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「……行かないと」
絞り出した声は自分でも驚くほど乾いていた。
マリアネは重い足取りを無理やり動かし、自室とは逆方向である城の地下深くに位置する転移の間へと向かった。
大魔王城の地下に広がる転移の間は、天井がドーム状になった巨大な広間だ。床一面には複雑な幾何学模様の魔法陣が刻まれ、それが放つ淡い燐光だけが、この薄暗い空間の光源となっている。
壁に沿うようにして、人間界──グランドシオルと呼ぶ世界の各地へと繋がる数十のゲートが黒曜石の鏡のように静かに並んでいる。空間そのものが膨大な魔力によって常に揺らいでいるかのような、独特の圧迫感がある場所だ。
「ご苦労様です、マリアネ様」
広間の入り口で警備にあたっていた、重厚な鎧に身を包んだ魔族の兵士がマリアネの姿を認め、即座に胸に拳を当てる敬礼を行った。
「……ご苦労様です。異常は?」
「はっ。何事も。……マリアネ様がゲートをご利用になられるのは珍しいですね」
兵士の言葉に、マリアネはびくりと肩を震わせる。
そうだ。自分はいつも、任務から何もせずに帰ってくる。わざわざ自分から人間界へ赴くことなど、ほとんどなかったのだ。
「……ええ、まあ。少し、確認したいことがありまして」
マリアネは兵士の真っ直ぐな視線に耐えられず、咄嗟に目を逸らした。
「承知いたしました。転移先をご指定ください」
「……グランドシオル、カンラヤン地方。宗主国グランディールの近郊へ」
カンラヤン地方。そこはグランドシオルの中心大陸に位置する、広大な平原地帯だ。大陸全土に影響力を持つ宗主国──グランディール王国の城下町が近く、各国を結ぶ主要街道が何本も交差するため、人通りが非常に多い。人通りが多いということは、それだけ死に遭遇する機会も多いということ。事故や、病気、あるいは────
(……人間同士の争いや、魔物が現れたりすれば、運よく『首』が手に入るかもしれない)
「カンラヤン……承知いたしました。第十三ゲートを起動します」
兵士が手際よく制御盤を操作すると、並んでいたゲートの一つが、黒い水面のようにさざ波立ち始めた。
「マリアネ様。ゲート、開きます」
「……ありがとうございます」
マリアネは一礼し、意を決してゲートへと歩み寄る。
そしてゲートをくぐる直前、マリアネは意識を集中させた。魔族の証であり、人間にとっては恐怖と汚染の源である魔力の自然放出をその暗黒の淵へと折り畳んでいく。そして今、魔王マリアネの気配が完全に消えた。今の彼女は人間はおろか、並の魔族ですら感知できない、ただの無力な娘へと変貌した。この状態を維持するのは凄まじい精神力を消耗する。
だが、人間界で隠密に行動するには、この精神消耗もやむを得ない。特に中枢たるグランディール国近郊には、世界に名を轟かせる英雄や、熟練の冒険者が集うギルドも多い。万が一にも魔族の気配を感知されれば、即座に大混乱へと陥るだろう。
マリアネは息を殺したまま、揺らぐ黒い水面へとそっと足を踏み入れた。
全身が冷たい水に沈み、一瞬で引き上げられるような感覚。次の瞬間、マリアネの目を焼いたのは、魔界の薄暗い空ではありえない強烈な太陽の光だった。
「…………っ」
嵐の音は、もう聞こえない。代わりに、風が草を撫でる音と遠くで鳥のさえずりが聞こえる。マリアネは見渡す限りの平原に、一人立っていた。
眩しさに目を細めながら、遠くに見える道とそこを小さく行き交う、馬車や人々の影を見つめる。そして、絶壁に守られるグランディール国が、マリアネの視界に大きく映った。
(……二週間。この世界で、私は……)
眩しい太陽、どこまでも青い空、そして命が満ち溢れた緑の草原。
魔界の荒涼とした大地とはあまりにも対照的な光景に、マリアネは束の間、自分がここに何をしに来たのかを忘れそうになる。
(……まずは、情報収集からですね)
人通りが多いという街道へ向かい、近くの村や町で死者に関する情報を探すしかない。そう考え、マリアネは街道へと慎重に歩き出した。魔力を消しているとはいえ、魔族の身体能力は人間を遥かに凌駕する。不自然に早く歩きすぎないよう、一歩一歩、その疲弊した精神に普通の人間としての動作を強いる。
街道に出ると、思った通りのどかな光景が広がっていた。遠くにはグランディール国へと向かう隊商の列が見え、時折馬に乗った兵士らしき者たちが通り過ぎていく。
マリアネは街道の端で草むらに隠れるようにして、人々の様子を伺っていた。
その時だった。
「おや?」
一台の荷馬車が、マリアネのすぐ近くで速度を落として止まった。
馬を引いていたのは深く皺の刻まれた、人の良さそうな老人だった。
「こんな所でどうなされた、お嬢さん。道にでも迷われましたかな?」
マリアネはびくりと肩を震わせる。しかし、今の自分は魔力を完全に消しているただの娘だ。ここで不審な動きをしなければ問題ないはずだ。
「あ……いえ、その……、旅をしてまして。少し、休憩を……」
「ほう。しかし、お嬢さんのようなお若い方が、一人で旅とは。感心じゃわい」
老人は荷台の荷物を確認しながら、穏やかに笑いかける。
「わしは今からグランディール国の市場へ野菜を運ぶところでの。もしよければ、町まで乗せていって差し上げようか?」
「え……」
親切な申し出だった。
だが、マリアネにとっては毒だ。人間に近づきすぎるのは危険すぎる。
「お、お構いなく。私は、ここで友人を待って───」
マリアネがしどろもどろに嘘をつこうとした、その瞬間。
「グルルルルル……!」
低い獣の唸り声が、すぐそばの草陰から響いた。
老人が息を飲む。マリアネが視線を向けると、そこには血走った目をした狼型の魔獣──ウィンドウルフと呼ばれる、この地方でよく目にする凶暴な魔物が、よだれを垂らしながらゆっくりと姿を現した。
一匹。いや、その背後から、さらに二匹と現れる。
「ま、魔物……! な、なぜこんな街道近くに……!」
老人は真っ青になる。戦うための武器もない老人にとっては絶望に近い状況だ。
「お嬢さん、早く逃げなされ! わしが時間を稼ぐ……!」
「で、でも!」
「いいから!」
老人はマリアネを守ろうと、荷馬車との間に立ちはだかった。その細い背中が恐怖に震えている。
「グアアアァァッ!」
痺れを切らした一匹が、老人めがけて飛びかかった。時間が引き伸ばされたかのように、すべてがゆっくりと見える。
(ああ、あの牙が、この人の喉を裂くのか……ここで死ねば『首』が手に入る……?)
その浅ましい考えが浮かんだ瞬間、マリアネは自分の意志とは関係なく、地面を蹴っていた。
「……ッ!」
魔力を解放するわけにはいかない。だが、魔力を抑え込んだままの魔王としての純粋な身体能力だけでも、人間や低級魔獣の比ではなかった。
「……え?」
老人の目には、マリアネが一瞬で姿を消したように見えた。ウィンドウルフの牙が老人に届く、ほんの数センチ手前。マリアネはその魔獣の腹に右拳をめり込ませていた。肉が潰れる鈍い音が響く。
「ギャンッ!?」
ウィンドウルフはくの字に折れ曲がり、爆風にでも巻き込まれたかのように吹き飛んだ。そして地面にひれ伏した後、それは二度と動かなくなった。
殺すつもりはなかった。ただ、助けようとしただけだ。だがマリアネの手加減した一撃は、魔物にとっては即死の威力だったのだ。
「な……」
残りの二匹が目の前で起きた現象に怯んで後ずさる。
「……あっちへ行きなさい……」
マリアネは冷たく呟いた。それは覇気ではない。彼女の内側にある魔王としての、ほんの僅かな圧。
二匹のウィンドウルフは悲鳴のような鳴き声を上げて、一目散に草原の彼方へと逃げ去っていった。
「…………あ……」
マリアネは、自分の拳を見つめる。血はついていない。だが今、確かに命の感触があった。
(……殺して、しまった)
「お、お嬢さん……いや……あなたは……」
老人は腰を抜かしたまま、マリアネを呆然と見上げている。
「……さあ。早く、行ったほうがいいですよ。グランディールはすぐそこです」
「あ、ああ……ありがとうございます、ありがとうございます……! まるで女神様のようだ……! このご恩は決して忘れません……!」
老人は何度も頭を下げ慌てて馬車に飛び乗ると、鞭を打ってグランディール国の方角へと去っていった。あっという間に、街道にはマリアネと一匹の魔獣の死体だけが残された。
「……はぁ……」
さっきまで、あれほど悩んでいたのに。殺すことができない、と絶望していたのに。自分は今、人間を守るためにいとも簡単に魔物を殺してしまった。
「……はは……」
乾いた笑いが漏れる。これでは人間の首など、到底手に入れられるはずがない。
「……私には……やっぱり、無理なんだ……」
マリアネはその場で膝をついた。遠くで聞こえるのどかな鳥のさえずりが、彼女の絶望を嘲笑うかのように、無情に響き渡る。
二週間の期限のうち、まだ半日も経っていないというのに、マリアネの心はすでに完全な闇に包まれていた。




