スカラーはただの完璧な『量』です。ですが……その絶対的な領域と地続きになった架空の街『翠松町』に、ノアさんという、観測史上あり得ない『アウトライヤー(異常値)』が3年前に流れ着いてしまいました」



 ビットはカウンターに両手を置き、静かな、しかし確かな警戒を瞳に宿した。



「私たちの跳躍先は、ノアさんが漂着したまさに『3年前のあの瞬間』の翠松町です。私の予測では、この宇宙において存在の『量』が定義されていないノアさんがあの街に居座り続けることで、いずれスカラーの演算回路にゼロ除算(割り出し不能)のバグを呼び込んでしまう。

 そうなれば、宇宙のバグを感知した、あのスカラーの膝元に控える防衛プログラム――神獣『枢(くるる)』が、ノアさんを排除するために必ず覚醒します。枢が動けば、その最悪の特異能力、アバター量産による無尽蔵の軍勢が、ノアさんを消去するためにその星の空間ごと完全に初期化(フォーマット)されかねません」



 マスターは夜の仕込みの手を止めたまま、無言でビットの言葉の重みを噛み締めるように、静かに頷いた。



「大魔女・篝様が拓いてくれた航路のおかげで、翠松町へと続く次元のノイズは消え去りました。ですが、今回の跳躍先はカーネルの管轄外。回路によるサポートさえ通用しない、方向すら失う最強の理の真っ只中。システムが動く前に先手を打って、私たちは3年前のあの場所へ、境界を越えて飛び込まなければならないのです」



 トントン、と。


 再び、マスターの手元で包丁が規則正しい音を刻み始める。


それはいつもの夜と変わらない、ひどく安穏とした日常の音だった。


 迫り来る三極の運命の足音が、夜の街の静寂の裏で、確実に、その速度を上げていた。


 デジットが掴み取り、カーネルが『公式任務(コマンド)』として承認した、零の魂を縛る最後の契約。


 この個人的な救出劇を成功させた時、零のエージェントとしての宿命は満了し、壱誠の記憶は完全に再構築される。


 システムが望むバグの消去か、それとも、ただ一人の大切な恩師を連れ戻し、家族の未来を取り戻すための『個人の祈り』か。


 あらかじめ織り込まれた破滅のプログラムを、その傲慢な愛の力でねじ伏せるために。


 まもなく、世界の運命を揺るがす大跳躍(ジャンプ)が始まる。


 そのすべての思惑をハイドしたまま、居酒屋『パラレル・ライン』の看板の灯りは、今夜も静かに夜の街を照らし続けていた。





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