微かに
風も日差しすら差し込まず、今日という日の空模様の一点も見通せない空間において八千代の笑顔は瑞雲にとってかけがえのない太陽のよう見えた。ずっと近くに置いておいて、片時も離れたくない貴い存在のように思えた。もちろん、彼女に対して瑞雲が特別な感情を抱いているということも考慮しての感情であるのだが。そして、その感情が今敵対している人間に作られた者だということも知っていての感情である。けれども、瑞雲はそうした負のバイアスを無視し、自らが彼女の笑顔の中に見た美しさを心に収めた。このため、瑞雲は微かに顔を赤らめて微笑を返した。端正な顔立ちから放たれる微笑は、彼女の心を少しだけ揺れ動かしたらしく、彼女もまた瑞雲と同じように上気した。
しかし、甘酸っぱい青春の一ページが危機的状況において続くかと言えばそれはまた違うことであった。一人二人と目覚めれば、続けざまに人間は目覚める。特にそれは普段から活発な性格であり、活動と休息の切り替えが上手い人間から目覚めて行く。この雰囲気に合っていない人間であろうとも、それは生理的な性格である以上仕方ないことである。
「ふあ……、あれ、意外と起きてるんだ……」
「起きてるよ。君みたいに寝坊助じゃないのさ」
「誰が寝坊助だよ、武ちゃん。少なくとも賢人様や狩谷、薊よりは寝坊助じゃないさ。それに武ちゃんも今起きたばっかりだろ? だから、俺も武ちゃんも同じさ」
ほんの少しだけ寝足りない様を瑞雲に見せた喜多であったが、寝起きは思えないほど流暢に言葉を紡いでいった。そして、言葉の最後に八千代とはまた異なる太陽のような笑みを、溌溂とした夏の暑い日差しのような笑みを瑞雲に向けた。これに瑞雲は甘酸っぱさを汚されたことに若干の不快感を示しながらも、昨日のような殺伐とした空気感より一時的にもでも脱せたことに喜びを示した。ただし、二つの背反するような感情が混じり合っていたため、瑞雲の顔にはぎこちないはにかみが張り付いていた。
歪んだ瑞雲の表情に、喜多は笑いが零れそうになった。けれども、自らが笑うことによって傍らで安らかに寝続ける者たちが起き上がると思ったため、喜多は自らの笑いを胸の中にしまい込んだ。そして、肩を、体を震わせて何とか自らの愉快に耐えて見せた。
「そんなに笑うなよ」
「いや、まあ、武ちゃんのぶきっちょなのがつい……」
「そんな変な顔を僕はしていたかい?」
「変な顔っていうよりも面白いって言った方が正しいよ。別に武ちゃんが顔を変にしていたわけじゃないよ。ただ、いつもは凛としている武ちゃんが、ちょっとだけ崩れたのが、とんでもなく面白くてさ。気を悪くさせたんだったら、俺は謝るさ」
笑い声を口から漏らしながら喜多は、浅く頭を下げた。適当でその場しのぎの喜多の言動に、瑞雲はため息を吐き出した。呆れが大いに含まれた瑞雲の溜息は、喜多にまで届いた。このため、喜多の体を支配していた痙攣的な衝動は消え去り、喜多は若干の申し訳なさを携えながら顔を上げた。
「悪かったよ」
「別に怒ってないさ。ただ、今の君は普段の君と同じで良いと思っただけだよ。また、面倒くさい君と薊とのやり取りを仲裁しなきゃいけないと思うとさ。面倒くさくてねえ」
「そっちの方が酷いぜ、武ちゃん……」
そっけなく冷たい瑞雲の応対に喜多は、コメディチックにがっくりと肩を落として作り物の言葉を漏らした。これに瑞雲はクスクスと笑い出した。
二人の少年の少年らしいやり取りを眺めていた八千代は、瑞雲に釣られるように笑みをこぼした。彼女からしてみても回帰した日常の間にあるコメディが、楽しくて仕方なかったのだ。あの家で、今はもう敵に暴かれてしまった家で兄を中心に繰り広げられていた仲間たちのやり取りが頭の中で思い起こされて、嬉しくて仕方なかったのだ。そのために、彼女は純粋な笑みをこぼしたのである。
ただ、その反面、八千代の胸の内には虚しさが芽生えた。これはもう二度と戻ってこないあの純粋な青春の面影を地下空間に投影したためである。カーテンを開け、曇っているか晴れているかを見て、一日の気分を考えて、兄を起こして、朝食を作り、モノレールに乗って学校に行き、自分は中学生、兄は高校生として至って普通の学生生活を過ごす、そういった日常が戻ってこないことが、彼女の中に物が無しい象徴として残されたのである。しかし、虚しさよりも寂しさの中に芽生える瑞雲と喜多のやり取りの中に映える美しい青春を見出した。それは俯瞰的に見れば吝嗇的で、侘しい趣味を、貧乏の中に黄金として抱えているような痩せ我慢のような態度を彼女が持ち合わせていたからかもしれない。もっとも、例え、彼女が貧乏根性に基づいた審美眼を持っていたとしても、彼女の目に二人のやり取りは美しく映ったのである。
ご覧いただきありがとうございます。




