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全ては『ミライ』のために  作者: アベル
魔界王第二位 編

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13/84

11(2)

 重く冷然たる金属の大扉が、マリアネの背後で静かに閉ざされた。

 玉座の間に充満していた、大魔王グレイの絶対的な支配が遂に遮断され、肺の奥に滞留していた空気を細く、苦しげに吐き出した。


「……人間を……殺す……か」


 玉座の威圧から逃れるように、マリアネは薄暗い廊下をよろめきながら歩き出す。

 今日は珍しく天気が悪かった。まるで、マリアネの気持ちが左右されているかのように。

 しかし、外から微かに届く荒涼たる暴風の轟音よりも、耳の奥深くにこびりついた『殺せ』という大魔王の命令だけが、脳内に反響し続けていた。


「……っ」


 ふと視線を落としたその足元にある、大理石の床に敷き詰められた深紅の絨毯。まるで、これから己の手で流さなければならない無辜の命の血溜まりのように見え、マリアネは思わず吐き出しそうになった。


「………殺す……はぁ……どうしましょう……」


 マリアネは再び気鬱な足取りで、迷宮のような城内を彷徨った。

 他の魔王たちであれば、『人間を一人殺す』などという任務は、呼吸をするほど造作もない作業。

 だが、マリアネにとって、それは何よりも過酷で達成困難な試練であった。


「私……どうすればいいのかな……」

  

 その時、自身の重苦しい足跡とは対照的な、石畳を軽やかに弾む幼子のような歩調が、前方から接近してくることに気づく。

 マリアネは沈み込んでいた顔をゆっくりと持ち上げた。

 揺らめく魔力灯の薄明かりの中に立っていたのは、この冷酷で威圧的な魔城にはあまりにも場違いな、大きな枕を抱きしめた一人の少女であった。


「マリアネ……? ふぁ~、おはよぉ」

「……ドマンナ」


 目をこすりながら、欠伸混じりに間延びした挨拶を投げかけてきたのは、彼女──ドマンナだった。

 その容姿は年齢不詳ながら極めて幼く、何の装飾も施されていない純白の薄手な寝間着姿は、どこからどう見ても無防備な人間の少女にしか見えない。

 性格もまた平穏そのものであり、陽の当たる書庫で微睡む司書のような、静謐な空気を常に纏っている。


「いい、目覚めだぁ……」


 彼女が息をするたび、白い吐息とともに小さな水玉が優しく周囲を浮遊していた。


「フフッ。ドマンナったら、今起きたんですか。本当に、相変わらずのマイペースですね」


 寝癖のついた髪と、腑抜けた寝起きの表情を見ると、自然と柔らかな笑みがこみ上げてくる。マリアネの心を覆い尽くしていた絶望の暗雲が、ほんの一瞬だけ霧散した。


「そう~? ……なんだか、任務をこなした後って、いつもより余計に眠気が取れないんだよねぇ」

「昨晩ですか?」

「うん~。ちょっと、地上に行っててねー。そこで、ちょっと事件があって」

「事件……というと?」

「冒険者と敵対しちゃって」

「そ、そうなんですか」

「もちろん、すぐに溺死させたり、凍らしたりして口止めしたよ?」

「へ、へえ……」


 平然と語るドマンナに、マリアネは身震いした。

 その無害な外見に反して、ドマンナは水と氷の法則を完全に掌握する絶対的な実力者、『四神魔界王』の一人だ。

 その幼さに油断した者は、次の瞬間には思考すら置き去りにして氷像へと変わるか、あるいは視認すら不可能な水圧の刃によって四肢を両断されているだろう。


「マリアネも今度、一緒に地上に行かない? 今、ちょうど私が担当しているところで、ゲートが完成するの」

「そ、そうですね。いつか、いきましょう」


 ドマンナは、バリオンらが興じる権力闘争や破壊の享楽に一切の興味を示さないためか、大魔王に仕える魔王の中で唯一、マリアネに私的な親愛の情を向けてくれる存在であった。

 その物静かで争いを好まない気性は、他の狂暴な魔王たちからは『マリアネに次ぐ軟弱者』と侮蔑交じりに見なされている節すらあるほどだ。


(どうして、いつも私を気にかけてくれるのでしょうか……)


 だからこそ、マリアネは常に不思議と感じていた。

 なぜ、これほどまでに穏やかな彼女が、冷酷無比な四神魔界王の座を維持し続けられるのか、と。


「……もう起きたのなら、せめて何か上着でも羽織ってくださいよ。せっかくの可愛らしいお顔も、寝巻き姿では台無しですよ」


 魔王たる者が昼夜の感覚すら忘却して熟睡するドマンナに、マリアネは半ば本気で感嘆の息を漏らす。


「うん……。ねえ、マリアネ。また大魔王様に怒られちゃったの?」


 マリアネは微かに肩を跳ねさせた。


「え……。ど、どうしてです?」

「だって、お顔を見れば……分かるよ。……マリアネは、自分を隠すのが本当にヘタだもん。辛くて泣きそうな顔の上に、無理やり不自然な笑顔を貼り付けてる。そんなことしても、辛いのが二重になって苦しいだけだよ。……私には、分かる。私も、そうやって自分に冷たい仮面を被せる時があるから……」


 マリアネは無意識のうちに、自身の顔に張り付いていた偽りの仮面を撫でた。


「……そう、ですか……。分かって、しまうんですね」

「どうしたの、今日は」

「じ、実は………」


 マリアネは言葉を濁し、回廊に他の気配がいないかと、鋭い視線を一瞬だけ走らせた。


「……聞いてほしいんです……」


 マリアネは他言無用を前置きした上で、玉座の間で下された過酷な宣告の全てをドマンナに吐露した。

 ドマンナは手元の枕を抱きしめたまま、一切の口を挟むことなく、真っ直ぐな瞳でマリアネの告白を最後まで聞いた。


「……二週間、か。……よりによって、マリアネにとって一番キツい命令、出しちゃったね、大魔王様は」

「は、はい。私……もう本当に後がなくて。でも、どうしても人の命を奪うことなんて……」


 ドマンナは苦悩の底に沈むマリアネを見上げ、抱えていた枕を小脇に抱え直した。そして、精一杯につま先立ちをして、マリアネの華奢な肩を小さな手で優しく叩いた。

 彼女の小柄な身長は、限界まで背伸びをしてようやくマリアネの肩に届く程度だった。


「ねえ、マリアネ」

「は、はい……?」 

「……私は、マリアネと、少し……似てるよね。でも私は、大魔王様からの任務はしっかりやるよ。命令だもん。やるしかないんだよ」

「で、でも私は、どうしてもそれができなくて……自分が……恐ろしくて……」

「できるか、できないか、じゃないんだよ」 


 ドマンナはそこで一度言葉を区切り、眠たげに半分閉じていた瞳を、氷のように鋭く細めた。


「『やる』って決めるか、『やらない』って決めるか。マリアネは、どっちも決めてない。……それだけだよ。中途半端なままじゃ、心だけが擦り切れていくだけ」

「やるか……やらないか……決める?」


 その率直な言葉が、マリアネの心に大きく響いた。


「聞いて、マリアネ。所詮、私たちが殺さなかったり、壊さなかったりしたとしても、それは永遠に在り続ける事はないんだよ。私にだって……傷つけたくない大切なものはたくさんある。できれば、人間も殺したくはない。でも、どうせ命は、世界から消える」

「……世界から」

「植物が枯れるように、建物が崩れるように、魂も、その輝きを消す。それを、私が壊すか、時で壊れるかか、その順番が早いか遅いか……それだけ。食用動物を処理するように……生きるために……私はそうやって、『これはただの作業だ』って、自分の気持ちを完璧に騙して任務をしてる。だからさ……任務が終わった後の罪悪感は、息ができないくらいすごいんだよ。……ま、その罪悪感ごと深い眠りに落ちて忘れちゃうために、この枕があるんだけどねっ!」


 あっけらかんと、まるで他愛のない冗談を口にするかのように笑って見せるドマンナの顔が、マリアネには血の涙を流して慟哭しているように見えた。


「……ドマンナも、そんな風に心をすり減らし、苦しみながら……?」

「まあねー……。……でも、私は『四神魔界王』だもん。大魔王様にこの力を認められた、誇りがある。その誇りと居場所を守るためなら、自分の心くらい……何度だって騙してみせるよ」

「ドマンナ……」


 マリアネはこれまで、ドマンナの『やるときはやる』という強靭さを四神魔界王としての強烈な『自尊心』の高さ故だと、心のどこかで誤解していたのかもしれない。


「やはり、あなたは強いですね……ドマンナ」

「そう……?」

「はい……私には到底……」


 曇った表情でうつむくマリアネを横目に、ドマンナは廊下に灯された魔力灯をぼんやりと見つめた。


「不思議だよね……。魔族は何人たりとも人間と関わってはいけない……。どうしてなんだろう。魔族の中にも、人間、亜人と同じような暮らしを求めている人もいるのに。まるでさ、魔族は、『避けられいる』……みたいな、どこかもどかしい感じ……」

「私たちが?」

「うん……。同じ、グランドシオルで生きているはずなのに。一体、私たちの『元祖』って、なんなんだろうね?」


 元祖という言葉が、マリアネの頭の中で大きく反響していた。


「……ごめんごめん。変な話ししちゃった。マリアネも大変だと思うけど、頑張ってほしい」

「え、あ、はい」

「でも、これだけは覚えてて。どれだけ壊すのが好きな人でも、心のどこかには必ず何かが残ると、私は思う。例えバリオンみたいな破壊狂のやつでも。表には絶対に出さないけど、裏では……自分でも気づかない心の奥底では、計り知れない罪悪感と恐怖を覚えてると思うよ」


 ドマンナはマリアネの瞳をじっと見つめてそう告げると、再び枕を抱きしめ直し、静かな足取りで暗い回廊の奥へと去っていった。

 一人廊下に残されたマリアネは、石像のようにその場に立ち尽くす。


(……あのバリオンですら、罪悪感を……?)


 だが、彼らはどのような感情を抱えようとも、最終的には『やる』のだ。

 己の心を騙し、魔王としての誇りを盾に掲げ、その罪悪感を力技でねじ伏せて任務を遂行する。それが可能な彼らと、それがどうしてもできない致命的な欠陥を抱えた自分。

 ドマンナの励ましは皮肉にも、マリアネがいかに魔王として不適合な欠陥品であるかを改めて浮き彫りにする。

 やがて、マリアネの足をその場に縫い付けていた絶望を塗り替えるように、焼けつくような焦燥感が内側から突き上げてくる。

 大魔王グレイへの底知れぬ恐怖……そして、このまま何の決断も下せずにいれば、己の胸の奥底で重々しく蠢くあの暗黒に、魂ごと飲み込まれ、自我を失ってしまうかもしれないという本能的な恐怖が、マリアネを強制的に駆り立てていた。


(なんなの……この力。何でこんなにも、私を急かしてくるの……あなたは、なに?)


 胸に手を当てながら、マリアネは静かに目を閉じた。


(……二週間。私に残された時間は、わずか二週間)


『やる』覚悟も、『やらない』と抗う覚悟も、あるいはドマンナのように『心を騙す』覚悟も、現在の軟弱なマリアネには備わっていない。

 だが、このまま無為に時間を浪費するつもりはない。

  内側で蠢く暗黒の気配が、マリアネの焦燥をより一層苛烈に煽り立てる。


(……道は、一つだけ。……私が、『直接』殺さなければいい)


 大魔王グレイが明確に要求したのは、『人間の首』という事後的な結果のみ。その首がいかなる過程を経て切り落とされたかまでは問われていない。

 病死者、事故死者、あるいは……人間同士の愚かな争いによる死者。そうした、既に命を落とした者の亡骸を探し出し、首を持ち帰ればいい。

 思考がそこに行き着いた瞬間、マリアネの口の中に、酷く苦い鉄錆のような味が広がった。

 魔王でありながら、自らの手で命を奪うことすらできない恐怖と惰弱さの末に、野犬のように死体を漁ろうというのか。なんと卑しく、魔族の誇りすら捨て去った浅ましい思考であろうか。

 だが、今のマリアネには、その極限の卑屈さにすがりつくしかなかった。

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