一章第一話 プロローグ
俺の名前は赤城健一、二十歳、ごく普通の現場作業員だ。
朝起きて会社に行き、仕事が終わればコンビニで弁当を買って帰る。食事を済ませたあとは動画を見たりゲームをしたりして、眠くなれば布団に入ってねる。休日も似たようなもので、気がつけば一日が終わっていることも珍しくなかった。
「あ〜明日も仕事かよ。休みにならねえかなぁ……」
明日の仕事を思うと、自然とため息が出た。もっと楽に稼げて、女の子にもモテる。そんな都合のいい人生にならないものか。そんなくだらないことを考えながら目を閉じると、いつの間にか眠りに落ちていた。
◇ ◇ ◇
「……ん? どこだ、ここ」
目を開けると、視界いっぱいに白い空間が広がっていた。上を見ても天井はなく、周囲を見渡しても壁らしきものは見当たらない。床はあるようだが、どこまでも白く続いている。
「夢……だよな?」
状況が理解できずにいると、背後から女性の声が聞こえてきた。
「お目覚めですか?」
慌てて振り返ると、長い白髪に整った顔立ちの女性が立っていた。白い衣装をまとい、頭上には光の輪が浮かんでいる。どう見ても普通の人間には見えなかった。
「……女神?」
「はい! 女神アリアです!」
女性は当然のように答え、にこやかな笑みを浮かべている。女神がいるということは、ここは天国なのだろうか?
「アリア様。俺はどうしてここにいるんですか?」
「あなたには、これから異世界へ転移していただきます!」
「……は?」
あまりにも明るい声で告げられ、俺は思わず聞き返した。
「いや、ちょっと待ってください。どうして俺が?」
「普通にダーツで決めました!」
「はぁ!? 何してんのこの人!?」
悪びれる様子もなく答えるアリアに、思わず声が大きくなる。
異世界転移という言葉だけでも十分に理解が追いつかないのに、その理由がダーツとはどういうことだ。
「もっとこう、選ばれる理由とかあるでしょう! 勇者の素質があるとか、世界を救える特別な力があるとか!」
「えー? そういうのは特にないですね!」
「ないんかい!!!!」
即答だった。どうやら俺は、世界の命運を背負うような立派な人間として選ばれたわけではないらしい。
「そもそも、異世界に行って何をすればいいんですか? 魔王を倒せとか、そういう話ですか?」
「詳しいことは、向こうで確認してください!」
「説明を放棄するな!」
俺の抗議を気にすることなく、アリアは笑顔を保っている。こちらは人生がかかっているというのに、ずいぶんと気楽な女神様だった。
「せめて、異世界で生きていけるような力をくださいよ。魔法とか、剣の才能とか、そういうの!」
「うーん……。では、服装だけそれっぽくしておきますね!」
「そこじゃねえ!」
アリアが指を鳴らすと、俺の服装が変わった。いつもの服ではなく、異世界の冒険者が着ていそうな服になっている。確かに見た目だけなら、それらしくなったかもしれない。
だが、服装が変わったところで俺自身が強くなったわけではない。魔法が使えるようになったわけでも、剣の扱いを覚えたわけでもなかった。
「いや、だから能力は?」
「それでは、異世界生活を楽しんでくださいね!」
「話を聞けえええ!」
抗議の声もむなしく、足元が光に包まれた。体が浮き上がるような感覚に襲われ、俺は慌ててアリアへ手を伸ばす。
「ちょっと待て! せめて説明くらい――!」
最後まで言い終える前に、視界が真っ白に染まった。
◇ ◇ ◇
「……ここは?」
目を開けると、そこは見知らぬ森の中だった。周囲には大きな木が立ち並び、頭上からは木漏れ日が差し込んでいる。鳥の鳴き声も聞こえ、空気は妙に澄んでいた。
どうやら本当に異世界へ来てしまったらしい。
「マジかよ……」
夢であってほしかったが、頬をつねっても痛みがある。俺は現実を受け入れ、まずは自分の持ち物を確認した。
財布とスマートフォン。それだけだった。
「いやいやいや、少なすぎるだろ!」
食料も水もなければ、武器も地図もない。財布の中には日本円が入っているが、異世界で使えるとは思えなかった。服装だけ冒険者風にされても、これではどうしようもない。
とりあえず、頼みの綱であるスマートフォンを取り出した。電源は入るし、画面も正常に表示されている。しかし、見覚えのないアプリがいくつも追加されていた。
「なんだこれ……。地図、通信、生活ガイド、ステータス、魔物図鑑?」
異世界に来たせいで、スマートフォンまで妙なことになったらしい。ひとつずつ確認することにした。
最初に開いたのはステータスのアプリだった。
画面には、俺の名前や能力らしき項目が表示されている。
名前:アカギ・ケンイチ
種族:人間
レベル:1
体力:1
筋力:0
防御力:0
敏捷:0
魔力:0
運:0
スキル:なし
所持金:0
所持品:スマートフォン、財布
「……いや弱すぎだろ、ってか運までゼロってなんだよ」
思わず画面を二度見した。レベル1なのは仕方がないとしても、能力値が軒並みゼロというのはどういうことだ。運までゼロとは、女神にダーツで選ばれた時点で運を使い果たしたのだろうか。
「せめて、何かひとつくらいスキルをくれよ……」
もちろん、画面に文句を言っても返事はない。仕方なく、次は生活ガイドを開いた。
そこには、この世界で暮らすための基本的な情報がまとめられていた。貨幣の種類や冒険者ギルドの仕組み、魔法や魔石についての説明まである。どうやらこの世界には、魔法だけでなく、魔石を利用した機械技術も存在しているらしい。
「なるほど。とりあえず、街に行って仕事を探すしかないか」
何も持たずに森で暮らすのは無理だ。まずは食べ物を手に入れ、寝る場所を確保しなければならない。幸い、地図のアプリには近くの街らしき場所が表示されていた。
俺はスマートフォンを頼りに、森の中を歩き始めた。
◇ ◇ ◇
森を抜けると、遠くに大きな壁が見えた。壁の向こうには建物が並び、人々が行き交っている。どうやら、あれが地図に表示されていた街らしい。
「よかった……。人が住んでる場所はあるんだな」
ひとまず安心して街へ向かっていると、道の先を奇妙なものが歩いているのが見えた。四本の脚で荷物を運んでいる、金属製の機械だ。馬車のようにも見えるが、馬はつながれていない。
「なんだ、あれ……?」
近くにいた商人らしき男性に尋ねると、彼は不思議そうな顔をした。
「魔導運搬機を知らないのか? 魔石を動力にして荷物を運ぶ機械だよ」
「へえ……魔石で動くんですか」
「そうだ。重い荷物も運べるから便利なんだ。まあ、魔石の交換には金がかかるけどな」
異世界というからには、もっと中世風の世界を想像していた。だが、魔法と機械が共存しているとなると、俺の知っている常識はあまり役に立たないかもしれない。
商人に礼を言い、街の入口へ向かった。
門の前には兵士が立っていて、入ってくる人々を確認していた。俺も列に並び、順番が来るのを待つ。
「身分証を見せてくれ」
「……すみません、持っていません」
「持っていない? どこの出身だ?」
「ええと……遠いところです」
日本から来ました、と正直に話したところで信じてもらえるとは思えない。俺が言葉を濁すと、兵士は少し警戒するような目を向けてきた。
「身分を証明できない者は、問題を起こすなよ。何かあれば、すぐに詰所へ連れていく」
「わかりました。ありがとうございます」
どうにか街へ入ることはできたが、最初から問題だらけだ。身分証もなければ金もない。仕事を見つけるまでは、余計なことをしないほうがよさそうだった。
街の中には、石造りの建物や木造の店が並んでいた。道を行き交う人々の服装もさまざまで、見た目だけならゲームやファンタジー作品で見たような光景だ。
ただし、俺にとっては観光ではない。腹が減っているし、手持ちの金は使えない。生きていくために、まずは食べ物を確保しなければならなかった。
◇ ◇ ◇
焼きたてのパンの匂いに誘われ、俺は通りにあったパン屋へ入った。棚にはさまざまなパンが並び、店員が笑顔で声をかけてくる。
「いらっしゃい。何にする?」
「このパンをひとつください」
「鉄貨三枚だよ」
「……鉄貨?」
聞き慣れない言葉に、俺は財布を開いた。中には日本円しか入っていない。当然ながら、鉄貨など一枚もなかった。
「すみません。別の通貨は使えませんか?」
「別の通貨? 何を言ってるんだい?」
ですよね。俺だって、ここで日本円が使えるとは思っていなかった。
「……すみません。やっぱりいいです」
空腹を我慢しながら店を出た。パンひとつ買えないとは、想像以上に厳しい状況だ。働こうにも、仕事を探す方法すらわからない。
そこで俺は、スマートフォンの通信アプリを開いた。連絡先には、見覚えのある名前が登録されている。
女神アリア
「……あの女神、これくらいは説明してくれるよな」
呼び出しを押すと、画面にアリアの姿が映った。
『はいはーい! どうしました?』
「どうしましたじゃないですよ! こっちは何もわからないんですけど!」
「あら、もう街に着いたんですか? 順調ですね!」
「順調なわけあるか! 金も食べ物もないんですよ! パンすら買えなかったんですけど!」
「それなら生活ガイドを見てください。冒険者ギルドに行けば、お仕事も見つかると思いますよ!」
「いや、そういうことを最初に説明してくれませんかね!?」
『大丈夫ですって! きっとなんとかなります!』
何を根拠に言っているのか、さっぱりわからない。俺が必死に訴えているというのに、アリアはまるで他人事だった。
「そもそも、俺を異世界に転移させたのはあなたでしょうが!」
『それでは、異世界生活を楽しんでくださいね!』
「ちょっと待っ――!」
通信が切れた。
「……あの女、いつか絶対に文句を言ってやる」
スマートフォンを握りしめながら、俺は深いため息をついた。とはいえ、文句を言ったところで状況は変わらない。今は生活ガイドの言うとおり、冒険者ギルドへ向かうしかなかった。
◇ ◇ ◇
冒険者ギルドは、街の中心にある大きな建物だった。中に入ると、武器を持った冒険者たちがテーブルを囲み、受付では職員が忙しそうに働いている。
壁には依頼書が何枚も貼られていた。荷物運びや清掃、薬草採取、魔物の討伐など、仕事の種類は幅広い。
「未経験者でもできそうな仕事は……」
依頼書をひとつずつ確認していく。荷物運びなら戦闘をしなくて済みそうだが、報酬がどれくらいなのかわからない。薬草採取も、どんな草を集めればいいのか知らないので不安が残る。
そんな中、目に留まったのがスライム討伐の依頼だった。
報酬は銅貨五枚。魔物の中では比較的弱く、初心者でも倒しやすいと説明されている。
「スライムか……。ゲームだと最弱の魔物って感じだよな」
俺の能力値はほとんどゼロだが、相手も弱いなら何とかなるかもしれない。それに、報酬がもらえれば食べ物も買える。
「よし、これにしよう」
依頼書を手に受付へ向かうと、職員の女性が笑顔で対応してくれた。
「スライム討伐ですね。冒険者登録はお済みですか?」
「いえ、まだです」
「それでは、先に登録をお願いします。こちらに必要事項を記入してください」
渡された用紙に名前を書き、簡単な手続きを済ませる。身分証がないことを説明すると、登録自体は可能だが、問題を起こさないようにと念を押された。
続いて、職員からスライムについて説明を受けた。
「スライムは体の中心にある核が弱点です。表面を斬っただけでは、ほとんどダメージを与えられません。核を狙って攻撃してくださいね」
「わかりました」
「それと、武器をお持ちでなければ、貸し出し用の短剣があります。必要でしたら使ってください」
「お願いします!」
今の俺には武器を買う金もない。ありがたく短剣を借り、依頼を受ける手続きを終えた。
「初めての討伐ですので、無理はしないでくださいね。危険だと思ったら、すぐに撤退してください」
「はい。ありがとうございます」
受付の女性に見送られ、俺はギルドを後にした。
街の外へ出ると、少し離れた草原に小さな緑色の生き物がいるのが見えた。丸い体を伸び縮みさせながら、こちらへ近づいてくる。
あれがスライムだろう。
「よし……。初仕事だ、落ち着いていこう」
俺は短剣を構え、スマートフォンの魔物図鑑を開こうとした。相手の情報を確認してから戦うつもりだったのだが、スライムは待ってくれなかった。
「おっ! オレと勝負するのか? よーし、負けないぞ!!」
「しゃべったあああ!?」
予想外の言葉に、思わず手が止まった。スライムは元気いっぱいに体を弾ませ、俺との勝負を楽しみにしているようだった。
「いや、待て待て! まだ準備が――」
言い終える前に、スライムが飛びかかってきた。
「うわっ!」
慌てて横へ避ける。スライムは地面に着地すると、すぐにこちらへ向き直った。動きは単純に見えるが、思っていたよりも速い。
俺は短剣を振り下ろした。しかし、スライムの体は柔らかく、刃が表面に沈むだけで手応えがない。核を狙わなければ意味がないという、受付での説明を思い出した。
「くそっ、どこにあるんだよ、核!」
スライムは俺の攻撃を避け、再び飛びかかってきた。今度は何とか身をかわしたものの、着地したスライムに反撃しようとして、またしても攻撃を外してしまう。
相手の動きを見ているつもりでも、狙った場所に刃を当てられない。頭ではわかっていても、体が思うように動かなかった。
「おまえなかなかやるな! でも、オレだって負けないぞ!」
「なにがやれてるんだよ!!!」
俺は息を切らしながら距離を取った。ステータスが低いからなのか、それとも単純に戦闘経験がないからなのか。理由はともかく、今の俺にはスライム一匹を倒すことすら難しかった。
しかも、相手は楽しそうに話しかけてくる。敵なのか友達なのか、わからなくなってくるが、こちらは本気で困っている。
スライムが再び体を縮めた。飛びかかってくる前の動きらしい。俺は短剣を構えたものの、今度こそ攻撃を当てられる自信がなかった。
「……無理だ。これ以上は危ない」
依頼を達成できなければ報酬はもらえない。だが、怪我をして動けなくなったら、それこそ生活できなくなる。ここは無理をする場面ではない。
「戦略的撤退いいいいい!」
俺はスライムに背を向け、全力で走り出した。
「えーっ! もう終わりなのか? また勝負しようなー!」
背後から聞こえる声に返事をする余裕はなかった。最弱の魔物だと思っていた相手に、まさかここまで苦戦するとは。異世界生活は、俺が想像していたものよりずっと厳しいらしい。
◇ ◇ ◇
冒険者ギルドへ戻ると、受付の女性が俺の顔を見て心配そうに尋ねてきた。
「お帰りなさい。怪我はありませんか?」
「大丈夫です。ただ……依頼は失敗しました」
俺は借りていた短剣を返し、スライムにまったく歯が立たなかったことを説明した。受付の女性は驚くことも責めることもなく、静かにうなずいた。
「そうでしたか。でも、無事に戻ってこられてよかったです。危険だと思ったときに撤退するのも、大切な判断ですよ」
「……ありがとうございます」
その言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。失敗したことは悔しいが、無理をして怪我をするよりはよかったのだろう。
ギルドを出た俺は、もう一度パン屋の前を通りかかった。店先には、さっきと変わらず焼きたてのパンが並んでいる。腹は減ったままだが、買う金はない。
「明日は荷物運びでもやるか……」
戦闘ができないなら、別の仕事で稼ぐしかない。地道に金を貯めて、食べ物と寝る場所を確保する。今の俺にできるのは、それくらいだった。
スマートフォンを取り出し、生活ガイドをもう一度確認する。わからないことは山ほどあるし、アリアに頼ったところでまともな説明が返ってくるとは思えない。自分で調べて、自分で考えて、この世界で生きていくしかないのだ。
「……はあ。異世界に来たら、人生が変わると思ったんだけどな」
特別な力もなければ、金もない。戦えばスライムにすら勝てず、食べ物ひとつ買うのにも困っている。夢に見た冒険者生活とは、ずいぶん違っていた。
それでも、立ち止まっているわけにはいかない。明日も食べるためには働かなければならないし、少しずつでも、この世界のことを覚えていく必要がある。
俺はスマートフォンをポケットにしまい、街の中を歩き始めた。
こうして、何の力も持たない俺の異世界生活が始まった。
続く




